20 永訣――もしくは、果てのない愛(2)

「そんな…」
 広間の隣の小部屋。突然切り出された父親の話に、ビビアンはただでさえ大きな目を更に大きく見開いてそう呟くなり絶句した。
 傍らに立つ黒髪の青年の方は、かすかに唇を噛み締めただけだった。
「予測していた…か」
 その反応を読み取ってジタンが洩らす。
 ルシアスは表情を殆ど変えずに頷いた。
「トット先生が、地脈のゆがみを正す方法はないわけではないとおっしゃった時から、いつかはこんな時が来るのではないかと危ぶんでいました。まさかこんな早くに訪れるなんて…思いもしませんでしたが」
 本当は笑いたかった。自分が招いたのかもしれないこの状態を少しでも安定に導くために、両親は危地に赴くのである。笑って、感謝して、そして後顧の憂いなく発ってもらうのが一番だと思っていた。だが感情は彼の理性の言うことを聞いてはくれなかった。
「僕が…」
「ルシアス。それは禁句だ。言い始めたらきりがない。俺がもっとしっかりしていたら、ダガーを説得できてたんだ――とでも俺に言わせたいか?」
 ルシアスは唇をきつく噛んで、首を振った。
「大なり小なりお前の存在は現在の状況に関与しているのかもしれん。だがな、そこに別の邪念が絡んでいるのは明白だ。お前がいなくなっても完全なる安寧は訪れん。いくつかの要因のうち、一つは俺たちが封じてやる。残ったゆがみを矯正するのがお前の役目だ。逃げ出すなよ」
「…はい」
 キッと、彼は顎を上げた。黒い目が澄んだ青い目を凝視する。
「待ってよ!二人だけで納得しないでよ!どうして?なんでそこまでしなきゃいけないの!?なんでお父様とお母様が行かなきゃいけないの?あたし…あたしはいや!父さま母さまと別れるなんて、あたしは絶対にいや!ルシアス兄さまだっておかしいわよ。どうして平気な顔できるの?予測してたって、それ何よ。あたしだけ何にも知らなかったの?あたしは絶対認めないから!何もわざわざそんな危険な方法を選らばなくったっていいじゃない。探せば他に方法があるはずよ!」
 驚愕から立ち直ったビビアンの怒声が、狭い部屋に鳴り響いた。
 仁王立ちになり、小さな肩をいからせて、拳をふるふると小刻みに震わせている。
「ビビアン…。他に方法は見つからなかったんだよ」
 穏やかに口を開いたのはルシアスだった。
 頭のてっぺんからつま先まで感情で一杯の愛娘に理屈が通じないのがわかっているジタンには、返す言葉がなかったのだ。
「じゃあもっと時間をかけて見つければいいじゃない。こんなに急がなくてもいいじゃない!」
「時間をかけた分だけ、人が死んでいくんだ」
 静かなルシアスの言葉に、ビビアンははっと息を詰めた。
「女王陛下の側で僕も執務の様子を見せてもらってたから分かるんだけど。天災が起こるたびに、何十人、何百人の単位で人の命が失われていってるんだよ。僕たち王族の役目は、それを何とか食い止めて、人々が少しでも平和に、安らかに暮らせるような国をつくることなんだ。そのために、僕らは全力を尽くさなきゃいけない」
 兄の言うことが分からないわけではない。だが、どうしても承服できない。その苛立ちが、言葉になって迸り出る。
「だからって何で命まで捧げなきゃいけないの?あたしたちの命だって、その人たちの命と変わらないじゃない。あたしにとっては父さまも母さまも、たった一人の、かけがえのない人なのよ!?どうして引き換えにしなきゃいけないの」
「ならお前はこの城から出て行け。服も靴も脱ぎ捨ててな」
 不意に、容赦のない言葉がビビアンに浴びせられた。
「俺たちは自分の手で何も生み出さん。俺たちが手にしているものはすべて元をただせば民が俺たちに捧げてくれたものだ。それがなぜだか考えてみろ。別に王族がトクベツだからじゃない。俺たちが国と民を守るために存在してるからだ。それが王家ってもんなんだ。これ以上無為無策のまま民を見殺しにするなんぞ、ガーネットに出来ると思うか?」
「でも…」
「だからわからねえならここから出て行けと言ってる。解らん奴に王女の資格はない」
 解っている。理屈ならビビアンだってよくわかっているのだ。だからもはや彼女に反駁する言葉は残っていなかった。
 見る間に盛り上がってくる涙を見せたくなくて、彼女はくっと口をへの字に曲げると、凄まじい勢いで踵を返した。
「ビビアン!」
 呼び止める兄の声も聞かず部屋を飛び出す。
「ビビ…」
「放っておけ。あいつも頭では理解しているんだろう。だから今何を言ったところで無駄さ」
「父上…」
「お前、最後までその呼び方だな」
 呆れたように呟いて、ジタンは軽く肩を竦めてみせた。それから少しばかりおどけた様子で息子の額をつつく。
「泣き虫だったお前が、よく我慢したな。絶対泣くと思ってたんだが」
「ちっ、父上!また僕をからかってるでしょう」
 ジタンは頬を心持ち上気させて言い返す息子の頭を羽交い絞めにして、力任せにぐりぐりと撫でまわした。
「はは。褒めてんだよ。これなら安心してお前に後のことを託せる。この国も、それからビビアンも」
 そうして彼はふと真顔に戻り、静かに言葉を落とした。
 強くなったな、ルシアス。

