はみパロ7『兵吾くんの受難』

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[1]

ジリリリリリ。
枕もとの目覚まし時計が鳴る。

「う、うーん…」

眠たげな声がベットから聞こえ、布団からゆっくりと手が伸びてきて目覚ましのベルを止める。
しばらくしてその手の持ち主が、布団をめくり、ベットの上に上半身を起こした。

「ふぁ〜…」

寝ぼけまなこの彼女は大きなあくびをした。
しばらくはそのままぼーっとしていたが、温まっていた肌が朝の冷気で冷え始めると
再び布団の中に潜り込んだ。そして隣に横たわっている男にしがみついた。

男も彼女が布団をめくったことで中の温度が下がったせいか、
しがみついてきた彼女を寝ぼけながらも抱き締めた。
彼女の方は抱き締められたことが嬉しくって、男の裸の胸に顔をうずめ、その日焼けした肌にキスをする。

「んん、…」
「…起きた?」

女は目を閉じて半分眠りながら、男の胸に頬をくっつけたままで話し掛けた。
男は徐々に深い眠りから覚め始めた。
右手は彼女の裸の肩を抱き締めたまま、左手で顔にかかった前髪をかきあげる。
ぱちっと目を開けた。

(ん!?ここはどこだ?!)

見上げた天井は見覚えのないものだった。
兵吾は目だけを動かして部屋の中を見回した。
そして最後に自分の右肩の所に女性の頭があることに気付いた。

「うわぁ!」

自分も彼女も裸であり、彼女の胸が自分にぴったりくっついていることにすぐに気付いた。

「おはよう。」
「あれ、お、俺…」

彼女はそのままの格好で顔だけを上げて笑顔で兵吾に声をかけた。
年は20代後半か30代前半といったところであろう。
切れ長の目にすっと通った鼻筋、なかなかの美人である。
その顔つきからは、悪戯っぽさと甘えっぽさが感じられ、猫を連想させる。

「…うーん、まだ眠いよぉ…」

彼女はそういうとまた兵吾の胸にぴっとりと顔をつけて目を閉じてしまった。
兵吾はもう何がなんだか頭の中で考えられずに言葉も出てこず、身動きもできないでいた。

(なんだ、俺は、どうしちゃったんだぁー!…落ち着け、落ち着け!…よーく思い出すんだ…)

兵吾が頭を混乱させていると、彼女が目を閉じてそのままの格好で話し掛けた。

「…あたしは、いいんだけど、…今日はお仕事休みならいいけど、時間、大丈夫?」

そう言われて首を動かしてサイドテーブルにある時計を彼女の頭越しに見ると8時40分をさしていた。

「うわぁっ!遅刻だ!!」

兵吾は慌ててベットから抜け出し、床に散らばっている衣服を身に着け始めた。
彼女はベットの上から布団にくるまってその様子をおかしそうに見つめている。
ほぼ着替え終わって彼女の方を振り返る。

「あの、俺、昨日さ…」
「はい、はい。早く行かないと遅刻しちゃうぞー!」

彼女もベットから降り手近にあったシャツを羽織ると、扉のところまで兵吾の背中を押していき、兵吾を見送った。

「はい、いってらっしゃい!」
「あの…」
「いいから。早く行った!行った!」

自分の名前を名乗ることも、彼女の名前を聞くこともできないまま、兵吾は押し出されるように外に出た。
振り返って何か言おうとすると、彼女は怒ったような顔をして、しっしっと手を振り、「早く行け」とそくしている。
兵吾は時間も気になり、仕方なく、前を向いて走り始めた。

彼女は兵吾の姿が見えなくなるまで笑って手を振って見送った。
兵吾の姿が見えなくなると、さすがにシャツを1枚羽織っただけの格好では寒すぎて、早々に部屋の中に入った。

「あ〜あ、名前ぐらい聞いとけばよかったかなぁ…。ま、もう会うことも無いからいっかー。」

昨夜床に脱ぎ散らかした自分の衣服を1つずつ拾いながら、彼女はなんだか楽しそうにつぶいやいた。
彼女の手が止まる。
見慣れない黒い手帳が床に落ちていた。
拾い上げて表紙を開いてみると、今よりは若い印象の兵吾の写真が貼ってあった。
兵吾の警察手帳である。どうやら慌てて着替えた時に落としていったらしい。

