[3] がたん、と車が右に傾いた。ちょうどカーブにさしかかったところだった。
その拍子に手が体の下になり、その手の痛みで兵吾は目が覚めた。
一瞬、自分が今どこにいるのか判断がつかなかったが、
徐々にはっきりしてくる後ろ手に縛られた手首の痛みで頭がはっきりしてきた。
窓から見える空は、じきに夜が明けそうな気配を帯びている。
(みゆき、心配してるかなぁ…)
昨夜−。
みゆきとの待ち合わせ場所へと急ぐ兵吾の耳に、小さい声ではあったが女性の悲鳴が聞こえた。
声のした方へと行くと、女性が男ともみ合っていた。
男が無理矢理彼女を止めてある白いバンの中に連れ込もうとしているのがわかり、兵吾は駆け寄った。
「おいっ!何してるんだっ!!」
兵吾の声に驚き、女性の腕を掴んでいた男の手が一瞬ゆるんだ。
その隙に女性は男の手をふりほどき、逃げようする。
男はなおも女性を追い駆けようとするが、そこへ兵吾が間に割って入り、男の手をねじりあげた。
「痛っ…」
「しつこい男は嫌われるぞ。彼女に何の用があるんだよ?え?」
兵吾は手をねじりながら男を車に押し付けて聞いた。
女性は少し離れた所で脅えたように立っている。
「君!こいつは君の知り合いかい?」
じたばたする男を押さえつけながら、背中越しに女性に聞いた。
と、その時、男を押さえつけていた兵吾の手に鋭い痛みが走った。
男にはもう一人仲間がおり、そいつが兵吾の手をナイフで切りつけたのだ。
「あっ!」
兵吾はてっきり男一人だと思って油断していた。
ナイフは兵吾の手の甲を傷つけ、意外に深く切れたのかたくさんの血が流れ出した。
ナイフの男は更に兵吾に向かってナイフを振り回してくる。
兵吾は押さえつけていた男を離して、そのナイフをかわした。
「関係ねぇやつがしゃしゃりでてくるんじゃねぇよ!!おい、早く女押さえろ!」
ナイフの男は兵吾を威嚇しながら、仲間に指示を出す。
押さえつけられていた男は、慌てて立ちすくんでいた女性を車の所まで引きずるように連れてきた。
「痛ぇーな。急にこれはないんじゃないの…お前ら一体彼女をどうするつもりなんだよ!」
兵吾は切られた手を押さえ、ナイフを警戒しながらも男達を睨んで言った。
「うるせぇーな。あんたも余計なとこに出てくるからこんな目に逢うんだぜ。」
ナイフの男が止めを刺そうと兵吾に襲い掛かろうとした時に、人のやってくる気配がした。
「おい!誰か来る!」
「あー、ちくしょー。お前も車に乗れ!」
男達は女性を車に押し込み、兵吾のことも無理矢理車に押し込もうとした。
兵吾は男2人相手に抵抗したが、手の怪我をかばっていた為に思うような動きができず、
もみ合ってる内にナイフの男に後頭部を殴られ、気絶した。
男達は気絶した兵吾を放り込むように車に押し込め、車を急発進させてその場を去った。
その場には、最初に駆け寄った時に投げ出したプレゼントの包みと、
最後にもみ合っている時にポケットから落ちた兵吾の携帯電話だけが残った。
しばらくして兵吾が気付いた時、車の荷台部分に両手を後ろで縛られて転がされていた。
車はどこかを走りつづけている。
「大丈夫ですか?」
隣で、やはり後ろで手を縛られて座っている先ほどの女性が心配そうに兵吾を覗いていた。
「ちょっと痛いけど、なんとかね。君は大丈夫?」
「はい。あ、縛られる前にハンカチを傷に当てさせてもらったから、血は止ってると思うんですけど、
…でも早く消毒とかした方がいいと思う。結構傷が深かったから。」
「あ、ホントだ。ハンカチが巻いてある。どうもありがとう。」
兵吾は怪我をした右手に巻かれているハンカチを左手で確認した。
姿勢を立て直し、車の壁に寄り掛かるように座り直す。
男達のいる運転席と助手席との間にはプラスチックの仕切りがあり、
こちらの声は男達には聞こえていないようだ。
改めて女性を見る。歳は28、9ぐらいであろうか。
こんな状況でありながらも泣き出したり、取り乱したりしていない。
「…君はどうしてこんな目に逢うのか、わかってるんだね?」
「……ええ。」
「教えてくれないか、どういうことなのか。理由もわからずただ縛られてるっていうのも気持ち悪い。」
「ごめんなさい。関係ないあなたを巻き込んで…。あいつらは、私の恋人の行方を探してるんです。」
彼女−山中さやかの話によると、さやかの恋人シンジはあいつらと3人で強盗を働いたらしい。