 頭の上の父の吐息が、ルシアスの全身を駆け巡ったような気がした。

 強くなった。

 ずっと、…欲しかった言葉だった。
 ずっと、…憧れていた父から。

 気がつくと、東の対まで来ていた。
 頬にこびりついて乾いた涙の後を、ごしごしとこすって消す。
 誰の姿を求めて来てしまったのか、あまりにもあからさまで、ビビアンは次の一歩がなかなか踏み出せなかった。

 レオンはもうこのことを知っているだろうか。
 現国王が、その王位を息子に譲り渡すことと、その理由を。


 石を積み上げた高い塔を見上げて、王女は小さなため息をついた。

 トレノから戻ってきた修道女は、王宮内に設けられた小さな礼拝堂を清めていた。普段ここを訪なう人は滅多にいない。一人になるには恰好の場所だった。
 帰ってきてからずっと頭のどこかにこびりついている僧侶の影を振り払うように、彼女は黙々と長椅子を拭きあげてゆく。息遣いと乾いた布のこすれる音が石造りの固い壁に弾かれて響きわたる。
 ふと、彼女は手を止め、顔を上げた。遠くから聞こえる微かな挟雑音に気づいたのだ。
 それは足音だった。ためらいがちに、不規則な足取りで近づいてくるその音は、次第に大きくなって、礼拝堂の扉の前で止まった。少しの間を置いて、静かに軋みながら扉が開く。
 立っていたのは、黒髪の青年だった。
「エルナ…少しだけ、ここにいさせてもらっても、いいかな」
 掠れた声。
 頬が削げて見えるのは、彼が少年期を脱したせいだろうか。それとも何か悩みでもあるのだろうか。
 何も知らない彼女は戸惑いを隠して笑った。
「ええ、かまいませんわ。どうぞ、お入りになってください。ごめんなさい、今掃除中で、ちょっと散らかってますけど」
「…ありがとう」
 はにかんだように王子は笑みを返す。
 海の底を思わせる印象的な蒼い瞳が、まっすぐにエルナを見つめた。

「ああ。知っている。明日にでも議会が召集されるだろう。そこで正式な発表があるはずだ」
 レオンは詰所にいた。
 現れるなり「ねえ聞いて!父さまと母さまが…!」と叫んだかと思うと、今にも泣きそうな顔で俯いてしまった王女を、彼は困ったように眺めた。
「入れよ。んなところに突っ立たれちゃ、目立って仕方ない」
 いつもなら言われる前にずかずかと中に入り込んでくる王女なのに、今日は戸口で固まったままだ。仕方なく促すと、やっとビビアンは顔を上げた。
 一生懸命涙を拭った後が頬に残っている。
 柄にもなくレオンの胸が痛んだ。
 父親であるスタイナー元帥からその話を聞いたときにはレオンでさえ心臓が潰れそうだったのだ。ましてやまだ稚さの残るこの少女の衝撃はいかばかりか。鈍感なレオンにも容易に想像できた。
 だが、一つだけ彼の予想と大きく食い違っていたことがある。
 頬に残る涙の跡。
 天衣無縫なこの王女は、きっと地団駄を踏んで泣き喚くに違いないと思っていた。こんなふうに、一生懸命感情を圧し殺して――しかも自分のもとにやってくるとは考えもしていなかった。その意識の隔たりが、いわく形容しがたい衝動を彼にもたらす。
 なけなしの理性を総動員して平静を装い、王女を慰めるというただ一点に意識を集中させて彼は立ち上がった。
「ほら。入れよ」
 細い腕を取って引っ張る。と、王女は足を踏み出せず、その場にへなへなと崩れ落ちそうになった。慌ててその体をレオンが抱きとめる。
「…大丈夫か?」
 我ながらなんとまあ軟弱で陳腐な言葉かと笑いたくなる。だが他に言葉は見つからなかった。すがりつくか細い体の震えが彼から言葉も思考も奪い去ってしまったのだ。
 後はただ、その小さな体を支えてやることしか彼にはできなかった。
 