「あ、…お巡りさんだったんだぁ。」

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[2]

「はぁ、はぁ、…遅くなりました!」

兵吾は広域の部屋のドアを勢いよく開けて飛び込んだ。
ずーっと走ってきたので息がすごく乱れている。

「遅いぞ、高見。」
「高見さん、後輩に示しが付きませんから、遅刻しないようにしてください。」
「…はい、スミマセン。」

杉浦と西崎に立て続けに言われ、兵吾は神妙に謝りながらそーっと静かに自分の席につく。
チラっと課長席の方を見ると、玲子の姿はなかった。

「ラッキーでしたね。課長は、今朝は本庁に直行ですよ。」

兵吾の視線に気付き西崎が答える。

「そう嫌味を言うなよなあー。これでも一生懸命走ってきたんだからさー。…はぁ〜、疲れた。」
「夕べも飲んだのか?」
「工藤と飲みに行ったんですよね。」
「ハッ!そうだ、工藤と飲みに行ったんだよ、オレ!!」
「なにを言ってるんだよ(苦笑)。そんなことも忘れてしまうぐらい飲んだのか?
 お前ももうそんなに若くないんだから無茶するなよな。気をつけろよ(笑)。」
「工藤も二日酔いだって言ってましたけど、朝は、ちゃんと来てましたよ。」
「で、工藤は?」

兵吾が部屋の中をきょろきょろと見回すが工藤の姿は無い。

「工藤ならもうとっくに働いてますよ。今は証拠品の確認で所轄に行ってます。じきに戻ってきますよ。」

兵吾は緊張感が解けたからか、急に酔いが回ってきた。

「うっ…気持ち悪いかも…。」

室内にあるミニ冷蔵庫から水のペットボトルを取り出してひと口飲むと、兵吾はソファに倒れこむように寝転んだ。その姿を見て西崎が苦笑しながら声をかける。

「あぁ、もうしょうがないなぁ、…課長が帰ってくるまでですよ(苦笑)。」
「はい。」

素直に答える兵吾が可笑しくて、杉浦と西崎は顔を見合わせて苦笑し、それから自分たちの仕事に戻った。

兵吾はペットボトルを持った手をだらんと下ろし、もう片方の手は光を遮るように目の上においていた。
そんな兵吾の顔にヒヤリとするものが触れた。

「?!」
「はい、どうぞ。」

手をどけて見ると、正美が濡れタオルを差し出している。

「正美ちゃん、サンキュー。」

ありがたくそのタオルを受け取り、それを額と目が隠れる位置に置いた。冷たさが心地良い。
正美はにこやかに笑いながら自分の席に戻っていく。

タオルの下で目を閉じながら、兵吾は夕べのことから懸命に思い出そうとしていた。

昨夜−−−。

工藤と飲みに行った。1軒目。2軒目。そこまでは思い出せる。
既に2軒目で結構酔っていたと思う。
その後……

いっくら思い出そうとしても思い出せない。
今朝の彼女。顔に、覚えは無い。
追い立てられるように部屋を出され、パニクって走ってきたので詳しい住所はうろ覚えだが、
あのアパート近辺も覚えは無い。
・・・一体誰だ?オレはどうしてあそこにいたんだ?しかも、あんな格好で…?!

ふいにみゆきの顔が浮かんだ。次いで玲子の顔も並んで浮かぶ。
2人は笑顔を兵吾に見せていたが、急に軽蔑したような顔になると、くるりと背を向け、兵吾から遠ざかっていく。

おおーい!待ってくれ〜!違う、違うんだ!誤解なんだ〜〜!

