[10] 広域隊本部。取り調べ室。
さやかの取り調べが行われ、不動産会社強盗事件、黒川シンジ殺害事件は解決した。
不動産会社と暴力団とのつながりについては、広域の手を離れ、本庁で詳しく調べられることになった。
さやかは神妙に取り調べを受けていた。
心にも平静さが戻り、自分のしたことを静かに受け止めていた。
さやかは実行犯の一味であり、殺人犯であったが、彼女はまた、被害者でもあった。
男に利用され、裏切られた末の犯行ということで、情状酌量の余地も検討されている。
また犯行時の精神状態については、これから調べられることになっていた。
広域での取り調べの最後に、さやかは杉浦に声を震わせながら話した。
「わたし、高見さんににひどいことしてしまった。あの人、こんな私に、とってもやさしくしてくれたのに…」
「そんなこと、あいつはなんとも思ってないよ。
君が、これからの人生をやり直そうという気になってくれたら、あいつも嬉しいと思う。」
「…はい。」
「高見がここに居たら、きっと君にこう言うと思う。『がんばれ』って。」
「……はい、…ありがとうございます。」
杉浦の言葉に、さやかは下を向いて静かに泣いた。
兵吾の件は、捜査中の事故として処理されることになった。
警察病院の病室。
夏の眩しい日差しを避ける為、レースのカーテンがかけられている。
その中で眠っている兵吾の枕元には、玲子とみゆきが座っている。
兵吾は額に包帯を巻き、顔に何箇所かガーゼが当てられ、右腕はギブスで固定されていた。
腕には点滴のチューブがついている。
あの後、兵吾は病院に担ぎ込まれ、精密検査を受けた。
幸いにも落下したフロアに、工事資材として断熱用のシートが積み重ねられており、
運良くその上に先ず落ちたので、重傷を負わずに済んでいた。
それでも右腕の骨にヒビが入っており、全身を強打していることにかわりはなかった。
また、頭部を強打している恐れもあり、詳しく調べたが、出血の箇所は見られなかった。
が、あれから、丸三日。兵吾は眠り続けている。
みゆきは、玲子に寄りかかりながら心配そうに兵吾を見つめている。
そのみゆきの首には、包帯が巻かれている。
みゆきもまた、救急車で運ばれた後、大事をとって1日入院して検査を受けていた。
多少、気管支に炎症を起しているものの、大したことはなかった。
ただ、首の内出血の跡はしばらく消えないだろう。
「おとうさん、なんで、目、覚まさないんだろう…」
「…大丈夫よ。そのうち、ぱっと目を覚まして、なんでもない顔して『おはよう』とか言うわよ。」
玲子はみゆきの頭を撫でながら、不安を押し隠して言った。
医師からは、このまま意識が戻らない可能性もあると実は言われていた。
みゆきの話では、落下の前に、
兵吾が何かの理由で一時的に記憶を無くしていたらしいことが判っている。
恐らくは頭に何か強い衝撃を受けたのであろう。軽い打撲の後があった。
また、もし目を覚ましたとしても、記憶喪失状態のままである可能性も残っている。
「おとうさん、私のこと、なんで忘れちゃったのかなぁ。
私がいい子でなかったから、あきれてたのかなぁ…。
わたし、おとうさんに対して、あんまり素直じゃなかったからなぁ…」
みゆきはそう言うと、一筋の涙を流した。
「そんなことないわよ。みゆきはいつだって、高見さんに、自分の気持ち、正直にぶつけてたじゃない。
そういうこと、高見さんだって、ちゃーんと分かってるわよ。」
トントンと病室の入口でノックをする音が聞こえ、花束を持ったさくらが入ってきた。
「さくら…。」
「どうですか、高見さん?」
玲子はただ首を横に振った。さくらはそれを見て、唇を固く結び、兵吾を見つめた。
兵吾に変化はない。
玲子はみゆきのそばを離れて立ち上がり、さくらのいる方へ近づいた。
みゆきは布団からでている兵吾の手を握り、兵吾の方から目を離さないでいる。
病室の隅、洗面台のある脇で立ち話をする玲子とさくら。
「あの、これ、みんなからです。」
そう言ってさくらは持ってきた花束を玲子に渡した。
「ありがとう。どう?何か変わったことはない?」
「大丈夫です。山中さやかはうちの取り調べを終えて、本庁へ向かいました。」
「そう。」
「彼女、高見さんに謝ってたそうです。杉浦さんの前で泣いたって。」
「…」
「…それじゃあ、私戻ります。」