 とっさに差し伸べられた手の力強さが、一瞬彼女の心を鷲掴みにする。
 それはあまりに温かくて。
 悲しみも寂しさもその手に溶け出してしまいそうだと王女は思った。
 冷たい孤独が体のうちを駆け巡っていても、この手と胸があれば立っていられそうな気がした。たとえ――そのやさしさが同情であっても。

 晴れた日だった。
 イーファの樹から戻ってきたジタンとガーネットは、その足で〈輝く島〉に向かうことになった。時空の裂け目は閉じなかったのだ。クリスタルは動かなかった。
 一旦城に戻り、すでに床から起き上がることができなくなっていたトット先生に面会したジタンの最後の言葉を、先生は後日こう書き残している。

『クリスタルがまるで何か強大な力に抑えつけられているようだったと、陛下はそうおっしゃった』――と。そして『この言葉の持つ意味を、当時の私は理解することができませんでした』とも。

 とまれ、彼らは最終目的地に向かわねばならなくなったのだ。
 譲位は済ませた。後顧の憂いがないといえば嘘になるが、身軽になった彼らがひっそりと自分たちだけで出立するのには何の差し障りもない。ジタンは妻を伴い、小さな自分専用の船に乗り込んだ。
 英雄になる必要もなければ、なる気もないのだ。物々しい見送りはごめんだった。
 とはいえ、子どもたちとスタイナー一家を乗せた船の随行だけは拒むことができなかった。

 二隻の飛空艇は甲板の位置をそろえつつ、彼の地を目指して飛行する。
 雲ひとつない快晴だった。悲しいくらい透き通った蒼い円天の向こうに、小さく白く光る点が見え始める。島の上空にぱっくりと開いた時空の穴だ。ここからでは光の点にしか見えないが、島の大きさと比べてみれば、それがどれだけ巨大なものかよくわかる。
 王女はずっと、甲板の手すりから身を乗り出すようにして、並走する父母の船を見つめていた。が、前方に島影と光点が見え始めるや、小さな叫び声を上げてレオンの下に走り寄った。きゅっと、彼の右腕を抱きしめるように胸に抱え込む。そうでもしなければ、もうすぐ訪れる最期の瞬間を耐えられそうになかった。

 王子はその向こう側、舳先近くに立っていた。
 強い風に煽られて髪留めが飛ばされ、肩まで伸びた黒髪が青空になびく。それまで操舵室に控えていたエルナが、髪留めの変わりに自分のタイを外してそっと王子に近づいた。
「もうすぐ、お別れでしょう?お姿を整えなくては。おぐしを――」
 そう言って彼女は風に暴れる王子の黒髪を背中でまとめ、タイを結んだ。
 いいよ、どうせまた乱れるんだから、と言おうとして振り向きかけたルシアスは、彼女の顔を見て口を噤む。
 エルナは目に涙をいっぱい溜めていたのだ。
「…うん。ありがとう、エルナ」
 王子はなされるがまま、髪を彼女に預けた。

 最期の時が近づいてくる。
 見る間に大きくなった光る口は、いまや目前を占有している。
 その圧倒的な光量に、ジタン以外の誰もが言葉を喪っていた。
 光と共に質量の感じられない何かの力が放出されているのがわかる。それは「歪み」としか形容できない正体不明の「違和感」だった。だがその「違和感」がこの世界に影を落としているのは間違いない。――そう、彼らの本能は告げていた。
 この中に飛び込もうというのだ。何があるかわからない、向こう側の空間に。
 それを勇気と呼べばよいのだろうか。それとも暴挙というべきなのか。
 いや、運がよければ彼らは帰ってこられるかもしれないのだ。最期と言うには早すぎるし、英断だったと評せる日だっていつか来るかもしれない。
 誰もが胸の中でそう想い、そう願っていた。