いつの間にか兵吾は夢うつつの状態になっていたらしい。
そんなちょうど兵吾がうなされている所に工藤が帰ってきた。

「ただいま戻りましたー。」

兵吾の寝ぼけた頭に工藤の声が響いた。
兵吾がガバッと起き上がる。

「あっ!工藤!!」
「あ、おはようございます。…な、なんすっか?!」

工藤は兵吾がすごい勢いで詰め寄ってきたのに驚く。
兵吾はそのまま工藤を部屋の外の、休憩コーナーの隅に引っ張っていった。

「な、何?俺、何かしましたか?!」
「夕べのことだよ!」
「夕べ?…あ、清算のことですか?いいですよー、2軒目は俺がオゴリますから。」
「そうじゃなくって、…夕べ、オレ、お前と飲みに行ったよな?」
「そうですよー。ひょっとして覚えてないんですか?
 …ま、高見さん2軒目で完全に出来上がってましたからね。」
「それで?3軒目に行ったのか?」
「俺は帰りましたよ。でも高見さん、『行こう、行こう』ってしつこかったんですよ。」
「なんで、お前、帰ったんだよぉ!」
「なんでって、俺もたくさん飲んでたし、もうこれ以上は飲めない、ってとこまできてたんですよ。」
「それで帰っちまったのか?この、薄情モノ!」
「だって高見さん、ホント凄かったんですから。本当に覚えてないんですか?
 俺がもう吐きそうで無理です、って言ったら『じゃぁ吐いちまえ。吐いて楽になれ!吐けー!』って…。」

その時のことを思い出して工藤は困ったような顔で話した。
さすがにシラフの時に聞くと兵吾も恥ずかしくなった。

「…だから、俺、勘弁してくださいって言って、高見さん振り切って帰ったんですよ。
 そう言えば、高見さん、あの後ちゃんと家に帰れたんですか?…あ、昨日と同じシャツ着てる…。」

工藤の喋っていることはもう兵吾の耳には入っていなかった。
じゃあ、オレは1人でその後飲みにいったのか?
えーっと、えーっと…

かすかに記憶が蘇ってきた。
工藤が逃げるように帰っていった。
その後ろ姿に大声で「バカヤロー!」と叫んだ。
そして…

「兵吾ちゃん!」

と、急に兵吾の目の前に菊枝の顔が現れた。

「うわっ!なに、菊チャン!」
「兵吾ちゃんにお客様よ。さ、どうぞ、あなたこっちにいらっしゃい。」

菊枝に促されて廊下の角から現れたのは、今朝一緒にベットで寝ていた彼女だった。

「あ、高見さん。」

彼女は兵吾の顔を見て安心したように笑顔を見せ、胸の前で軽く兵吾に手を振った。

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[3]

「うぁ!」

突然登場した彼女に兵吾は激しく動揺した。
しかも、こういうことは出来れば一番知られたくない菊枝が、この場に居る!
このままこの場に居続けたら何を言い出すかわからない。
兵吾は彼女の腕を掴んだ。

「ちょっと、こっち!こっち来て!」
「え?え?」
「工藤!オレ、休憩なっ!」
「あ、はい!」
「ちょっとぉ、兵吾ちゃん?」

兵吾は強引に彼女を外へと引っ張っていった。
彼女も訳がわからないままに引っ張られていく。
引っ張られながらも、ここまで案内してくれた菊枝に軽くお辞儀をした。
その場に残された菊枝と工藤は呆然と2人を見送った。

「…なんなの、一体?」
「…さぁ。」

兵吾は夢中で彼女を引っ張っていった。

「ちょっと、高見さん。手、痛いよ。」

建物の外に出たところで彼女が言った。
その声で我に返る兵吾。

「あ、ごめん。」

彼女の腕を掴んでいた手をパッと離す。
離されて、彼女は少し腕をさすった。

「んもぅ、いきなり引っ張るんだもん。」
「悪い…」
「…別にいいんだけどね。」

にっこりと微笑んだ彼女を正面から見つめて、兵吾の脳裏に今朝の彼女の姿が浮かんだ。
痩せてウエストはきゅっと締まっていたが、その上の胸は意外なほどに豊かだった。
そして兵吾の肌にぴったりとくっついていた時の、その胸のぬくもりもふっと蘇った。
兵吾は思い出したことに照れてしまい、彼女に顔を向けていられなくなってしまった。
急にくるっと彼女に背を向ける。

