15 祈りに似ている
薄闇を掻き分けるように二騎のチョコボが平原を疾走する。
眼前に聳え立つ<アレクサンドリアの屋根>が徐々に大きくなってくる。北側手前に突き出た低めの頂が狭霧峰だ。いつもなら分厚い真っ白な雲に閉ざされているはずの山肌の一部が露出している。
その異変に真っ先に気付いたのは先頭を駆けていたジタンだった。
「霧を吹き飛ばしたんだな…レオンの仕業か」
風を切って走りながら洩らしたその呟きを、ルシアスが耳ざとく聞きつける。
「剣技を使ったってことですか」
「多分な」
ではもしかするとかなり追い詰められているのかもしれない。唇を噛み締めるルシアスの背中で、エルナが鼓舞するように叫んだ。
「とにかく、それなら彼が無事だってことは確実ですね!急ぎましょう!」
その声に、ルシアスははっとしてほんのり目元を朱に染めた。
悲観的になりがちな自分が見えてしまったのだ。
そして――不思議だった。
自分の心を見透かしたような彼女の言葉も、その言葉が自分に力を与えてくれるのも。
手綱を握る手にいっそう力をこめ、ルシアスはチョコボを急がせる。
が、近づくにつれて、ちょうど穴になった部分の霧の奇妙な動きが見えてきた。どこから湧き出したのか、見る間に勢いを増す黒雲が白い霧を侵食し始めたのだ。
「変な雲ですね。あれ…何なんだろう」
併走する父親を振り仰いでルシアスはぎょっとした。ジタンの顔色が変わっていたからだ。
「あれは…」
途切れたジタンの言葉をエルナが継ぐ。
「黒魔法、ですね。おかしいわ。あの戦役から後、黒魔法に関する知識も書物も完全に隔離され封閉されたはずなのに」
焚書、までには至らなかった。黒魔法もガイアの大地に根付いた文化の一つに変わりはなかったからだ。だが、リンドブルム、アレクサンドリア、それから(復興途上の暫定国家ではあったが)ブルメシアも含めた三大国で協議された結果、国家及び国土に甚大な被害をもたらすものとして黒魔法は厳しい制限をうけることになったのである。その際、もともと使用者を限定する召喚魔法は対象から外された。もはやガイアにおいてそれを継承するものはアレクサンドリア女王とその息子、そしてリンドブルム大公女しかいないのだから。
それにしても、その黒魔法をいったい誰が唱えていると言うのか。しかも低位魔法ですらない。
「あれは最高位の魔法だぞ。そのぶん詠唱も死ぬほど長いが、雲が発してるってことは、もうそれも終わりに近いってことだ。…くそっ、ここからでは…間に合わん!」
血を吐くような父親の呻きに、ルシアスは胃が捻れるような思いで正面を向いた。
雲はどんどん厚味を増し、時おり中に大きな稲妻が走る。
息を呑み、チョコボを走らせつつ硬直している二人の男を、背後からエルナが叱咤した。
「諦めないで!殿下、あなたの力ならなんとかなるかもしれない。あの黒雲の下を思い描いて。そして飛ぶの」
「飛ぶって…」
「あの場所に行きたいって念じるの!目を閉じて。」
「目を?」
「早く!!」
エルナが叫ぶと同時にバッと閃光が走った。
並んでいたジタンはとっさに腕で顔を覆い、その光から離れる。
「どうした!?何をするつもりなんだ」
叫んでジタンは薄目を開ける。
――が、瞬く間に風に攫われて消えた光の後には、もう何も残っていなかった。
隣を走っていたはずの二人の姿が、忽然と消え去っていたのだ。チョコボごと。
遠駆け…。
話に聞いたことしかない、すでに伝説の域の能力だ。だがまぎれもなく自分の息子がその力を発揮したのだと、父親は認めざるを得なかった。そして同時に、娘の命も、彼に託すよりないことを悟ったのだった。
走った。木々の枝や葉が自分の体にぶち当たって、体のあちこちに傷が入っているのは分かっていたけれど、彼女は足を止めなかった。振り向きもしなかった。
ゆらりと立ち上がり、最後の力を振り絞って自分を助けようとしてくれたレオンの心と命を無駄には出来なかった。助からなければ。逃げなければ。その思いだけが、ビビアンの体を動かしていた。
道なき道をひた走る彼女は、自分の頭上を反対側に走ってゆく黒い雲に気づかなかった。もともと鬱蒼と茂る深い森の中である上に、とにかく麓に駆け下りることしか頭の中に残っていなかったからだ。もっとも気がついたとしても、彼女にはその正体は全く分からなかっただろう。その方が幸せかも知れなかった。
雲は足を速め、どんどん厚さを増してゆく。中腹の村全体を覆い尽くすのにさして時間はかからなかった。
足元に落ちていた自分の影があっという間に薄らいでゆく。上空に雲がかかったのか。激しく肩を上下させながらレオンはちらりと上を見た。それだけの余裕はあるはずだった。もう敵は数人しか残っていない。
最初は手心を加えていたレオンも途中からそんなゆとりはなくなった。手足の感覚は完全に失われ、こみ上げてくる不快な嘔吐感が絶え間なく彼を襲う。冷たく凍えた四肢とは逆に体の中は焼け付くようだ。