最初にさやかともみ合っていたのがサトシ、兵吾にナイフを振り回したのがワタル。
ところがそのシンジが強奪した金を持って行方をくらましてしまったのだ。
さやかはさっきサトシに言われるまでその強盗事件のことは知らなかった。
ただ連絡が取れなくなったシンジの身を案じて、彼を探しに行こうと家を出たところで、
あいつらに捕まってしまったのだ。
サトシとワタルは、シンジが恋人のさやかのところに現れると思い、彼女のところへやってきたのだ。
「私、信じられません。シンジが強盗して、そのお金を持ち逃げしたなんて…」
「でも、その事件があったという日以降、君の所にも連絡は無いんだね?」
「…はい。きっと何か別の事情があるんです。だから、私、シンジの実家に行ってみようと思って…」
「で、今、あいつらもそこに向かってる、って訳だ。」
「さっき脅されて、場所を言えって…どうしよう、もしシンジが居たら、あいつらに殺されちゃう…」
「あいつらがシンジを見つけたら、あいつらが何かする前にシンジを助ければいいのさ。
大丈夫、なんとかなるさ。」
兵吾の頭の中には、3日前に発生した強盗事件が浮かんでいた。
不動産会社の事務所に強盗が入り、600万円が盗まれていた。
駆けつけた守衛が逃げていく3人組を目撃している。逃走に使用されたのは白いバン。
目下、所轄にて捜査中の事件だ。
「なんか、あなた不思議な人ね。あなたがそう言うと、なんとかなる気がしてきた…」
「そうか?そいつはよかった。あ、まだ名乗ってなかったな。俺は高見。高見兵吾って言うんだ。」
兵吾は尻のポケットにそっと手をやった。
警察手帳はまだそこに入ったままだ。まだ自分が警察の者だとバレてはいないようだ。
さっきは油断したが、組み合った感じではあいつらはそんなに強そうなわけじゃあなさそうだ。
じっくり機会を待てばなんとかなりそうだと兵吾は思った。
それにしても、たかが600万ぐらいの為にここまでするのか、とちょっと兵吾は気になった。
夜通し車はシンジの田舎へと走りつづけた。
途中、パーキングエリアで止まった時、兵吾は苦労して荷台のスライド式の窓を開け、
こっそりと警察手帳を外へと落とした。
(これで明日になれば誰か気付いてくれるだろう…)
だが生憎と玲子たちの所へこの手帳の連絡が行くのにこの後2日かかってしまうことになる。
家族で行楽地へ向かう途中にここで警察手帳を拾った小学生は、宝物を拾った気持ちになり、
誰にも言わずに手帳を大事にポケットにしまってしまった。
ただポケットに入れっぱなしにしていた為、翌朝、母親が洗濯しようとした際に手帳を発見し、
慌てて警察に届けることになるのだ。
夜が明け、シンジの田舎に着いたが、シンジがここに立ち寄った形跡はなかった。
車を山道の脇に止め、サトシとワタルは荷台の方へと移ってきた。
ワタルは脅すようにさやかに聞いた。
「おい、お前本当にシンジの居所しらないのか? あいつは最後にお前のトコに行くって言ってたんだぞ」
「知らないわ。シンジは来てないもの、私の所なんか。」
「…ひょっとするとこの女の言ってることは本当かも。だって、シンジ言ってたじゃないか…」
「ああ、そういえば、そうだな…(笑)」
サトシとワタルは意味ありげに顔を見合わせて笑った。
兵吾はその様子を黙って見つめていた。
「ってことは、この2人もう用なしだよな。へへ…ここでバラしちまおうか?」
「そうだな。この時間なら車もほとんど通らないし、人目にもつきにくいだろう。」
ワタルはナイフを取り出し、ひらひらと動かした。
2人が顔を見合わせた一瞬のスキを見計らい、兵吾は後部の扉を開けた。
「逃げろ!逃げるんだ!」
そう言ってさやかを車の外へと押し出す。
兵吾は手首のロープをさやかの分も外して、密かにチャンスをうかがっていたのだ。
さやかは少し前に通り過ぎた人家を目指して走り出した。
「走れ!振り向くんじゃない!!」
兵吾はサトシとワタルの相手をしながらさやかに声をかける。
さやかは兵吾のことが心配で後ろを振り向き振り向き、走っていく。
「てめぇ、何すんだよ!」
サトシが怒り狂い、兵吾に襲いかかる。ワタルはさやかを追い駆けようとする。
兵吾はサトシをかわし、ワタルに飛び掛かった。地面に転がりながらワタルともみ合う兵吾。
そして2人は激しくもみ合う内、崖の下へと足を滑らせてしまった。
「うわぁ…!」
「ワタル!」
運よくワタルは途中の木にひっかかり自力で崖の上へと這い上がってきた。