「なに?どうしたの?」

不思議そうに彼女は兵吾の前にまわり、顔を覗き込む。

「え、あ、いや…」
「ふーん…、なんだか顔赤いよぉ。」
「そ、そんなことないよ。…あ、え、えっと、お茶でもどうかな?」
「うん。」

兵吾は彼女を近くの喫茶店へ連れて行く。
まだなんとなく照れくささが残っているので、つい彼女よりも前を足早に進んでしまう。

「あ、待って。」

先を行く兵吾に置いていかれないように、彼女は少し駆け足になった。
2,3歩で追いつくと自分の腕を兵吾の腕に絡める。

「えええ!?」
「だって、歩くの速いんだもん。お店、こっちなの?」
「ああ、そう。こっち…。」

彼女にはまったくそんな気はないのだが、兵吾と腕を組むと、彼女の胸が兵吾の腕にあたった。
中学生か高校生のように兵吾は体を固くした。
彼女は楽しげに歩いている。
兵吾はそれを横目でちらっと見る。その視線に彼女が気付く。

「ん?」
「ううん、何でもない。あ、店こっちだから。」
「はーい♪」

兵吾は彼女の腕を振り解くこともできず、緊張したままで彼女と歩いていった。


その時、そんな2人の姿を遠くから見ている者がいた。
玲子だった。

外出先から公用車で帰ってきた玲子は、1階の玄関先で車を降り、ビルの中へと入ろうとした。
ふっと視界の端に兵吾の姿が入った。
仕事柄、玲子は一度見た人間や物をよく覚えている。
今はデスクワークが中心だが、昔は現場で働いていた。その時に養ったものだと玲子は思っている。
だが、兵吾のことはまたそれとは違った。
たとえどんな人込みの中にいたってきっと気付くだろう。
それは玲子にとって兵吾が特別な人間だからだ。

(あれ?高見さん?)

玲子は動きを止めて、遠くの人影を見つめた。
やっぱり兵吾だった。

「なにやってるのかしら?た…」

高見さん、と声をかけようとして止めた。
兵吾の隣に人がいるのに気付いたからだ。若い女性だ。
遠くで顔までははっきり見えないが玲子よりも年齢は若そうなのはわかる。
しかもよく見ると二人は腕を組んでいる。
心なしか楽しげに歩いているように見える。
玲子の心にさざ波が立った。

結局玲子は声をかけられぬまま、2人の姿が角を曲がって見えなくなるまで見送った。



店に入り、コーヒーを注文し終えて彼女と向かい合わせで座った兵吾はまともに彼女の顔が見られなかった。
聞きたいことはたくさんある。

どこで知り合ったのか?名前は?夕べは一緒に飲んだのか?
そして一番聞きたいことは、オレは何をしたのか?

今朝や今の彼女の状態から見るに、今さら「名前はなんですか?」とはさすがに聞きづらい。
どうしたものかと、それこそ中学生の初デートのようにもじもじしながら机の上ばかり見ていると
彼女がくすくすと笑い出した。

「な〜んか、変な感じ(笑)。」
「そ、そうかな…」
「うん。だって、夕べと全然感じが違うんだもん。」
「夕べ?」

兵吾は顔を上げて彼女を見た。
彼女は机に肘をついて両手で頬づえをしながら兵吾に笑顔を見せていた。
その笑顔をまともに正面から見た時、兵吾の頭に夕べのことが蘇ってきた。

(「…そんな風に言ってくれる人がいるなんて、嬉しい。」)

そう言って彼女は今と同じ様な笑顔を兵吾に見せた。

(そうだ!あれは…)

兵吾は夕べのことを思い出し始めた。

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[4]

昨夜。
工藤と飲みに行った。2軒目で完全に出来上がってしまった。
3軒目に行こうと工藤を誘ったが、工藤は「勘弁してください」と叫んで兵吾から逃げるように帰って行った。
その後ろ姿に大声で「バカヤロー!」と叫んだ時、
兵吾の背後でも「バカヤロー!」と叫ぶ声が聞こえた。

