月は雫となりて地に注ぎ(2)



夕方の黄金色に満ちた空間とはまるで別の空間のようだった。
天頂から降り注ぐ青白い光の下、ぼんやりと浮かび上がるガーネットの細いしなやかな肢体。
彼女は夕方と同じように、じっと壁の前に佇んで、彼女へ綴られた言葉を見上げていた。

ジタンは声もなく彼女をみつめていた。
その場所の荘厳な美しさのせいかもしれない。ガーネットの端然としたたたずまいのせいかもしれない。
彼には黙ってみつめるほか術がなかった。
そのとき、不意に月が雲間に隠れた。
彼女の身体を青白く浮かび上がらせていた光が途絶え、あたりが闇に包まれる。
ガーネットが少し不安げに身体をずらしたのが、夜目の利くジタンには判った。
静寂は、破られた。ジタンは意を決して、
「ダガー…」
彼女を驚かさないように、そっと声をかける。
暗闇の向こうで、ガーネットがびっくりしたように振り返った。
「なぜ…?」
なぜここが判ったの?
なぜ、ここに来たの?
いろんな疑問が彼女の頭を巡る。だがそれ以上口にはしなかった。
そして、ジタンもその問いに答えを返さなかった。
答えは言うまでもなく、聞くまでもなく、一つしかないから。
「あのね、私――」
「いいよ。なんか、分かる気がするんだ」
「うん」
ガーネットは呟いて、また視線を壁に戻した。
ジタンは静かに彼女の横に並んだ。
かすかに、二人の手が触れ合う。
自分の手に触れる、細い柔らかな指を、ジタンはそっと握り締めた。
ほんの少しのためらいが彼女の指を惑わせる。が、すぐに、優しい力を込めて、彼女はジタンの手を握り返した。
流れ行く雲間から、再び淡い光が差し初める。
月に照らされた彼女の美しい横顔を、ジタンは絶対に忘れないと思った。
自分の故郷に、彼女はやっと辿り着いたのだ。
ジタンは静かに、口を開いた。

「おかえり、セーラ」

相手の表情がようやく見て取れる暗がりの中。それでもガーネットが目を見開いて、息を詰めるのがわかった。それから彼女は今にも泣き出したいのを必死に堪えるように唇をかんで、こくんと、頷いた。
ジタンは手を伸ばし、そっとガーネットの頭を撫でた。
そして、やさしく引き寄せる。ガーネットの額がこつんとジタンの胸に当たり、その瞬間、堰を切ったようにとめどなく涙が溢れ出した。
「あのさ。泣きたい時は、俺の胸を貸してやるって、言ったろ?…遠慮すんなよ」
ガーネットは何度も頷き、ジタンの胸にしがみ付いた。堪えきれない嗚咽が壁に木霊し、空へと昇ってゆく。
ジタンは抱きしめる腕に力を込めた。でもそれは、激情にかられてのものではなかった。
黒髪に顔を埋めてジタンは囁く。
――セーラ…セーラ…。
壁に最期の言葉を刻みつけた名もわからぬ彼女の父の代わりに、ジタンは彼女の名を繰り返し、そして背中を撫でてやる。
次第に落ち着きを取り戻し、ガーネットの涙が乾き始めてからも、二人はそこから動かなかった。
腕の中の小さなぬくもりを放したくない少年と、あたたかい胸の中で暫しの憩いを感じていたい少女は、かたく、しっかりと寄り添いあったまま、降りしきる月の光の中に立ち尽くしていたのだった。