あの日アレクサンダーの翼が再び光の束となって天に昇華していったあと、地表に残された二人の胸には、すでに塞がりかけた穴の痕跡だけがあった。
急いで城に連れ帰り、手を尽くして治療が施された。その甲斐あってか、彼らはかろうじて息を吹き返した。しかし、意識は戻らなかった。
夫は深い眠りについたまま、目覚める気配もない。そしてやっと宿した子供は失われてしまった。女王陛下の心中を思い、周囲のものは胸を痛めた。
アレクサンドリアを襲った災厄の只中で、テラからもガイアの地からも伺うことのできた少年の姿。それが彼女とジタンの息子であることは、知るとも無しに知れ渡っていた。その御子が、この世界を救ったのだ。そしてガイアを本来の姿に戻したのだ。その命と引き換えに。
元に戻ってしまった彼女の痩身を見るたびに、皆は心苦しい想いに駆られるのだった。
だが、意外にも彼女は気丈に立ち振る舞い、淡々と政務をこなした。
ようやく平穏な日々が戻ってきたのよ。
彼女は笑って側近に洩らした。
この平穏をもたらしてくれたあの子に応えるために、それを守り通すことが私の務めなの。
柔らかい日差しと緑のあわいを、優しい風が吹き抜けてゆく。
数週間が過ぎた。
午前中に予定されていた謁見を全て済ませ、私室に一旦戻ろうとしたガーネットの元に、ミコトが駆けつけてきた。
肩を泳がせ、頬を上気させた彼女の顔。
心臓が、早鐘のように鳴り出す。
「ガーネット!目が…!目を、あけたわ!」
取り落とした書類が床に散らばるのも構わず、ガーネットは駆け出していた。
まばゆい光の差し込む、中庭に面した暖かい小部屋に彼はいた。
半身を起こし、クッションに身をもたせかけて。
息せききって部屋に飛び込んできたガーネットを、青い――泣きたいくらいに美しい青い光が包みこむ。
ジタンの青。
ジタンの、瞳。
声が出なかった。夢中でジタンに走り寄って…しかし抱きついていいものかどうか、一瞬ためらう。その逡巡を払いのけるように、すっと長い手が伸びてきて、彼女の腕を引き寄せた。
いつものように。
ジタンは彼女の頭を自分の胸におしつけた。
ガーネットには彼の伝えたいことがすぐ分かった。
ぎゅっと目を閉じて、耳を澄ます。
とくん、とくん。
いつもより少し早めの心臓の鼓動。
生きている。
そう思った。
思った瞬間、目が熱くなった。
止めようがなかった。
生きている。ジタンは、ここにいる。
そう思うだけで、幸せよりももっと切ない気持ちが溢れてくるのだ。
自分の胸にしがみ付いてくるガーネットの肩を優しく押して、ジタンは彼女をひき離した。
「ジタン?」
涙に濡れた長い睫が、訝しげに瞬く。
その黒い瞳をジタンは優しく覗き込んだ。
「今度は、俺に聞かせてくれ」
彼はそっと彼女の胸に耳を当てた。
胸元にやってきた懐かしい金の髪。ガーネットは堪えきれなくなって、彼の頭を抱きしめ、その髪に顔を埋めた。
「どうしようかと思った」
抱きしめられたまま、ジタンが顔をわずかに仰向ける。
「お前に何かあったらと思うと、生きた心地がしなかった」
いや、実際死にかけてたんだけどさ、と付け加えて彼は笑った。
その笑顔が、眩しかった。
「どうしようと思ったのは、私だわ」
ただでさえ今にも涙がこぼれそうだった大きな瞳から、ぽろぽろと大きな雫が溢れ出す。
「あなたがいなくなることが…怖くて。…怖くて」
あとは言葉にならなかった。
ジタンは身を起こし、彼女の体を精一杯抱きしめる。
数週間の昏睡は、彼の腕から筋肉と力を奪っていたけれど、それでも彼は自分の心を全てぶつけるように彼女をかき抱いた。
幾分細くなった彼の身体に腕を巻きつけて、ガーネットも力いっぱい彼にすがりつく。
「クリスタルに吸い込まれそうになったとき、あいつが呼んだんだ」
頬をガーネットの髪に埋めながらジタンは目を閉じた。
「諦めちゃ駄目だってさ…。子供に説教されてちゃ世話ないよな」
