春にそめし恋歌(9)


リンドブルムの自分のベッドで、ヒルダは目を覚ました。
事の顛末を夫の口から聞いたのはそれから随分後のことだ。
バクーは気を失ったヒルダを抱えて孤軍奮闘し、城中の兵士を相手によく持ち堪えた。だがそれもここまでか、というときにシドの乗った飛空艇団が到着したのである。
ヒルダの発見した小箱は動かぬ証拠となった。
元老院長老連中を始め、無論全ての張本人ロンベルク卿も厳罰に処された。
だが、そんなことは、二人にとっては些細なことにすぎなかった。
今度の一件は、シドとヒルダに、消すことの出来ない深いキズを残したのだ。
ヒルダのおなかには、シドの子供がいた。
あの初めての夜に授かった子供だった。
だが、その命に気づかぬうちに、彼女はそれを手放してしまった。
その自責の念が、あれ以来ずっと、彼女の心を蝕んでいるのだ。
そしてもうひとつ…子供を無くしたと同時に、彼女はもはや、子を望めない身体になってしまったのだった。
彼女を診察した典医はその事を伏せて置こうとしたが、賢く、勘の鋭いヒルダを騙しおおせなかった。
自分を襲う二重の打撃。だがそれはどちらも、自分が蒔いた種の結果だった。誰を、何を恨むわけもいかず、彼女はただ悲しみにくれることしかできなかった。
その彼女を足繁くシドは訪なった。
どちらかといえば口が軽く、よくヒルダを笑わせていたシドだったが、訪ねてきてしばらくは彼は何も言わなかった。何も言えなかった、といった方がいいかもしれない。
彼はヒルダのベッドの横に座り、日がな一日、彼女の髪を撫でていたり、彼女の横に寝転がって彼女を抱き締めていたり、そんなことばかりしていた。
やがて心配になったヒルダがようやく、「御政務は大丈夫なのですか」と尋ねてから初めて、彼は安心したように笑ったのだった。
ヒルダは、そのときのシドの笑顔を、ずっと後まで忘れなかった。
何も言わず、ただ自分をずっと労わり続けてくれた人の、心からの笑み。
自分の回復をこうして芯から望んでくれている人のいる有難さを、しみじみと感じたから。

子供が出来なければ妃としては失格である。
当然、ヒルダは離縁されてしかるべきだった。だが、そんなことを言い出すものは一人もいなかった。
シドはもちろんだが、家臣の最後の一人に至るまで、誰も思いもしなかった。
大公を扶けるために、自らの命の危険すら顧みず、果敢に行動した妃を、彼らはみな誇りに思った。
「養子を取ればいいだけのことだ。なんなら、そんなものも取らなければいい。私はそなたとともにこうして過ごせるだけで十分だからな。邪魔者は、必要ない」
ある時シドはヒルダを飛空艇に誘った。
空の上から地上を見渡すのは気持ちがいいぞ、と言って。
甲板に出て、二人は涼やかな風に吹かれながら寄り添っていた。そうしてそんな風に嘯いたのだ。
それを聞いてヒルダは笑った。
春の女神が地上に降りてきたような笑顔だった。

「この飛空艇は、新型なんだ」
どこが?と問いたげな目でみつめられて、シドはちょっと照れながら頭を掻いた。
「実は、霧がなくても飛べる――予定なんだな」
「霧がなくても?すごいわ!それなら、この大陸だけではなくて、もっといろんなところに行けるのね。海の上も飛べる?」
「ああ。どこまでも飛んでゆける」
目をきらきらさせて、シドは言った。その横顔を眺めて、ヒルダは目を細める。
「あなたは、子供みたいだわ」
その呟きはあまりに小さすぎて、シドの耳には届かなかった。
「何か言ったかい?」
「何でも!」
かぶりを振って、そしてまた小さく口の中で繰り返す。
あなたが子供みたいだわ。きっと、あなたのそばなら、私はこの運命にも耐えてゆける。
そのヒルダの心中を知ってか知らずか、無邪気に甲板の上を走りまわるシドは、へさきにたって両手を広げた。
「この船の名前、言ってなかったな」
危ないわ、と慌てて駆け寄るヒルダのまん前に飛び降りて、シドは目一杯力と想いを込めて抱き締めた。
「聞きたい?」
聞ききたいだろ、という有無を言わさぬ聞き方である。
その尋ね方にまたヒルダは笑いを誘われる。
「ええ、聞きたいわ」
「だろ。いい名前だぜ。聞いたら絶対好きになる」
「じらさないで」
シドはヒルダの身体を離して、また舳先に戻り、身を乗り出して指を指す。
「こっち来て見てみろよ!きれいだぜ。アレクサンドリアとの国境の連山の雪が溶け始めてる。春なんだなあ」
「あそこはずっとこの季節になると七合目まで雪が溶けるの。でも、そんなことはいいから、早く教えてよ。あなたが教えるって言ったくせに」
「その顔!」
「?」
シドの行動がつかめなくて、ヒルダは面食らう。
「なあに、今日は変よ、あなた…」
「お前のその怒った顔が見たかったんだ。だって、最近悲しい顔か、笑った顔しか見せなかったから。お前の悲しい顔は見たくないし、笑った顔は大好きだけど――なんだか、消えていきそうで怖かったんだ。あの雪みたいに。でも怒った顔が見られたから安心した。お前の怒った顔、やっぱかわいいわ」
「やっぱり変」
そう言って、ヒルダは笑っているような怒っているような、中途半端な困った顔をする。
やっと落ち着いたのか、シドはヒルダを引き寄せて、そして耳元で囁いた。
「ヒルダガルデっていうんだ。この船の名前は」
彼がどれほど飛空艇を大切にしているか、ヒルダはよく分かっている。しかも彼の発案した新型飛空艇――彼にとっては宝物のような船に違いない。それに、彼はヒルダの名をつけたのだ。
その気持ちが嬉しくて、温かくて、こみ上げてくるものをヒルダは抑えきれなかった。
今までせき止めていた思いも全て涙になって流れ出てくるかのように、後から後から熱いものが溢れ出てとまらなかった。
そんな彼女の頭を胸に抱いて、シドはずっと舳先に佇んでいた。
眼下には遥かプリングスハイムの大地が見える。
最果ての北の国に、ようやく春が芽吹いて、一面が淡い緑に覆い尽くされている。
一年で一番美しい季節。
その光の中で、二人は永遠の愛を確かめたのだった。

