飛空艇のエンジン音が上空から鳴り響く。
仲間たちは一人、また一人、ジタンに言葉をかけて去って行き、最後に残ったのはスタイナーとガーネットだけだった。
「姫様、時間が…」
言いにくそうに、スタイナーがガーネットを促す。
「分かってるわ…」
姫君の悲痛な声。
無骨な武人は何かに気付いたように、そそくさとその場を後にした。
ガーネットは唇を噛みしめた。
どんな顔をすればいいのかわからない。
本当は泣きたくてしかたない。ジタンにすがりつきたくて仕様がない。行かないで!と叫びたい。
でも、できない。彼が後ろ髪をひかれるような素振りを見せることなんて、できなかった。
だからといって、笑うこともできなくて……複雑な表情のまま、ガーネットは皆と同じように何か語りかけようと言葉を捜した。
彼女が言葉を見つけ出すより早く、ジタンが目の前に跪いた。
「ダガー…いや、王女様」
改まった言い方。それは、彼がアレクサンドリア城で彼女を誘拐する時に口にした呼びかけと同じ。
「あなた様を誘拐するお約束は、残念ながらここまでです。……わたくしめの勝手をどうかお許しくださいませ」
その時のことが、弾かれたように脳裏に蘇る。同じように彼はひざまずき、彼女を誘拐すると言ってくれたのだ。それが全ての始まりだった。
それから本当にいろんなことがあった。
盗賊である彼をこんなにも深く想うようになるとは、あの時夢にも思っていなかった。
「いいえ……わたくしには、その申し出を断る理由などありませんわ」
この人を愛している。
今生の別れになるかもしれないこの瞬間に、ガーネットは自分の気持ちを確信したのだ。
気がつくには遅すぎたかもしれない。
でも、だからこそ、彼女は強がりでもそう言わずにはいられなかった。彼の行く手を阻むものにはなりたくなかった。
「それにわたくしの方こそ、あなたにお礼をしなくてはなりません。あなたに誘拐していただかなければ、わたくしは自分ひとりでは何一つできない、つまらない人間のままだったでしょう」
城の中しか知らなかった自分。
かしずかれることに慣れ、それが普通だと思っていた自分。
「でも、あなたと出会って、いろいろな世界をめぐり、いろいろな人々と出会い、いろいろなことを学ばせてもらいました」
ビビ。エーコ。フライヤ。サラマンダー。クイナ…そして、たくさんの人々…。
「時には大変なこともありましたが、本当に大切なものがいったい何なのかを、知ることができたように思います。……これまでの長い旅の思い出は、何物にも代え難い宝物となるでしょう」
ガーネットはその黒曜石のように美しく輝く漆黒の瞳を彼の上に向け、そして、想いの全てを込めて、言った。
「本当に……本当にありがとうございました」
ジタンの目が、信じられないように見開かれた。
最後に彼女を姫君として扱った自分に応えるように、姫君として言葉を垂れていた彼女が、「ありがとうございました」と謝辞を述べたのだ…。姫君としてのガーネットが、彼に…頭を垂れたのだ。その想いは強く彼の心に突き刺さった。
「でも…」
その後に続く言葉は彼にも予想がついた。そして、きっと、その言葉に自分が応えられないのも。
「でも、……お願い、必ず帰ってきて……」
消え入るような細い声音だった。でもそこに涙は混じっていなかった。泣きそうになるのを必死に堪えている声だった。ジタンは顔を上げていられなくて、がっくりとうな垂れるしかなかった。
彼女の傍にいたい。でも、自分の心はもう真直ぐに行く手を定めていて、それに彼女を巻き込むことはできなかった。
その時だ。
ふわりと、俯いた彼の視界に黒髪が舞った。
続いて白い顔。
それが見る間に近づいてきて、あっと思う間もなく、彼女の柔らかい唇が彼の唇に触れた。
ほんの、かすめる程度の軽い口づけだった。だがそれすらも恥ずかしくて仕方ないように、彼女は頬を赤く染めて身をひこうとした。それをとっさに掴まえて、ジタンは強く引き寄せる。そして、逃げようとする彼女のちいさな唇を捕らえた。
重ね合わせるだけのkiss。
けれど、ジタンの唇に包み込まれるように自分が覆われている感覚が、ガーネットの頭と心の奥を一瞬溶かす。
どのくらいそうしていたのか…。
差し迫った状況を考えるならそんなに長い時間ではなかったのだろう。
だが、二人にとっては、永遠にも等しい刹那だった。
長く伸びた一つの影が、やがて二つに分かれても、ジタンは何も言わなかった。
ガーネットも、涙をみせなかった。
彼女の頬に手をあてて、愛しくてならぬように優しく撫でながら、ジタンは笑った。
それが、彼の最後の挨拶だった。
あのまま、彼が帰ってこなかったら、自分はどうなっていただろう?
そう考えてガーネットはぞっとする。
もう、彼なしの人生など考えられないようになってしまっていた。
それはそれで問題だとは思うけれど、でも今は、彼がいつも傍にいてくれることを素直に感謝しよう。
ガーネットは横で寝息をたてている彼に顔を寄せた。
ジタンと二人で作ってゆくこれからの時間を、一つ一つ、大切に記憶に刻んでいきたかった。
この一瞬のかけがえのなさこそ、あの旅で学んだ最たるものだったから。
自分の上に被さった快い重さにジタンが目覚める。
「どうした?」
「ごめんなさい、起こしちゃった?」
「ん…でも目が覚めかかってたかな」
温かい逞しいかいなが彼女を引き寄せる。
「冷え切ってるじゃないか。何してたんだ?」
「…いろんなこと思い出してたの。そしたら、こんな時間になっちゃってて…」
「風邪ひくだろーが。丈夫じゃないんだからさ、気をつけろよ」
と言いつつ、ジタンは自分の体で彼女の体を包み込んだ。
「あったかい」
幸福にとろけそうな声。
その声に、ジタンはちょっと苦しそうに身じろぎした。
「あのさ」
「?」
「もっと温かくしてやる。でも、そのかわり、今夜はもう眠れないからな」
「え?――んんっ!?」
ジタンの体がガーネットの上に覆い被さる。
数え切れないほどのkissを降らせながら、二人の夜は更けてゆく。
そして、二人の時間がまた一つ、積み上げられたのだった――。
<完>