ガーネットの大好きな悪戯っ子の顔でジタンが笑う。だが彼はすぐに真顔に戻った。
「あいつ、やっぱり…行っちまったのか?」
ガーネットは、僅かに顎をひいた。
「守るって…口だけだったな、俺。」
ごめん、と。泣きそうな呟きが耳に零れて、ガーネットは首を激しく横に振る。
「違うわ。あなたのせいでもなければ、誰のせいでも、何のせいでもないわ。――誰かのせいにしてしまえる出来事なんて、この世の中にはないんだわ」
自分に言い聞かせるように、ガーネットは囁く。
「あなたが我が身を投げ出してクジャを助け、そして私を助けようとしてくれたから、あのこは覚醒したの。私があなたを助けたいと思ったから、その想いがあのこに届いたの。そしてあの子だけが、この世界に安定をもたらすことができたのよ。……布は、横糸も縦糸も、すべてが絡み合って初めて織り成される。だれかのせいだなんて綻びがあったら、布は織り上がらないでしょう?この世界を一つにするためには、こうなることが必要だったのよ」
一旦言葉を切って、そしてガーネットはジタンを見上げた。ジタンの青い瞳が、近づいてくる。
「それにね、夢を見たの」
今二人の間を隔てているのは、ほんの微かな声でも相手に届く距離。
「夢?」
ジタンが眉をひそめる。
「まさかまた予知夢だとか?」
「ええ――でも、今度はとても…素敵な夢なの」
あの子が戻ってくる夢。薄い緑の木漏れ日の中で、睦まじく寄り添う二人。彼女の腕の中に眠る嬰児(みどりご)。
「どんな夢か聞きたいけど――まあ、いいや」
その笑顔を見れば、それがどんなに幸せな未来かわかるような気がするから。
つられて顔をほころばせながら、彼はそっと腕の中の妻に口付けた。
言葉に尽くせぬ喜びが、光となって中庭に降り注いだ。
やがてジタンよりも数日遅れて、クジャが目覚めた。
傍らにずっと付き添っていたミコトは、彼が目覚めた途端、彼にすがり付いて大声を上げて泣いた。それはもう、迷子の子供が母親を見つけたときのような、安堵と歓喜の詰まった号泣だった。
おかげでクジャは自分を悔いる暇すらなかった。懸命にミコトを慰め、あやす。
子供じゃないのに!と頬を膨らませて、そしてミコトはまた泣くのだ。
目の前に、クジャがいる。ただそれだけのことが嬉しくて。
再び巡って来た新月の夜、ガイアの空には白と金の美しい虹がかかった。
二つの世界が干渉し、融合した証だった。
真昼のように明るく光る夜空を、人々は万感の想いを込めて眺める。大地に満ちる生きとし生けるものたちが、生れ落ちてからずっと目にしていた月の一つが、ゆっくりと終焉を迎える様を。
いにしえの、神がまだこの世にしろしめした時代、虹は神との契約だったと、トット先生が言った。神がその翼を以ってうつし世を統べたもう証。それを信ずる契約の証だと。
「ならばこの月にかかる虹は、我らの世界との契約ともいえるのかもしれませんな。我らがこの一になりし世界を守るとの」
黙ってその説明を聞きながら、集った者たちはじっと夜空を眺めていた。
やがて時は移りゆき、堆く積み上げられた瓦礫の傍らに下草が芽生え、崩れ落ちた城壁に小鳥が戻って来る頃に、女王陛下は懐妊した。それから幾月かの後、彼女は玉のような嬰児(みどりご)を授かることになる。
それは父親によく似た、黒髪碧眼の男児であった。
<完>
by
ちもとちえ様
挿絵にさせて頂いているのは、ちもとちえ様が書いてくださったこの話のイメージイラストです。
光の溢れるのどかな日。親子水入らずの幸せなひと時。
とにかく猛烈に可愛い二人の子ども、子煩悩なお父さんジタンに、非常に美しい慈しみに充ちた聖母のようなガーネット。…夢のような麗しい昼下がりの情景に、感嘆を禁じえません。こんなにも素晴らしいイラストをいただけて、私は幸せ者です。ちもとさん、本当にありがとうございました!