 

Epilogue

そこかしこに花が咲き乱れ、かぐわしい香りをのせて涼やかな風が渡る。
リンドブルムのお城の周りに、こんなきれいなお花畑があるのね!
こまっしゃくれた物言いでシドとヒルダを微笑ませる紫の髪の少女は、
待ちきれなくなってシドの手をはずし、お花畑に駆け出してゆく。
その後姿を眺めながら、ヒルダはそっと夫に寄り添い、彼の手を握った。
「?どうした」
壮年の落ち着きを得て、行状はともかくとして威厳は加わった大公は、
昔と変わらぬ優しい眼差しを妻に注ぐ。
ヒルダは風にそよぐ花の如き笑みを浮べ、夫の肩に頭をもたせかけた。
「…何度も、泣きましたわ」
知っている。
月明かりの中に浮かぶ細い肩が震えていたのを。
光の降りしきる真昼の庭園で、花の中に俯いて佇んでいたのを。
枕を濡らす彼女の哀しみを、自分はどうすることもできなかった。
「でも、全ては、このためだったのだと、今は思うのです」
彼女の視線はいとおしむように一人の少女に向けられている。
花園の中で、仔犬と無邪気にたわむれる少女。
「あの子に出逢うために、運命が用意してくれていた試練だったのだと、
今は素直にそう思えるのです」
シドはただ妻の手をしっかりと握り返す。
あんなに辛い想いをしたから、あなたの優しさとあなたの大切さが自分の心に染み渡った。
そして、あんなに辛い想いをしたから、あの子がこんなにも愛しく思えるのだと、
ヒルダは思う。
「古の言葉に、こんなのがある」
博識を披露しようとしてシドは胸を張った。
「人生楽あれば苦もあるさ」
「それを言うなら、禍福はあざなえる縄の如し…の方が適切だと思いますけど」
笑いをかみ殺してヒルダがすかさず訂正する。
ちょっとはずしてしまった自分が情けなくて、シドはほんのり頬を赤くするが、
お髭に隠れてほとんど外から分からないのが救いだった。
でもヒルダには彼の赤面が手に取るように分かって、
とうとう声を立てて笑いだす。
「そ、そのように笑わずともよいではないか。人間たまには間違いもある」
うろたえるシド。
「お父さん!お母さん!こっちにとても綺麗なお花があるの!ねえ、来て!」
二人に遠くからかわいい声がかかった。
二人は顔を見合わせて、それから同時に少女に目を向ける。
「ああ!今行くよ」
妻の手を引いて、花畑に入ってゆく夫。
その後に従いながら、ヒルダはそっと呟くのだった。
ありがとう。
シドに。
エーコに。
そして全てに。

<完>


後書きにかえて。
もう、中途半端といい加減の王道を行ってます。プロットを考えた段階で、すっごい長篇になってしまいそう、という危惧があったものですから、途中から飛ばす飛ばす…。こんなの物語になってねえよ〜、とか自分で突っ込みいれまくって書いてました。
これが書きたかったことのはじめは、シドとヒルダがなぜエーコを養女にできたか、という素朴な疑問だったんですよね。
あれ、とても好きな展開だったので…。シドはお父さんになりたかった。ヒルダはお母さんになりたかった。でも、あの時点で結婚後14年もたっているのに、二人の間には子供がいなかった。これは、どっちかが原因で子供が出来ないに違いない。で、きっとヒルダがあの行動力で何かやらかしたとか!なんて妄想が突っ走っていってしまったなれの果てがこれです。
はっきりいって超駄作…。もし読んでくださった方がいらっしゃったら、ありがとうございます!あなたは女神様です。(^^)