「ん?」

兵吾の声に負けず劣らずのその声に振り返ると、向こうも振り返って兵吾を見た。
それが彼女だった。
2人とも叫んだ時に振り上げた手を降ろさずにしばらく、相手のことを見つめていたが、
相手のその片手を上げたポーズにお互いおかしくなり笑い出した。
2人とも相当に酔っ払っていたので、ほんのちょっとしたことでもハマってしまったのだ。
それからなんとなく意気投合して屋台で飲み始めた。

「世の中さー、思い通りにいかないことばっかだよねぇー。」
「ほんと、ほんと…。」

兵吾は相槌を打ちつつ、おいしそうに熱燗のコップ酒に口をつける。

「あー、ちょっとぉー!人の話聞いてるのぉー?!」
「き、聞いてる、聞いてるよぉ!」
「ほんとかなぁ…。…おじさんはさ、結婚してる?」
「’おじさん’はないで……ま、’おじさん’か。オレ?オレはね、昔、してた。」
「別れちゃったんだ。」
「ま、ね。」
「ふーん。私もね、この間別れたの。結婚するはずだった人と。」
「……」
「だってさー、二股かけてたんだよぉー、その男!ひどいでしょ?」
「うん、そりゃぁ、ヒドイ!」
「でしょ?うーん、なんかおじさんとは気が合いそう!はい、飲も!飲も!」

それからは2人で陽気に酒を飲んだ。
屋台の主人が「今日はもうこの辺にしといたほうが…」と心配するぐらいに。

屋台を後にして2人はどこへともなく、ふらふらと歩き出した。
2人とも誰が見たって立派な酔っ払いだった。お互いに寄りかかりつつヨロけつつ歩いていく。

「…でっさー、その男はさ、あっちに子供が出来たから、って言ってさー、『別れよう』だって。」
「子供、か…」
「まださ、正式に発表はしてなかったけどさ、同じ会社に勤めてたし、職場のみんなは
 あたし達がつきあってるのはさ、知ってたんだよね。」
「そっかー、それじゃぁ、その彼も居づらいんじゃないの?」
「…うん、辞めた。」
「君も居づらいね。」
「最初はね、そうでもなかったよ。職場のみんなもさ、『ヒドイやつだね』なんて言って、私に同情してくれたし。」
「…」
「私もね、暗くしてるのヤだし、『ほんとにぃー』なんて言ってさ、笑って答えてたんだよねぇー。
 …でもさ、だんだんと『可哀想な女』っていう同情的な目もしんどくなってきちゃった。
 だって、心底心配して言ってくれてる訳じゃないんだよね。珍しいものでも見るみたいな目でさ。」
「そうなのかな…?」
「たぶんね。…みんなは、暗く落ち込んでる姿を想像してたんだろうけど、
 私が逆に明るく今までと変わりなくしてたから、拍子抜けしちゃったみたい。
 それに、影では『男に捨てられた女』とか、『よく会社にいられるよね』なんて、ことも言われてたみたいだし…」
「…」

いつのまにか2人は道端に座り込んで話し込んでいた。
何かの柵に寄りかかり足を投げ出している。
並んで座った彼女の肩を兵吾は片手で抱えており、彼女も兵吾の肩に頭を預けている。
兵吾は眠ってしまったのか目をつぶっている。
彼女はどこか遠くを見つめながら話し続けている。

「…私ね、小さい時に両親亡くしてて、…彼に子供の話聞いた時、やっぱり子供には親が居た方がいいな、
 って思ったの。だからね、彼に裏切られたって思いと、しょうがないな、って思いがあるんだよね。」
「……」
「だからね、それほどショックじゃないというか、…涙も出なかったんだよね。」
「……」
「そういうさ、あたしの気持ち、わかってくれる人が誰もいないんだなぁ、って気付かされた。
 会社の仲間だと思ってた人たちとも、なーんかね、実は表面的な付き合いだったんだなぁ、って
 いうのがね、今回のことで、すごくよくわかっちゃった。」
「……」
「あたしもさ、心さらけだして、誰とも接してなかったってことなのよね。彼のことも、それほどショックを受けない、
 ってことは、彼に対してもあたしは本気じゃなかったのかもっていう気がしてきてさ…」
「……」
「なんか、そんな自分自身もイヤになっちゃって、私自身も変わらなくちゃいけないんだなぁって思った。
 …だから、私も会社、辞めちゃったんだぁ。」