「ごめんなさいね、我儘言って。でも今は高見さんと、みゆきの側に付いていたいのよ。」
「いえ。杉浦さんがなんとかまとめてくれています。
何か緊急のことがあったらすぐに連絡をいれますから、安心してください。」
「よろしくね。みんなにもよろしく言っておいてちょうだい。」
「はい。」
そう言ってさくらは帰っていった。
玲子はさくらの持ってきてくれた花を花瓶に移し替え、兵吾の枕元へ運んだ。
兵吾の側でじっと動かないみゆき。
「…ねぇ、みゆき。母さん、お腹空いちゃったな。
何か外に出てお昼買ってきてよ。」
玲子はみゆきの肩に軽く手を置き、やさしく言った。
思いつめたようなみゆきを気分転換させる為に、少し外を歩かせようと思ったからだ。
「…うん、わかった。」
みゆきは玲子を振り返り頷いた。そして立ち上がろうとした。
その時、兵吾の手から離れようとしたみゆきの手を、兵吾の手が軽く掴んだ。
「!」
みゆきはびっくりして動きを止めた。そんなみゆきを見て玲子も気付き、ベッドに近寄った。
「お父さん?」
ぴくっと兵吾の瞼が動いた。口からは「…う、うぅん…」と呟きも漏れた。
玲子は口元の酸素マスクを外してやり、声をかけた。
「高見さん!高見さん!」
ゆっくりと兵吾が目を開けた。
ぼーっとした視線は病室の天井を巡り、やがて自分を見つめている玲子とみゆきの顔で止まった。
「お父さん!お父さん!!大丈夫?!」
みゆきは声を大きくして訊ねた。
兵吾は頭が混乱しているようで、2人の顔をじーっと見たままだ。
玲子の心に少し不安がよぎった。
でもその不安を押し隠して、そっと静かにやさしく話し掛けた。
「…高見さん。わかる?ここは病院。あなたはね、ケガしたのよ。」
兵吾は話し掛ける玲子の顔をじっと見詰めた。
「……ねぇ、私のことわかる?」
玲子の声は少し震えていた。
兵吾はしばらく玲子を見詰め、やがてゆっくりと呟いた。
「…玲…子。」
それから視線をみゆきに移し、
「み…ゆき。」と呟く。
「お父さん!私のこと、わかるの?」
頷く兵吾。喉が渇いて上手く声が出ないようだ。
みゆきは嬉しくて涙が出てきた。
「お母さん、私、先生呼んでくる!!」
みゆきは病室を駆け出していった。
玲子は嬉しくて上手く言葉が出ない。最悪の事態は避けられ、まだ詳しくはわからないけれども、
少なくても兵吾は、玲子とみゆきのことは覚えていたのだ。
「玲…子、…なんで、泣いてるの?」
「ううん。なんでも、なんでもないの。…あなたが、私のこと覚えててくれて嬉しいだけ。」
玲子は頬を流れる涙を拭こうとせずに、ゆっくりと兵吾の髪をなでた。
兵吾の記憶は戻っていた。
さやかと一緒に行動していた間のことは、多少記憶が定かでない部分もあったが、
事件の経過報告書を見たり聞いたりするうちに徐々に思い出していた。
検査の為にまだ入院している病院で、兵吾は玲子に言った。
「山中さやかは、怪我している俺に本当にやさしくしてくれたんだ…」
「そう。それはよくわかるわ。あなたの右手の甲の傷、ちゃんと手当てしてあったもの。
…彼女ね、あなたに謝ってたわ、ひどいことしてしまったって。」
「そうか…。でも、彼女には、これから、頑張ってほしいよな…。」
「ええ。」
数週間後。
兵吾はもう現場に復帰し、以前と変わりなく捜査にあたっている。
今日は、玲子の家で夕飯を食べることになっていた。
みゆきには7時に家に来るように、うるさいぐらいに念を押されていた。
玲子は先に帰っており、兵吾は一人で玲子に家へ向かった。
ピンポーンっとチャイムを鳴らすと、ドアが開き、みゆきが笑顔で出迎えた。
「いらっしゃい、お父さん。」
みゆきは浴衣を着ていた。
「あれぇ、どうしたの。それ?」
「今日はね、近くの神社でお祭りがあるんだ。それにお父さんと一緒に行こうと思って。」
「だから7時に来いって言ったのかぁ。」
「そう。でもちょっと上がって、上がって!」
「な、なに?」
引っ張られるように兵吾は家の中に上がった。
居間に入ると玲子も笑顔で出迎えた。
「いらっしゃい。」
玲子も浴衣を着ていた。久しぶりに見る玲子の浴衣姿に訳もなく兵吾は照れた。
「な、何…玲子まで…」
「あ!お父さん、お母さんの浴衣姿見て、照れてるぅ〜♪」
「べ、別に、照れてなんか…(汗)。そ、それじゃあぁ、出かけようか!」
