<epilogue>
重く垂れ込める雲の向こうから、白い冬の精が舞い始めていた。
新年の言祝ぎの新月からちょうど一ヶ月。
二月のアレクサンドリアに雪が降るのは珍しいことではないが、それでも本格的に降り出すのはたいてい二月も終わりに近づいてからだ。
空から舞い降りているのは、小さな粉雪ではなく、大きなふんわりとした雪だった。
ジタンは空を振り仰いだ。
手持ち無沙汰のあまり中庭に下りてきたのだが、そのおかげで初雪に遭遇することができたのだ。ちょっとした幸運に胸を躍らせながら、雪の中で深呼吸をする。ひんやりと、冷たい空気が肺の中に入ってくる。
はっと気づくと、いつの間にかスタイナーの子供たちが彼の隣にやってきていた。自分の倍はある傍らの「お兄さん」を見上げるあどけない二人は、ジタンを真似して「はああ」と大きく息を吸い込んだ。
くしゅん!途端にあまりの冷たさで、レオンはくしゃみがとまらなくなってしまった。横でマリーはコホコホと咳き込んでしまう。
「おいおい、大丈夫かよ」
ジタンはレオンの鼻をかませてやり、それからマリーを抱き上げて背中を優しく撫でてやる。
子供ってのはまったく手がかかるよな。
と自分に言い訳をしてみる。ちいさな重みと、か弱い柔らかさが、ジタンの胸にえもいわれぬ感情を呼び起こすから。そのままずっと腕の中に抱えていたい。そんな衝動が、湧き上がってきてならないから。
マリーはジタンの首筋にかじりつく。
お日様の髪の大きな手をしたこのお兄さんが、マリーは大好きだった。
「お部屋に戻ろうな。風邪でもひかせたら、お前らのおかあさまから怒られるもんなあ」
ジタンは片手でマリーを抱えたまま、もう片方でレオンと手をつなぎ、歩き始めた。
行きがかり上とはいえ、できればベアトリクスを怒らせたくはなかった。怒ると怖いのである。昔も今も。
「人聞きの悪いことを」
回廊の端から、声が飛ぶ。
「かあさま!」と、レオンはぱっと手を放して、ベアトリクスの方に駆け出した。マリーも身を母親の方に乗り出そうとするので、ジタンは少女をそっと下におろしてやる。てけてけとおぼつかない足取りで一生懸命母親に向かうその姿を、ジタンは目を細めて見やった。
あまりにやさしいその眼差しに、ベアトリクスは胸を衝かれる。
ジタンの心の深い部分を垣間見たような気がしたのだ。
「陛下」
胸に飛び込んできた二人の子供を抱きとめながら、ベアトリクスは顔を上げた。
「女王陛下が――お部屋でお待ちでございます。万全を期して、本日まで御政務をお休みになられるよう、陛下からもお話ください。なかなか、休んでくださらぬゆえ」
それは彼女の苦肉の策であった。
女王陛下はご自身の口で彼に伝えたいとおっしゃった。できるならば一刻も早く、その想いを叶えさせてあげたかった。ともすればこの場で事実をつまびらかにしたくなる衝動を抑えて、淡々と彼女は言った。
「ああ。わかった」
「子供たちがお手数をおかけいたしました。お相手くださり、かたじけのう存じます」
巻き毛の美しい女将軍は、母になって丸みを増した微笑を浮かべ、低頭した。
「ああ――でもついさっき、そこで会ったばっかりなんだ。それまで多分、自分たちだけで遊んでたんだろうな。偉いよなあ、レオン?マリー?」
二人の頭を大きな手が撫でる。
誉められて、嬉しそうに、そして少し自慢そうに、レオンはちいさな胸を張る。真似してマリーもおなかを突き出す。
微笑ましい光景に、思わず口まででかかった言葉をジタンは慌てて飲み込んだ。
「じゃあ」
挨拶もそこそこに、逃げるように回廊を去る。
子供が、欲しい。
そんなことを、もう少しで口にするところだった。
ジタンは顔にかかる雪のかけらを拭いもせずに、真直ぐに中庭を横切った。
思わないように、考えないようにしてきたこと。
期待すれば自分も、そしてガーネットをも追い詰めることになる。
事これに関しては神のみぞ知る、で。
そしておそらく、普通の夫婦と違って、自分たちの間にその瞬間が訪れる可能性はかなり低いのだと、彼は肌で感じ取っていた。
