蒼穹をわたる風3

「泣き虫」
ジタンの目の前で嬉しそうに言って、クジャはぴゅっと逃げ出す。
事実なだけに何も言い返すことができず、頬を赤らめて硬直するジタンを見て、味をしめたようなのだ。
「やーい、泣き虫〜」
柱の影から顔だけ出して、からかう。こういう時のクジャは本当に楽しそうだ。
「うるせえ!」
一喝されて、またもやぴゅっと顔を引っ込める。が、またまた、
「情けないなあ、男が泣くなんて」
ほとぼりが冷めた頃に顔を出す。今度は背後にいたミコトから頭をこつんと殴られて、クジャの方が涙目になったが。
「いくつだよ、お前!」
ここぞとばかりにジタンが反撃する。
「ミコト…お前どういう蘇生のさせ方したんだよ?もしかしてこいつ、精神年齢が身体年齢に反比例してるんじゃないか?」
「いいじゃないか。弟と親睦を図って何が悪いんだ」
頭をさすりながらクジャが口を尖らせた。
「どこが親睦だよ、どこが!」
がおっ!と吼えながらジタンがクジャを威嚇する。が、どことなくその光景は微笑ましくて、傍で見ていたガーネットは笑い出すし、ミコトまで苦笑を浮かべている。
「だって、お前の反応って面白いんだもん」
「がうっ!」
ぴゅっ。
「そのくらいにしておいてやって」
自分の後ろに隠れたクジャを振り返って、くすくす笑いながらミコトが言った。
その彼女に気付いて、ジタンは暫し動きを止める。
「?どうしたの、ジタン」
彼の硬直にはガーネットが気付いた。
「いや…」
「何」
と、これはミコト。
「いや、ただ…お前、そんな風に声をたてて笑うようになったんだなって」
ジタンの述懐に、ミコトは再び柔らかな笑みを口元に刷いた。
「時は過ぎるから。ジタンの上を過ぎたのと同じ分だけ、ここでも時が経つのよ」
彼女の呟きが含む意味を、ジタンは滲むような笑顔で受け止めた。
「ああ、そうだな」
この世にある全てのものは移り変わってゆく。
そして変わりゆく方向は一つだけではないのだ。彼女は豊かな感情を得、そしてクジャは――多分彼が担っている重荷の量と同じ明るさを、精一杯身に纏おうとしているのだろう。ちょっとズレてはいるが。
「そろそろ出発しなくちゃな」
ジタンがガーネットの手をとった。
「はい」
青く澄んだ大好きな瞳を見上げて、ガーネットが応える。
その微かに上気した頬をうっとりとみつめていたクジャが、不意にジタンの手からガーネットを奪い取った。
「クジャ!?」
「小鳥ちゃん、ちょっときてくれないかな」
言うなり彼女を引きずるようにして小屋の影に走り去ってゆく。
「クジャ!何やってんだ、あいつ!」
忌々しげにジタンが後を追おうとするのを、ミコトが引き止めた。
「そうだ、ジタン、あなたに渡すものがあるのよ。ちょっとこっちに来て」
腕を引っ張られれて連れていかれた先は、何のことはないミコトが寝起きしている宿屋の二階だった。
「何だよ、出発しようって時になって。」
「別れ際しか渡せないじゃない、こんなもの」
と言って彼女が引き出しの中から取り出したのは、小さな丸い宝玉の嵌め込まれた指輪だった。
「これは?」
「見たことがない?この光」
澄んだ、透き通った青。水の青に限りなく近いが、それとは違う、微かに蛍光を帯びた光を発している。
それは思い出したくない記憶の呼び水となったが、同時に何故か胸をかきむしるような懐かしさを感じさせる色でもあった。
「テラ…?」
「ええ。テラの凝縮されたエネルギーとでも言えばいいかしら?そのテラの光を集束させたものらしいわ」
「何だかよく分からないな」
「私にもわからないのよ。でも、テラそのものともいえるその宝珠は、あなたが持っておくべきだと思って」
「俺が?」
「そう。――逃げないでほしいから」