「大変だったね。」

兵吾は少し目を明けて、前を見つめながらつぶやいた。彼女の肩に置いた手に力を込める。

「え?」
「うん。でも、よくがんばった。エライ、エライ!」
「…そんな風に言ってくれる人がいるなんて、…なんか、嬉しいな。」

そう言って彼女は兵吾の顔を覗き込んで、兵吾に笑顔を見せた。
兵吾も彼女の顔に視線に移す。

「でもさ、泣きたい時には泣いていいんだ。」
「……」
「いいんだ。…人間は、そんなに強くはないんだから。」

兵吾を見つめていた彼女の顔からゆっくりと笑顔が消えた。
その目に涙が自然と浮かんできた。

「ひとりでよくがんばった。」

兵吾はもう一度言い、手にさらに力を込めた。
彼女は兵吾の胸に顔をうずめて泣き出した。
できるだけ泣き声が漏れないように、兵吾の胸にぴったりと顔をつけている。
シャツが彼女の涙で濡れた。
兵吾は両手で彼女を抱き締め、彼女の好きなようにさせた。
彼女は微かに声を漏らしながら静かに泣き続けた。

暖かい…。
兵吾はそう思った。兵吾自身も人の温もりを久々に感じていた。

まだ酔いは醒めてはいない。
アルコールによって普通の感覚は麻痺した状態のままだ。
座っているアスファルトの冷たさだって感じない。
理性はすべて取っ払われているが、逆に兵吾はなんでも素直に感じていた。
自分の職業も生活も今までの人生もすべて忘れて、素直に本能のまま反応している。
彼女の話を聞いて、素直に応援したいという気持ちになった。その気持ちがそのまま言葉に出た。
そして今、自分の腕の中で泣いている彼女のことを愛しいと感じている。
それは自分を頼って甘えてくる子猫を可愛いと思う感情に似ているかもしれない。
無条件に愛しいと感じているのだ。

ひとしきり泣いた彼女はゆっくりと兵吾の胸から顔を離した。
兵吾は彼女を抱いていた手を緩める。
彼女は上半身を起こして姿勢を直し、両膝をついて正面から兵吾を見つめた。
兵吾も彼女をやさしく見つめ返す。

しばらくそのまま見つめていた彼女は、やがて顔をゆっくりと兵吾に近づけた。
そして自分の唇を兵吾の唇に重ねた。
唇を重ねたまま彼女は、抱き寄せるかのように兵吾の頭に手を回した。兵吾の髪が彼女の指にからみつく。
兵吾は、彼女を振り払うでもなく、そのまま彼女を受け入れていた。
そして彼女の背中をさっきよりもきつく抱き締めた。

ふたりはお互いを慈しむかのように、しばらくの間、そのまま離れずにいた。


そして・・・


どこをどう帰ったのかはわからないが、2人は彼女の部屋にいた。
お互いに人の温もりを欲していたのかもしれない。
2人は自然と抱き合っていた…。

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[5]

明かりの消えた彼女の部屋。


兵吾の唇と指が彼女の表面をたどっていく。
彼女はその動きに反応し、口からは吐息が漏れた。
兵吾はゆっくりと彼女の体の上を彷徨い、そしてそこがまるでゴールかのように彼女の唇に戻ってきた。
彼女の唇も、兵吾の唇を待っていたかのように熱く受けとめる。
そして今度は彼女が兵吾の体を彷徨い始めた。


ふたりの動きは、安心する為にお互いの存在を確かめているかの様な動きだった。
目の開かない小犬が母親の体温を頼りに寄り添うように、できるだけ体をくっ着け、
指や頬や唇で相手の体温を感じようとしているかの様にやさしく動いていく。

