ある幸せな朝の庭

 

その日もトット先生はごきげんで王宮の中庭を横切っていた。
両手には、新たに仕入れた古文書を山ほど抱えている。
かなりの嵩と重さがあるが、トット先生にとってはむしろ快い重量だった。
が、突然それが、ふっと浮いたように軽くなる。
「陛下」
目の前に現れた人影に、トット先生は思わず声をあげた。
自分の手に、先生が持っていた本の山をそっくり預かった彼は、得意げに尻尾を動かす。
「その呼び方はやめてくれよな、トット先生。で、これ、どこまで運べばいい?」
「いえいえ陛下、お心遣いなさいますな。なんの、これしき私でも運べます」
ちょうど通りかかったジタンの目に、本に埋れたトット先生が飛び込んできたのだ。気がついたら彼は先生に手を貸していた。自分でも、意識なんてしていなかった。
だが先生は恐縮して、その書物を引き取ろうと懸命に手を伸ばす。
ひょい、と頭上にその本の山を持ち上げて、ジタンはトット先生の手をかわした。
「いいって。もってってやるよ。どうせ今日も俺に手伝わせるんだろ?だったらこれを運ぶの手伝ったって、たいして変わんないじゃないか」
屈託のない国王陛下のその笑顔が、トット先生は大好きだった。
「いやはや、恐縮でございますな」
両手が解放された先生は、胸元から取り出した白布で、ご自慢の眼鏡を丁寧に拭きあげる。それをまた鼻の上に戻すと、朝陽を弾く綺麗な金色の髪を見上げた。
人の心を自然に明るく力づける、夏の朝の日差しの色だ。
そしてこの若い陛下の澄んだ双眸は、まるで夏の空を映す海の底のようなのだ。
不思議に透き通っているのに、不思議に深い。
「?俺の顔に何かついてる?」
自分をジーっと凝視する先生の視線に気付いて、ジタンがどことなく居心地悪そうに訊ねた。
「いえいえ、ただ、陛下のそのおぐしに見とれていたのでございますよ。そのような美しい金髪は、このアレクサンドリア…いいえ、この大陸ではそうそう見ることはできませんので」
「そうか?この髪が?」
手が塞がっているので自分の髪を引っ張ることができず、ジタンは目だけで自分の額を見ようとする。見えるわけもないのだが。
思いっきり上を向くその仕種は、まるで小さな子供のようで。
逞しい青年の体に、純な少年の瞳が宿っている、とトット先生は思う。
この青年に心惹かれたガーネット姫の気持ちがよく分かる。先生に言わせれば、ガーネット姫は慧眼の持ち主であった。
ふと、トット先生はある衝動に駆られた。
国王陛下の深層心理を探る質問を投げかけてみたくなったのである。
「陛下」
「だから、その呼び方はやめてくれって」
「ひとつ、お尋ねしたいことがございます」
え?
怪訝な表情でジタンが隣を歩くトット先生を見下ろす。
「いえ、たいしたことではないのです。ほんの戯言でしてな」
ほんのりと、先生は目元を赤く染めていた。
怪訝を通り越して、「開いた口が塞がらない」状態のジタンは、ゴクリと唾をのみこんだ。
「な、なんだい、その質問って」
「私の若い頃にはやった簡単な試問でございます」
「へえ。で、どんなの?」
「それは――紙とペンが要りようですな」

書庫に辿り着いたトット先生は、早速紙を用意した。
彼は真中にジタンの名を記し、そしてそれをジタンに差し出した。
「え?どうしろって?」
「ガーネットさまのお名前を、書き入れてくださいませ」
「ガーネットの?」
トット先生は大きく頷いた。
「この紙の中ならば、どこに書き入れても結構です」
「?なんだ、それ」
ジタンはまるっきり悩みもせずにさらさらとガーネットの名を書いた。
「はい」
あっという間に出来上がった紙をトット先生の目の前に差し出す。
一目見て、先生は目を丸くしてしまった。