だから。
自分は自由が性に合っているのだ。足手まといになるような存在はいらないんだ。子供は手がかかるし。相手をしてやるのも面倒臭いし。
いろいろ理由をくっつけて、自分をごまかしてきた。
でもたまに、こうして本心が心の隙をついて顔を出す。
考えないでおこう。
ガーネットの部屋に辿り着くまでに、自分の気持ちをねじ伏せて、何とか落ち着かせるんだと、ジタンは思った。
「雪…」
ガーネットは窓辺に歩み寄った。
いつもの年よりほんの少し早めの初雪だった。
風のない午後のけぶるような明るさの中を、音もなく舞い降りる。
彼女は雪と見紛う白い手を窓の外に差し出して、ひとひらをすくい取った。
はかなさよりももっと頼りなく、すっと消え失せる白い冷たさの感触が、ガーネットの胸の奥に触れる。ひんやりと冴えた空気を、そこに運び込むように。
いつの間にか背後に立っていた人の気配に、彼女は小さな声を立てた。
「ジタン…」
「冷えるじゃないか。風邪ひくぞ。これ以上体調崩すようなことしてどうするんだよ」
ちょっと咎めるようにジタンが言う。
「雪が、降ってきたから」
「あ?」
「この冷たさが、素敵だと思わない?私が冬生まれだからかしら。私、好きなの。ひんやりしてて。この空気を吸い込むと、心の中が綺麗になるような気がするの」
「それ以上綺麗にしてどうするんだよ」
さらっと言ってのけて、ジタンは窓を閉めようとする。
「でも、喜んでるのは私だけじゃないのよ」
その彼の手を白い手で押しとどめて、ガーネットは言った。
「は?」
「…子供がね、いるの」
「へ?どこに?あれ?おかしいな、入ってきたときに気がつくはずだけど…」
きょろきょろと部屋の中を見回すジタン。たまりかねてちいさな笑い声を立てるガーネットに、ジタンは
「ああ、からかって遊んでるな?」と見当外れの文句を言い出す。
「違うわ。からかってなんかいないわ」
自分を見上げる黒い瞳が微かに濡れているのに気付いて、ジタンははっとする。
まさか。
喉がはりついて、声が出なかった。
心臓が、こんなに口から飛び出しそうなほど高鳴ったことなんか、未だかつてなかった。
まさか、そんな。
でも、今の今まで無意識のうちに蓋をしていた数々の記憶が一斉に去来して。
茫然とただ彼女を見下ろすだけで、反応できないで固まっているジタンを見て、ガーネットは ふと顔を曇らせた。
「あ…」
その不安を敏感に感じ取って、ジタンは何とか声を絞り出す。
「ああ…あのな」
なんて無意味な言葉を口にしてしまったのだろう。ジタンは自分の情なさに臍を噛む。そして次の瞬間、言葉をかなぐり捨てて彼女を力いっぱい抱きしめていた。
彼女の温かい体温が自分の全身に染み渡ってきて…そしてその中に、彼は彼自身の半身を感じとる。
「ジタン…」
ガーネットは彼の名を繰り返し口ずさみながら彼の背中に回した腕に力をこめた。
「わたしたちの、赤ちゃん」
「ああ」
彼女の白い頬に顔を寄せる。
「俺たちの…」
彼の声が途切れた理由がガーネットには良く分かって、彼女もまた胸を詰まらせる。
言葉の代わりに、抱きしめる腕に想いを込めて。
そうしてやっと声が出せるようになったジタンは彼女の耳元に告げるのだった。
ありがとう…。
「ジタン、鼻声」
ガーネットが笑う。
笑いながら、ぽろぽろと涙がこぼれてとまらなかった。
それはこよなき喜びに満ちた、世界で一番幸福な涙だった。
その年二回目の新月は、降りしきる雪の奥に、揺れるように、踊るように浮かんでいた。青い、命に満ち溢れたガイアの輝きを覗かせて。まるで、新しい命の誕生を空から祝しているかのように。
<完>
はああ!!!懺悔します!みなこさん!せっかくの素敵なリクエストを…。なんてとってつけたような最後なんでしょう!!ええ、でもこれが精一杯!精一杯なのです〜〜(T‐T)
どうか寛大なご処置をお願いいたします(苦笑)
リクエスト、ありがとうございました!