エクスカリバーが手から離れないから何とか敵をなぎ払うことが出来た。足を折ってしまわないで済んでいるのは、ここを通せばビビアンの後を追われてしまうからだ。
とにかく死んでも彼女を守り通さねばならない。その気持ちだけが彼を支えていた。
次々と繰り出される剣を交わし、叩き落し、相手の息の根を止める。それだけで限界だった。そして無我夢中で切り結んでいるうちに――気がつけば敵は数人にまで削られていたのだ。
視界も赤く染まっている。眼球にも出血がみられるのかもしれない。だがそんなことは構っていられなかった。振り仰いだ空に、渦巻く不気味な黒雲を見止めた彼は、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
流星を雨霰と地表に叩きつける黒雲だった。
最も広範囲に、効果的に大ダメージを与える究極の黒魔法「メテオ」。その存在を彼は知っている。むろん目にするのはこれが初めてで――おそらく最後だ。この魔法の炎の雨の下で生き残れるものなどこの世界にはいない。それほどの威力を持つ究極魔法の一つなのだ。昔炉辺で父親が語ってくれた話を思い出し、レオンは呆然とその雲をみつめていた。
そのとき、どんっ、という鈍い衝撃が彼の腹を直撃した。
彼の動きが止まったことに気づいた敵が、いきなり体当たりをかましたのだ。レオンはゆっくりと視線を自分の胸元にある黒い頭に落とし――それから自分の腹に移した。敵の手には短刀が握り締められていた。だがその刃先は殆ど見えない。彼の腹にしっかりと食い込んだその刃を、男は思い切り引き抜いた。熱い赤い血が噴出し、見る間にレオンの足を赤く染めあげる。
ぐらり、と視界が揺れた。絶望感が彼の体を貫くが、それは刺されたせいではなかった。たとえ深手を負わなくとも、あの雲がいずれ同じ末路を彼にもたらしただろう。その、喩えようもない絶望感。
小屋の中に隠れているといっていた…ビビアンが見つけた子どもも、もう助からないのだ。この場にいる者はすべて一蓮托生の運命の掌の上に載せられてしまった。
遠くなる意識の底で、自分の鼓動だけが妙に耳につく。規則正しいその音は、死へのカウントダウンに他ならなかった。
下半身をおびただしい血で塗らした男は、空ろな目をもう一度宙に向けた。
ビビアンはこの雲から逃げられているだろうか。
最後に彼の頭に浮かんだのは、ただそれだけだった。
突如目の前に出現した光の球に、ビビアンの足が止まる。一緒に心臓も止まる寸前だった。
追手はとうとうここまで迫ってきたのか。
手にした剣を構えなおすと、ビビアンは腰を落として襲撃に備える。
が、現れたのは敵ではなかった。チョコボに乗った二人。うち一人は彼女の実に親しい人間だった。
「に…兄さま!」
懐かしい姿を見つけるや、彼女は剣を放り出して地面に降り立ったルシアスにかじりついた。
「大丈夫だよ、ビビアン。もう大丈夫だから。安心して」
抱きしめてくれる力強い腕。慣れ親しんだ温もり。ふっと、足から力が抜けそうになるのを懸命に踏み堪えて、ビビアンはすがるように兄を見詰めた。自分のことはどうでもよかった。それよりも――。
「レオンが、レオンがまだ村の中にいるの!あたしを助けるために一人で戦ってるの」
双眸から溢れる涙を拭いもせずに、大きな目を見開いて彼女は懸命に訴える。
「何だって!?」
そう言えばレオンの姿がない。自分が思い描いたのが『ビビアン』だったことに今更ながら思い当たったルシアスは、絶望に沈みそうになる自分を力づくで振り払った。
顔を上げ、背後の修道女を振りかえる。蒼玉とも讃えられる双眸に宿る、かつてない力強い煌きが修道女を射抜いた。
「エルナ――もういちど、力を貸して」
断ることも逡巡することもできなかった。請われるがままエルナはその手を受け止める。
ルシアスは立ち上がり、そっと妹の体を遠のけた。そして。
「レオンの下に飛ぶ」
言葉の終わらぬうち二人の手は固く結ばれ、その瞬間白光が閃いた。
風が起こったような気がした。
あまりの眩い光に思わず閉じた瞼を恐る恐る開けたときには、もう辺りには人影はなかった。チョコボだけを残して消え失せた二人の跡を呆然と眺め、ビビアンはへなへなとその場に崩れ落ちた。
いったいどこまでが夢でどこまでが現なのか。分からぬまま、それでも彼女はいつしか両手を固く握り合わせていた。
どうか――どうか彼を助けて。
彼が助けてくれた命だから、それを守り通そうと思った。
けれども彼がいなければ生きている意味なんてなかった。
身を切られるような…心が砕け散ってしまいそうな苦痛があるのだと、この時、生まれて初めて彼女は知ったのだった。
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