ジタンは、青いインクで書かれた自分の名に重ねるようにして、赤いインクでガーネットの名を記したのである。
「これは…」
「なんとなくさ。本当はもっと重ねたかったんだけど、そうすると字が見えなくなるだろ?だからちょっとずらした」
「なぜ、上にずらされたのです?」
「ええ?それこそなんとなくさ」
眼鏡の奥の小さな目が、嬉しそうに瞬いた。
「さすがに、似た者同士のお二人でいらっしゃる」
「どういうことなんだ?種明かししてくれるんだろ?」
好奇心のいっぱい詰まった瞳で顔を覗き込まれて、トット先生はまたもやちょっと頬を染める。この王様は、いったいご自分の御容姿をどのように心得ておられるのだろう。人をまごつかせるに十分な美しさを有しておられることに、お気づきでないのだろうか。
そんな周章を吹き飛ばそうと、先生は咳払いを一つした。
「もちろん、種明かしさせていただきますとも。実はこれで、自分と相手との関係を知ることができるのです。自分より上に相手の名を書いた場合は、相手を尊敬していることになり、下に書いた場合は見下していることになります」
「ふうん。じゃあ、俺みたいに重ねたって事は」
「ええ。ご自分と同一視されている…ということになりますかな。いずれにしても、こんな書き方は極めて稀な例ですな」
「え?だって先生、さっき似た者同士の二人、って言ってなかったか?それって、俺のほかにもう一人同じような書き方したやつがいるってことだろう?」
さすがに耳聡い。たまにトット先生は彼の頭の回転の速さに舌を巻くことがある。
この御仁は、容姿のみならず、性格もそして能力的にも、申し分のない若者なのだ。こんな御方が敬愛すべき女王陛下の配偶者となられたのは、まことにわが国にとってもこぼれざいわいであり…。
「トット先生!」
先生の妄想を断ち切ったのはジタンの一声だった。
「はっ、ああ、これはこれは、誠に申し訳ございません。しばし頭が旅に出ておりました」
トット先生独自の修辞を再びジタンが遮る。
「それはいいけど、一体誰なんだ?俺と似てるやつって」
「この方でございますよ」
古文書の切れ端を綴じた紙挟みから、彼は一枚の紙切れを取り出した。
目の前に差し出されて、ジタンは絶句する。

「ガーネット!?」
「はい」
満足げにトット先生は頷いた。
「な、何だよこのでっかい俺の名前は…」
「それだけ陛下の存在がガーネット様の中で大きいということでしょう。ガーネット様もあなた様のお名前を、ご自分のご芳名より若干上に書いておられます。まさに、夫唱婦随ですなあ」
変なところで変な感心を示しながら、先生は嬉しそうに首を振った。
「そ、そうなんだろうか…」
「そうでございますとも」
ジタンはややその筆致の豪快さに圧倒され気味だった。
が、やはり彼女が自分のことをこんな風に思ってくれてるのが分かると、満更でもない気分になる。
「先生、この紙、俺が貰ってもいいかな」
「どうぞどうぞ」
快く了解してもらって、ジタンはにっこり笑った。それからそれを丁寧に四つに畳んで、胸元にしまいこむ。
お守りにしよう。
なんてちょっと思いながら。
そのあどけないといってもいい仕種を見てトット先生はやっぱり思う。
なんて可愛い青年なのだろう、と。
「先生」
「なんですかな」
「たいしたことじゃないんだけどさ」
「はい」
何でも受容してやろうという底なし沼の心の広さが窺い知れる、トット先生の間髪入れぬ返答に、かえってジタンの方がちょっと口ごもった。
「あのさ、この書き方…っていうか、例えば字の大きさとかさ、書いた本人の性格が出るんだよな?」
「まあ、当然そうなりますかな」
ってことは。
「これって、もしかすると、あいつの方が俺よりずっとスケールが大きいって事…かな」
「まあ、当然そうなりますかな」
ちょっと――いや、それはかなりショックだった。
よし!これから頑張ってあいつよりでっかいスケールの男になってやるぅ!!!
握り締めた両拳をふるふる震わせながら、ジタンは決意を新たにしたのであった。

<ちゃんちゃん♪>