「大丈夫か、ワタル。」
「ああ…死ぬかと思ったぜ。…あいつは?」
「ワタルがあいつを突き飛ばすように離したおかげで真っさかさまに落ちていったぜ」
「ま、これで手間は省けたな。こんな所落ちたんじゃ、おっさんも助からねぇだろうよ。」
「まったくなんなんだよ、あのおっさん…手間かけさせやがって。」
「おい、女の方はどうする?」
「なーに、あいつだって警察には言うに言えねぇよ。もういいからほっとこうぜ。」
「ま、そりゃあそうだな。…よし、シンジの前の女のとこにでも行ってみるか。」
「ああ。余計な時間とっちまったな」
そう言うと、サトシとワタルは車に乗り込み走り出した。
さやかは岩場の影に隠れてことの成り行きを見ていた。
一旦は走って逃げ出そうとしたものの、見ず知らずの自分を危険を顧みず助けようとしてくれた
兵吾のことが気に掛かり、途中で引き返してきたのだ。
兵吾とワタルが崖下へと転落したのを見た時には思わず声が出そうになったが、
必死に自分を抑え、自分の存在を気付かれないようにした。
サトシとワタルが車で去ったのを確認してから、さやかは崖下へと降りていった。
小枝や草で手足に擦り傷ができ、途中何度も滑りながら、降りていった。
崖の下には川が流れており、その川原に兵吾は倒れていた。
「高見さん!」
さやかは兵吾の姿を見つけると、足元の石に転びそうになりながら近寄っていった。
兵吾は気を失って倒れていた。
外から見るに大きな怪我はしていなそうだが、用心して、ゆっくりと体をゆする。
「高見さん!高見さん!」
何度かさやかが呼びかけるうち、兵吾は気がついた。
「うっ…あ痛っ…」
「大丈夫?どこか痛い所はない?!」
兵吾はゆっくりと体を起こし、頭を振った。そしてよろよろと立ち上がった。
「平気?腕は痛くない?足は大丈夫?」
「ああ、大丈夫…」
「あ、でも額の所、切れてるわ。…あそこの岩場まで歩ける?」
兵吾はこくりと頷いた。
さやかは肩をかして、岩場まで兵吾を歩かせた。
多少の打ち身はあるようだが、どうやら骨折などはしていないようだ。
兵吾を岩場に座らせ、川の水でハンカチを濡らし、額の傷の手当をする。
川原の石で軽く切っただけのようで傷は浅い。
「あいつらは行っちゃったわ。」
「…」
「ここに来る途中にあったドライブインまで歩いていこう。そうして病院に行ったほうがいいよ。」
さやかは声をかけ、また兵吾に肩をかして歩き始めた。
兵吾は転落のショックからか何もしゃべらない。
歩きながら、さやかはひとりごとのように話し始めた。
「私ね、こんなに風に私のこと心配して、助けてもらったの初めてなの。高見さんを巻き込んじゃって、
不謹慎かもしれないけど嬉しかったんだ…
だから高見さんのことが心配で途中で引き返してきちゃったの。」
「…」
「本当にありがとう。私、これから行かなくちゃいけない所があるから、
高見さんが病院に行くところまでしか付き合えないけど、本当に感謝してるよ。」
兵吾は黙ったままでさやかの話を聞いていた。
ところが急に立ち止まり、さやかの方を向き直って、さやかの両肩を掴んで言った。
「君は…誰なんだ?」
「え?」
さやかは急に真剣な顔で自分を見詰める兵吾にとまどった。
「君は、…俺のことを知ってるんだね?」
「え?どういう意味?」
「俺は、…なんでここに居るんだ?俺は、…俺は…一体何者なんだ?」
そういうと兵吾は頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまった。
「ちょ、ちょっとしっかりしてよ。私は山中さやか。ちゃんと教えたじゃない。どうしちゃったのよ?」
「わからない。…君はさやかって言うのか?じゃあ、俺は、俺の名前は?」
「…それも忘れちゃったの?」
「ああ、なんだか頭の中が真っ白になってて、思い出せないんだ。
ただ、誰かと何か大事な約束をしていたような気はするんだけど…」
さやかは呆然として兵吾を見下ろしていた。
崖から落ちた際にどこか頭を打ったのかもしれない。兵吾は一時的な記憶喪失になってしまったようだ。
さやかはじーっと兵吾を見つめ、何事か考えている。
そして何か思い付いたのか兵吾の前に座り込んだ。
「本当に、自分の名前思い出せないの?」
「ああ…」
「…あなたの名前は黒川シンジ。あなたは私の恋人なのよ。」
さやかはにっこりと微笑んでそう兵吾に告げた。
|