月は雫となりて地に注ぎ

 

マダイン・サリに真っ赤な夕日が沈んでゆく。
空一面が燃えているようだ。
以前ここにやってきたとき、海に浮かべた小船でガーネットと見た風景を思い出して、ジタンは奇妙な感慨に耽っていた。
「なんかさ、あの時からもう何年も過ぎた気がする」
召喚壁に向かいながらジタンは嘯いた。
彼らは三度マダイン・サリを訪れていた。特に用事はなかったのだが、エーコの気持ちを慮って、近くに来たときは極力寄るようにしていたのだ。それは何時とはなしに定まった、暗黙の了解のようなものだった。
この地にすっかり腰を落ち着けてしまったように見えるラニから、台所の下の小さな部屋に残された走り書きの事を聞いたのは、ついさっきのことだった。
その指示に従って、召喚壁を回ってみた。
すると、壁面に今までは見えなかった文字が浮かび上がってきたのだ。
滅びる寸前の召喚士一族の末裔が、一族最後の宝物に書き送った遺言。そして、10年前この地を襲った悲劇の嵐の下、その中の一人が最後の力を振り絞って認めた、愛する家族への想い。
当事者であるエーコとガーネットは、一体どんな想いでその壁をみつめていたのか…。傍らに佇むジタンには知る由もなかった。
だが、美しい黄金色の光に満たされた召喚壁の中、二人の少女は一様に、微動だにせず壁を見上げていた。頬を伝う涙はなかったが、そんな涙では流せてしまえぬ万感の想いがその面に溢れていた。
先に動いたのはエーコだった。しゃくりあげるのを人に聞かれるのが嫌だったのか、エーコは俯いたまま、ジタンの横を抜けて壁の外へ走り出た。
残されたガーネットはそのエーコの姿を目で追い、そしてそのまま自分の傍らに立つ人物に視線を移した。
ジタンと目が合う。が、二人とも何も言わなかった。

少年は、少女を包む、この優しい静寂を破りたくなかった。
少女は、少年の瞳の中に、何も言わなくても自分を受け止めてくれる力強い温かさを感じ取っていた。

山の稜線にすっかり日が沈み、辺りに夜の帳が下り始める頃、二人は岩部屋に戻ってきた。その姿を認めたビビが、てけてけと慌てて駆け寄ってくる。
「どうした?ビビ」
ジタンが屈んでビビの顔を覗き込む。
「うん、あのね、エーコがね、下のお部屋に行ったままなんだ…何かあったの?」
「ん?…ああ」
言葉を濁すジタンの横で、ガーネットが囁いた。
「ジタン、私、様子を見てくるわ」
「あ、ああ…」
そっとしておいてやった方がいいのではないか、一瞬ジタンはそう思う。
だが、彼にはわからない共感が彼女たちの間にはある。エーコの心を今理解してあげられるのはガーネットだけなのかもしれない。
彼は黙ってガーネットを見送り、立ち上がってビビを誘った。
「モーグリたちが用意してくれた飯でも食おうぜ。多分、あいつら、ちょっと遅くなると思うから」
ビビは心配そうにガーネットの去った先を振り返りつつ、うん、と頼りなく頷いた。

食事を平らげ、ビビがベッドで横になったあと、ジタンはそっと台所の下の小部屋に行った。
中の燭台に火が灯してあった。おぼつかない蝋燭の火が揺れる。その仄かな明かりの中で、ガーネットが床に座り込み、俯いているのが見えた。
ジタンは声をかけようとして、そしてそのまま口をつぐんだ。
ガーネットの表情に心が吸いつけられてしまったからだ。
まるで天上の女神のような、この上なく優しい、慈しみに溢れた眼差し。その白い手がいたわるように膝の上の紫の髪を撫でる。やがて彼女は歌を口ずさみ始めた。ガーネットの歌。召喚壁から流れてきた、あの歌――。
ガーネットの膝に顔を埋めて眠っているらしいエーコが、かすかに身じろぎした。ん…と小さな声を洩らしながらこちらに頭の向を変えた少女の頬には、幾筋かの涙の跡があった。
「おかあ…さん…」
眠りの精に囚われたまま、少女はそう呟いて頭をガーネットの膝に擦り付けた。
ガーネットは泣きそうな顔になって、そして身体を折り曲げ、エーコの上に覆い被さった。全身で少女を包み込み、その孤独を癒してあげようとするかのように。

ジタンは胸が締め付けられそうだった。
紛れもなくそこには聖なる母性に満ちた女性がいて…。そして自分もまたエーコと同じく、それに限りない憧憬を抱いていることに気づいたから。
だが彼は思い至らなかった。
そんな感慨に胸がいっぱいになりながら、それでも彼女のために一歩を踏み出した自分の中には、また別の聖性があるということに。
部屋の中に入ってきた人の気配に気づいて、ガーネットは顔を上げた。
「ジタン…」
エーコの目を覚まさぬように、そっと彼女は彼の名を呼んだ。
彼女の肩に手をおいて、それからジタンはエーコの小さな身体を軽々と抱き上げた。
後は俺に任せとけ、というように片目をつぶって見せ、彼はそのまま居間へ上がって行った。

エーコをビビの隣に寝かせ、しばらくの間、彼は稚い二人の寝顔を見守っていた。
この子供たちを守りたい、という衝動が、彼の身体の奥深くから沸きあがってくる。それはガーネットを守りたいという気持ちとは少しだけ違う種類のような気がした。どこが違うのかなんて、説明はできなかったけれど。
そんなとりとめもないことを考えているうちに、青い月が天頂に差し掛かった。
ガーネットがまだ上に戻ってきていないことを思い出して、ジタンは早足で階下に降りた。
だが、下の部屋にも彼女の姿はない。
ジタンがいろいろと考えを巡らしているうちに、どこかに行ったらしかった。
だが見当はすぐについた。行くところは一つしかないのだ。