 ジタンの専用船が自動操縦に切り替わり、二人が甲板に姿を現す。彼らは子どもたちが佇む左舷の縁までやってくると、晴れやかな笑顔を見せた。
「しけた面すんな!ダガーも俺も、やっとしがらみから解放されるんだ。もっと喜んだっていいくらいなんだぜ。俺たちの役目は済んだ。今度はそれをお前たちが引き継ぐ番だ!」
 舷がぶつかるほど近寄っていても、声は半分以上風に攫われてしまう。自然、風情もへったくれもない大声での会話になる。
「あなたたちの幸せを祈っているわ。いつも、どこにいても、ずっと祈っているわ!ルシアス――ビビアン!」
「母さま!」
 弾かれたように、ビビアンがレオンの腕を放して手すりに飛びつく。
「母さま!お願い、あたしを置いていかないで!」
 ビビアンは必死に母親に向かって手を差し伸べた。だがガーネットはその手を取らなかった。
「私が母を失ったのも、16の時だったのよ。あなたたちならきっと立派に――やっていけるわ」
 代わりに彼女は、力強い眼差しで娘を見つめた。
「でもその時、母さまには父さまがいたんでしょう?あたし――あたしは…!」
「あなたにも、いるじゃない、ビビアン」
 母の言葉に、ビビアンは自分のすぐ後ろに控えてくれている青年の存在を思い出す。ぱっと、頬に紅が散る。
「そのうえあなたにはお兄様までいるのよ。甘えては駄目。いつでも前を見て、そしてあなたもお兄様を支えてあげて!いいわね。それを忘れないで!」
 船が離れ始める。
 時空の口に近づきすぎて、安定が保てなくなってきたのだ。
「ルシアス!立ち向かえ!俺はいつでもお前を見守ってる。きっと、うまくいく!」
 ジタンが片目をつぶり、手を大きく振った。
「父上!」
 初めて、ルシアスが声を上げた。自分でも驚くくらい、今まで出したことのないような大声で、彼は叫んだ。
「父上!僕は――大丈夫ですから!」
 離れてゆく船の甲板で、金髪の父親がにっこりと笑ったのがわかった。
 太陽のような笑みだった。
 ジタンたちの船は高度を上げ、光に向かって進み始める。船はどんどん遠ざかってゆく。
 その時不意に空砲が鳴った。
 光の洪水に紛れて、もう一隻の飛空艇が近づいてきていたのだ。――いや、もう二隻の船だ。
 
「あれは…」
 小さな船の甲板でガーネットの肩を引き寄せていたジタンが、呆気に取られた顔で呟く。

「ヒルダガルデ号…」
 こちらではルシアスが呆然として呟いていた。

 目の前を悠々と通り過ぎてゆく金色の船体。甲板にはシド大公とエーコ公女、ついでに蒼い肌と炎の髪の男が見える。
 その右舷から航路に侵入してきたのはブルメシアの御座船である。
「フライヤ殿…フラットレイ殿も」
 子どもたちと同乗していたものの、操舵室に控えて事の次第を見守っていたベアトリクスは、その船上に見えた人の名を思わず口にしていた。それから傍らの夫を見上げて『あなたが?』という顔をする。
 黙って舵を取っていたスタイナーは白髪の混じる髪をがしがしと掻いて、ふん、鼻息を洩らした。
 今回ジタンが独断専行しようとしたことをガーネットにばらしたスタイナーは、そのついでにリンドブルムとブルメシアにも報を送っていたのである。
 これが最後になるかもしれない。そして、彼らはみな、あの戦いを共に生き抜いた仲間だった。
 
「やってくれるぜ…おっさん」
 ジタンたちの周りをゆっくりと旋回する二隻の飛空艇。その甲板でこちらに向かって敬礼を贈るかけがえのない仲間たちの姿を目にして、ジタンはそれ以上何も言えなくなる。
 もとより声もなく見入っていた傍らの妻は、そっと夫の手に自分の手を滑り込ませた。その細い指をぎゅっと握り締めて。
 二人は首をめぐらし、二隻の船を――仲間たちを見つめ続けた。

 空間の歪みの影響でかなり揺れる甲板に佇む父たちの仲間。
 国王が、大公がこの場にやってくることがどれだけ大変なことか、ルシアスにだって解る。それでも駆けつけてくれた人々だった。
 その強い繋がりが、彼の胸に迫ってくる。
 いつしかルシアスはエルナと手を握り合っていた。
 自分にもこうして、ここに仲間がいるのだと、感じたかったのかもしれなかった。

 涙ではなく、敬愛を込めた敬礼で見送る母たちの仲間を見上げて、ビビアンは手すりから手を離した。
 そうだ。笑顔で見送ろうと、心に決めていはずだったのだ。
 王女はくいっと涙を拭うと、一生懸命口の端を曲げた。形だけでもいいから、笑おうと思った。
 いつのまにか隣に立っていたレオンが、その彼女の頭を無造作に自分の胸に引き寄せた。
 彼もまた何も言わなかったけれど。
 けれど、その腕から彼の想いは伝わってきた。

 そうだ。
 仲間はここにいる。
 仲間たちと共に、今度は自分たちが道を切り開いていかねばならないのだ。
 それは皆の、同じ思いだった。


 小さな船を呑み込んで、光の渦はその瞬間、爆発的な閃光を放った。
 あたり一帯何もかもが真っ白に埋め尽くされる。
 ほんの数刻の後、潮が引くように光は薄れた。
 それまでそこにあった歪みは嘘のように跡形もなく消え去っていた。

 そして、船は、二度と戻ってくることはなかった。

 

第一部〜fine〜