人に歴史あり histoire(s)
しばてつの音楽生活の歴史

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1959〜:子供
1959年 東京で生まれる。
足立区の団地で育つ。

1970年 小学生5年生、ベートーベンの第五交響曲を聴く。
 ある日レコードで聴いたベートーベンの第五交響曲に面白さを発見し、以後毎日のように聴きかえす。バイオリンを買って貰い、近所に習いに行き、メロディーを書き留めることをはじめる。芸大和声第1巻を算数の問題を解くみたいに独学。中学校に入ると、ブラスバンドでユーフォニウムを吹き、バイオリンは止めてしまった。フルートとピアノの曲を作り、都の中学生作曲コンクールで最優秀賞を貰う。これ以降、賞というものを貰ってない。シェーンベルクの「作曲の基礎技法」を買う。

1975年 高校生になりピアノを買ってもらう。
 毎週火曜日の放課後は、茗荷谷の小石川図書館でジャズや現代音楽のLPを5枚借り、その足で池袋の文芸座で2本立ての映画を見て、夜中には、ジェリーマリガンのバリトン・サックスによるボサノバ風ショパンの前奏曲と油井正一の声で始まるFMの東京の「アスペクトインジャズ」を聴く。日曜日には、webern編曲のバッハの6声のリチュルカーレと柴田南雄の声で始まるに柴田南雄のNHKFMの「現代の音楽」も欠かさず聴いていた。未だ街にジャズ喫茶が沢山ありよく行った。トイレには必ず新左翼の落書きがあった。ブラスバンドでサックス、テンポが一定でない指揮、作曲を行ない、フルート+ドラム+ピアノのジャズトリオのピアノ、フォークグループのピアノ、キングクリムゾンや四人囃子のコピーなどをやっていたロックグループのキーボードなどで忙しく過ごした。今でも演奏する「unless」はこの時期に作る。この頃の形成された人格が今日まで継続しているようだ。
高校卒業後、2年間東京お茶の水の予備校とジャズ喫茶へ通い、jazzとマンガを多量に吸収。山下洋輔トリオの演奏を何度も聴きにいく。演奏や作曲は殆どしなかった。

1980年 大学に入る。
慶応大学文学部でフランス文学専攻だった。new waveと言われていたロック系音楽が異様に盛り上がっていた。天国注射の昼とか。あちこちの名前も忘れたライブハウスに、山崎春美のタコ、町田町蔵、スターリン、イルボーン、グンジョーガクレヨン、突然段ボール、サボテン、灰野敬二、白石民夫、ベッダミュージックアカデミー?、EP-4、すきすきスイッチなどのバンドに連日驚愕共感する。jazz研究会に入りピアノを弾くが上手く行かない。どうも一定のテンポが苦手。FreeJazzを試みる。 「os」「binere」などは、この頃作曲。

1984〜:即興演奏開始
1984年 荻窪goodmanで「芝てつ音個展vol.1」を開く。
「小物達」と言う小物物音即興バンドのゲストで初めてお客からお金を取る演奏をしはじめた。

1986年 Punoipenson jazz band を始める。
中心メンバーは、テナー&バリトン・サックスの堀切信志、アルト・サックスの葉山耕二、ピアノのしばてつ。ベースとドラム無しのトリオ。「G-Bridge」「インピーダンス」などはこの頃作曲。他にもモンク「バイヤ」、スティーブ・レイシーの「デッド・ライン」などがレパートリ。

1987年 ピヤニカsolo を始める。
「一定のテンポを気にしないことにする。」と決めたように思うが、実際の演奏は中途半端。スティーブ・レイシーのソプラノ・サックスsoloみたいに吹きたいと思い、「デッド・ライン」などをレパートリーにしていた。

1988年「Duo Improvisation Workshop」へ参加。
パーカッション即興演奏家の風巻隆さんの主催で、横浜大桟橋で2日間に渡って開催された大コンサート。Duoの演奏家たちが、持ち時間15分で次から次へと演奏する。演奏者だけでも100人位いたのではないか? 私は、舞踏の末成町子とピヤニカのDuoで出演。89/7/28には陸前高田の「日本ジャズ祭」へも末成町子と参加。秋吉敏子ビッグバンド、のなか悟空と人間国宝などが参加、三上寛が司会だった。

「大倉山へは東横線で行けるvol.1〜3」
バイオリンの鈴木シンメイと、やけにお客のいないコンサートを3回開く。牧野譲、田中トシ、大友良英、大熊亘、コサカイフミオ、竹田賢一、風巻隆、江村夏樹、板橋克郎、ピッチ・ブレンド、末成町子、相生雨水、等が出演。録音しておかなかったのが残念。