今までの生活も環境も何もかも違う2人ではあるが、
どこか突っ張って、強がって生きてきたのは同じだった。
他人に甘えることが苦手で、と言うよりは、甘え方を知らずに生きてきた。
自分が本当は甘えたいと思っていることにすら気付かない。
自分が弱っている時に、他人にどうアピールしていいのかがわからない。

そんな2人が自分と同種の相手に偶然巡り合ったのだ。
そしてアルコールによる酔いで、普段は無意識に作ってしまっている心の壁が取り払われた。
いつもは心の奥底に隠れている”自分以外の温もりを欲する”気持ちが
表に現れ、2人はその感情に素直に従って漂っているのだった。無意識に。


彼女の唇が兵吾の胸から鎖骨、首筋へと戻ってくる。
頬にくっついている彼女の顔を兵吾は両手で引き離し、正面に持ってくる。
兵吾は下から彼女の顔を見つめながら、彼女の額に張りついている髪をのけるように顔をなでた。
彼女の髪の先が微かに兵吾の顔に触れる。
彼女のわずかに開いていた口に兵吾の指が引っかかると、彼女はその指をそっと舐めた。
2人はじっと見つめあった。

そして、−−−



「ちょっと、高見さん!」

兵吾は現実に引き戻された。
目の前の彼女はわざと怒った顔を見せている。

「何、考えごとしてるのよぉ。あ、わかった。夕べのこと思い出してたんでしょ?や〜らしぃ〜。」

心を見透かされて慌てる兵吾。

「ち、違うよ!」
「どうだか。ま、いいけどね(笑)。…あ、そうそう。今日来た目的を忘れるところだった。はい、これ…」

彼女はそう言うと、そっと机の上に黒い手帳を取り出して、兵吾の方に押し出す。
手帳を見て「あっ」となり、兵吾は自分の胸ポケットや尻のポケットを探った。
確かにそこに手帳はなかった。

「あれ、どうして…」
「今朝、慌てて着替えていったからその時に落としたんじゃないかな?部屋の床に落ちてたの。」
「…ありがとう、届けてくれて。」
「どういたしまして。こんな大事なもの落としちゃうなんて、高見さんってドジねぇ(笑)。」
「ん、オレよく落とすんだ。それでいつも始末書…。」
「やだぁ。ダメよ、気をつけなきゃ。」
「はい、スミマセン。気をつけます…。」

兵吾の言い方がおかしくって彼女は笑った。
店の壁にかかっている時計をチラッと見ると、彼女はおもむろに席を立った。

「じゃあ私そろそろ行くね。コーヒーごちそうさま。」

そう言うとすたすたと店を出ていってしまう。
兵吾は慌てて伝票をつかみ、後を追いかけた。
レジで勘定を済ませ、だいぶ先へと行ってしまっている彼女に走って追い付く。

「ちょっと、ちょっと待って!」

彼女は自然に振り返り、兵吾に笑顔を見せる。

「何?どうしたの?」
「あの、オレ、オレさ…」

彼女になんと言っていいのか分からず、口ごもってしまう兵吾。
そんな兵吾に彼女は優しい微笑を返す。

「…高見さん。」
「はい?」
「あのね、私、…」

彼女が喋りかけた時、遠くの方からみゆきの声が聞こえた。

「兵吾くーん!」
「え?え?!みゆきっ?!」

駅の方から手を振りながらこちらに向かってくるみゆきの姿が見えた。
彼女も兵吾の視線を辿り、振り返って見る。
高校生らしき女の子の姿を見とめてから、兵吾の方に向き直る。

「…まさか、高見さんの、彼女?」
「えっ?!まさか!」
「だって、『兵吾くん』だなんて…」
「いや、あれは、娘!娘よ。」
「ふーん。ほんとかなぁ。私はてっきり援助交際でもしてるのかと思っちゃった(笑)。」
「ちょっと、バカなこと言わないでよ。離婚して、ずっと離れて暮らしてたから、さ。」
「そう。じゃ、まぁ、そういうことにしといてあげる(笑)。」
「いや、”そういうこと”じゃなくてさ!」

みゆきが2人のいる所までやってきた。

[つづきへ…]

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