「待って、まだ準備できてないわよ。」
「まだ支度があるのか?」
「私たちはもうバッチリ支度は終わったもんねぇー。」
玲子とみゆきは顔を見合わせて頷いた。
「じゃあ、何よ?」
「お父さんの支度がまだなんじゃない。」
「え?俺?」
「そうよ。はい、これに着替えて。」
そう言って玲子は、兵吾の浴衣を取り出した。
「え?俺の?」
「そうだよ。お母さんが縫ったんだからぁ。」
「あなた、サイズは昔と変わってなさそうだから、大丈夫だと思うけど。さ、早く着替えて、着替えて。」
「え?ええ?」
「じゃあ高見さんの着付け手伝うから、みゆきはちょっと部屋に行ってて。」
「は〜い。」
もうこうなったら兵吾は降参して、玲子の言われるがままに浴衣に着替えた。
「よかったぁ。着丈とか大丈夫みたいね。」
兵吾の帯を締めながら玲子が言った。
「これ、縫ったのか?…ありがとう。」
「そうよぉ。みゆきが3人で浴衣着てお祭りに行きたいって言い出してから、毎日少しずつ縫ったんだから。」
「本当にお前はすごいよ。」
「ふふ…。なんかね、みゆきの夢だったみたい。」
「夢?」
「そう。小さい時に、盆踊りとかお祭りとか行くと、周りは父親も一緒だったりとかする訳じゃない?
みゆき、何にも言わなかったけど、そういうの子供心にうらやましいと思ってたみたい。」
「そっか…。」
「はい、OK!準備完了!」
神社の境内。夜店が両脇に並んでいる。たくさんの人がいてとても賑やかである。
その中をみゆきを真ん中にして、3人で歩いている。
「あ、綿菓子だ。お母さん、買っていい?」
「いいわよ。」
みゆきは駆け出してその夜店の前に並んだ。
兵吾と玲子は少し離れたところで立って待っている。
「あの子、すごい喜んでるわ。はしゃいじゃって、小学生みたい。」
「ああ。」
兵吾も玲子も、みゆきが楽しんでいることがとても嬉しかった。
「ねえ、気付いてる?」
「ん?」
「あの子、あれからあなたのこと”兵吾くん”じゃなくて、”お父さん”としか呼んでいないこと。」
「あ、そう言えば…」
「あなたが記憶をなくした時、みゆきに会ってもすぐにみゆきだってわからなかったでしょ?
それがね、あなたのこと、素直に”お父さん”って呼んでなかったせいなんじゃないかって、
あの子、思ってるみたいなの。」
「そんな。そんなことないよ…」
「うん。私もね、そう言ったんだけど。
ま、いいじゃない。あの子が”お父さん”って呼びたいと思って、呼んでるんだから。」
「まあ、俺としては嬉しいけどさ。」
玲子は腕を組んでいる兵吾を見て言った。
「ふふ。あなたの浴衣姿なんて、初めてみたけど、似合うじゃない。」
「そうか?七五三の気分だよ(苦笑)。」
みゆきが綿菓子を買って戻ってきた。
「お父さ〜ん、お母さ〜ん!」
小走りに走ってきたみゆきは、2人の手前でつまずいて転びそうになる。
「あぶない!」
兵吾と玲子が慌てて手を貸す。ちょろっと舌をだしておどけるみゆき。
みゆきにとって、今回の事件はつらいこともあったが、よい転機になったと言える。
兵吾に対して、変な気を使ったりすることをやめる機会になったからだ。
甘えたい時は甘える、何か思うことがあればすぐに言う。
家族なのだから、素直に、遠慮なくやっていこう、という気になったのだ。
みゆきは留学したいと以前から考えていた。
みゆきの通う高校には交換留学の制度があり、実は高校を決めるポイントにもなっていた。
今年、それに申し込もうか、みゆきはずっと悩んでいた。
なんだか兵吾から逃げ出すみたいな気がして、またそう思われるのではないかと気になっていたのだ。
でも、留学して色々と経験したいという昔からの夢を実現したい気持ちには変わりない。
みゆきは今回の事件を通して、ひとつ、強く成長した。
兵吾に対しても、玲子に対しても、そして自分に対しても、素直に生きていこうと決めたのだ。
(でも、やっぱりちょっと言い出しにくい、かなぁ…)
みゆきの持つ綿菓子を3人でつまみながら、ゆっくりと夜店を冷やかして歩いていく。
どこにでもある家族の風景。夜空には、遠く、花火が上がっている。
そんなことをみゆきが考えているとは、兵吾はまだ知らない・・・
(おわり)
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