1991年 しばてつ専門紙「そーでもない」を始める。
ワープロ専用機を買って作りはじめた。「月刊しばてつ」と書いてすぐ消去し、「40日毎発行、そーでもない」になった。10枚〜100枚程度配る。

1993年 カセットテープ「電探ボルタメ」製作。
打ち込みと、手弾き併用でパソコンのmidiで1日で作った。10本位売る。

1993年 「コブラ」に参加。
 大友良英の誘いで、ジョン・ゾーンの「コブラ」、ジョン・ローズの「pink violin」などに参加するが、あまり上手く演奏できない。

1995〜:作曲再開
1995年 秋吉台セミナーに参加。
現代音楽のセミナー。1週間、朝9時から夜10時位まで、レクチャー、」ワークショップ、コンサートが詰まっている。三輪眞弘の「send mail」(ファゴットとハープ版)の初演断念を目撃し「作曲」の概念が具体的に変容した。細川俊夫が少しだけ良いことを言った。ステフォン・フッソングにピヤニカの演奏を聴いてもらった。若い作曲家の何人かと知り合いになった。一部の人の間では、楽譜を書く人、演奏する人の分業が立派に成立しているのをこの目で確認。ブライアン・ファーニフォーの異常に複雑な楽譜も納得、CDに複雑なサインをして貰った。他の参加者や講師の非常に高度な楽譜の読み書き能力に感嘆すると同時に、音大コンプレッックスが無くなった。非常に充実した1週間だった。

1996年「Punoipenson Real Time Orchestration Workshop」を始める。
4人のメンバーを決め、曲を持ち寄り1〜2回リハーサルを行い、ライブをGoodmanで1回行い解散する。このサイクルを3か月に一度行った。今沢カゲロウ、足立智美、江村夏樹、相生雨水、鎌田兼一、瀬川克伸、福島幹夫、高橋秀樹、木下正道、細田茂美、中村秀則、小瀬泉、古池寿浩、西村浩介、河合拓始、沢田守秀、狩俣道夫、玉井国太郎、斉藤浩、ミドリトモヒデ、宇波拓、堀尾暁子、山下政一、河崎純、岡部春彦などが多彩な人々に演奏&作曲で参加して頂く。
「P-blot」に参加しはじめる。
野村誠のピヤニカオーケストラに参加。野村誠は「正しいことを言う人」でこの後私は大きな影響をうけていると思う。この時20年ぶりにスコアというものを書き、以後譜面を沢山書くようになる。大友良英ら主催のミユージック・マージ・フェスティバルで新宿ピットインで演奏。以後、東京、京都、神戸、新潟、釧路などの、ライブハウス、お寺、小学校、美術館、ホール、ロビー、本屋などで演奏。

1998年 ピヤニカとピアノの小曲を作り演奏
斉藤コメゾー、木下正道、小瀬泉、加藤千晴、河合拓始、三浦陽子、磯孝子、らと。中でも斉藤コメゾー(=斉藤浩)とは多数の曲を作りあった。

1999年 高橋悠治の邦楽セミナーへ行く。
畏怖している大作曲家と初めて直接言葉を交わす。セミナーの宿題で「宿題」というバスピヤニカ小品を作る。風巻隆ホンキートンクアンサンブルに参加。他のメンバーは、大熊亘、坂本弘道、が固定で、神蔵カホ、カーレ・ラール、などが随時加わった。

2000年「細田茂美+モリシゲヤスムネ+しばてつ」を始める。
以後3か月に一度演奏する。完全な即興演奏だが、物音的アンサンブルが、なんというか「完璧」なバンド。ピアノでジャズに再アプローチ。

 2002年 web「そーでもない」を40日毎に更新しはじめる。
Plan-B「音楽舞踏全交感大綱 vol.4」。

2004年 オンドマルトノとピヤニカのための「電波梅」作曲。
「電波梅」は大井浩明委嘱。春、初めての海外での演奏、P-blotでフランスのリールに滞在、美術館、カフェなどで演奏。

2005年 「5chサラウンドサウンド〜ハイドン変奏曲」作曲。
世田谷美術館にて、アルト鍵ハモ×5人で客席を取り囲み初演。

2006年 アメリカ、イギリスで演奏。
4月〜5月、パーカショニスト牧原トシを訪ね、ニューヨーク、ボルチモア、フィラデルフィアで演奏。11月、P-blotイギリスツアー。

2007年 アムステルダム、ベルリンで演奏。
ピアノ曲「ノイケルン」作曲、野村誠により初演。