「鍵?」
こちらはクジャに連れてこられたガーネットである。彼女もまた、彼から光る石を渡されていた。深紅の石。まるく削ってあるが、台も何もついていない。彼女の拳よりもやや小さな大きさの石だった。
「これがテラへの扉を開く鍵になる。この中にテラと共鳴する物質が封じ込められているんだ。詳しく説明してもわからないと思うから、簡単に言っているけど」
ガーネットはうなずいて、一言も聞き漏らすまいと、つぶらな瞳をクジャに向けた。要するに、閉ざされたテラへの道を開けるには、これが必要ということなのだろう。
「あいつはホントは泣き虫のくせに、強がりだから」
僕と同じで。そう付け加えてクジャは空を仰いだ。
照れくささを隠そうとしたのかもしれない。
「だから、君みたいに泣かせてくれる人が、あいつには必要なんだと思う」
それから、一呼吸置いて。
「テラは僕のせいで半ば崩壊しているけど、あの世界が完全に閉じてしまってるわけじゃない。いずれこのガイアと融合はしていくのだろう。だから、あいつの心に踏ん切りをつけさせてやって欲しいんだ。きっとあいつは強がるだろうし、そのくせテラに関しては自分だけでは足を踏み出せないと思う。だから…。君の運命を無茶苦茶にした僕が頼める筋合いはないけど…」
クジャは足元に目を落とした。
初めて見る、悲しげな眼差しだった。
テラとガイアを蹂躙し、壊滅の危機にさらした過去から、彼はいささかも逃れられてはいないのだ。
ずっと、弾けた笑顔の下で重荷を負い続けていたのだ。
それを知って、無意識のうちに彼女は呟いていた。
「――どんなに嘆いても、どんなに懐かしがっても、そしてどんなに憎んでも、過去は変わらないわ」
クジャに、というわけでもなく。
敢えて言うなら、自分に。
「だから、私、もう恨んだり、嘆いたりすることはやめたんです」
クジャの、薄紫の髪がふっと揺れる。
それは折からの風のせいかもしれない。
「私たちの時間は必ず未来に向かって流れてるから。後ろばかり向いていたら、もったいないわ」
言いながら彼女は目を隠した。見る間に熱く、赤くなった目を。
「そう思うようになったの。あなたも、同じだと思う」
次の瞬間。
ガーネットの体はクジャの腕の中に絡めとられていた。
ぎゅっと。力を込めて彼女の細い体を抱き締めて。
それは遊び半分だった今までの抱擁とは明らかに違っていた。
「あいつは、幸せだな。君みたいな人に巡り会えて。きっと君があいつを強く、幸せに変えていくんだろうな。どんな運命でも乗り越えられるように」
ガーネットはやさしく微笑んで、そして彼を抱き締め返す。
それは、慈しみの抱擁。
「後ろを向いてばかりじゃどこにも辿り着けないって私に教えてくれたのは、ジタンなの。ジタンは、あなたを助けに行った。あの人は、何にも考えていないくせに、いつだってちゃんと一番自分にとって正しい答えを出すの」
それは、クジャを助けたジタンの行為を、彼女が受け入れている、という告白に他ならなかった。そして同時に、それはクジャの存在を、彼女が容認しているということを示すのだ。
クジャは目を大きく見開いた。
声が出せなかった。
「これで、良かったのよ。いろんなことがあったけど、でも全部、今の私たちがここにこうして存在するために、必要なことだったんだわ」
抱き締める大きな体が震えている。
ガーネットは腕に力をこめた。
「あの人は、私にそう教えてくれたの。だから、あなたも――」
「ガーネット姫」
クジャが切なく彼女の名を呼んだ、その時。
「クジャ!てめえっ!何やってんだよ!ガーネットに手を出すな〜!!!」
二人が睦まじく寄り添っているのを目の当たりにしたジタンは、とっさにかっと頭に血を上らせて叫んでいた。というより、はや叫びながらクジャに跳びかかっていた。
「やっぱり姫は抱きごこち良かったよ!ジタン」
ジタンの回し蹴りを紙一重で避けたクジャは、ひらひらと手を振って挑発しつつ、その場から一目散に逃げ去ってゆく。
「くそお!あいつ〜」
唸っているくせに、クジャを追いかけることよりガーネットを自分の腕に取り戻すことの方を選んで、ジタンは彼女に手を伸ばす。
慣れ親しんだ胸に頭をもたせかけて、彼女は口を開いた。
ジタンに聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で。
「クジャは、いい兄さんだわ」
それからほっと溜め息をついて、彼に頭を摺り寄せた。
自分の中に一片も憎しみが残っていないわけではない。でもそんなものにいつまでも拘泥して、目の前に伸びる道を見失うのはイヤだった。
そして、自分の前の薄紫の髪が震えているのに気付いた時――彼女は彼を責め立てる心を、手放してしまっていた。
「なんだよ、ダガー?」
「ここに連れてきてくれて、ありがとう」
偶然の産物なのかもしれない。
それでもガーネットには、ジタンがこのために自分をこの村に連れてきてくれたような気がしたのだ。
自分の心に決着がつけられるように。
ちゃんと、前に進んでいけるように。
「何のことか全然わかんねえけど、感謝してもらえてるみたいだから、ま、いっか」
複雑なことは深く考えないこの男は、そう言って頭を掻いた。
思考が停止に追い込まれたせいもある。
大好き!
感極まったように再び彼女が自分に抱きついてきたから。

「目が、赤いわ」
「ほっといてくれ」
実に穏やかに二人は言葉を交わす。
それはそれでちょっと異様な風景かも知れない。
「…ミコト」
「何」
それは、何?という語尾の上がった可愛らしい問いかけではなく、上から下へ押さえつけるような語気荒い「なに!」に近かった。だが、クジャはそれに頓着せず。
「ありがとう」
ぽつりと、呟いた。
ミコトが、茫然と彼を眺める。
いつになく神妙な口調が、彼女の心に刺さった。

抜けるような青空が二人の頭上に広がっている。
この地を巡る、止むことのないさやかな風。
遠い目を、クジャはそっと閉じた。

「命を、助けてもらって、良かった」

途切れ途切れの、彼の言葉。

風に持っていかれてしまわないように、ミコトは懸命に、耳を澄ました。

「僕は――」
その先は続かなかった。
応える代わりに、ミコトがクジャの手を握ったから。
もう、言わなくていいと。
それ以上何も言わなくても想いは伝わっていると。
そんな気持ちのこもった手。
しっかりとクジャは握り返す。
もはや、無言で。
その頬が濡れているのにミコトは気付いた。
だから気付かない振りをして空を向いた。
遠い飛空艇が、豆粒のようだった。
遠ざかってゆく飛空艇をみつめて、村の外れの草地に佇む二人の影が、重なるように伸びていた。

<完>