3. 遭難者の発見


5月3日(月)風雨、濃霧

 天気予報では今日まで持つはずだったのだが、朝起きたら濃霧で視界5m以下。しかも強風。前日、薬師から滑り降りるときに、今日の行程である北ノ俣岳から赤木岳、黒部五郎岳の稜線を観察していたのだが、稜が広く、スキーにはもってこいだけど霧に巻かれたら絶対にルートを外してしまうと考えていたので即座に停滞を決定。しかもこのルートは夏にも来たことがなく全くの初見だったので無理は禁物だ。この視界じゃ、本当に小屋が見えなくなったらもう自分がどこにいるか分からなくなって終わりだ。
 
 今日が予想外の停滞となり、残りの日数が気になる。明日は前線が通過する真っ最中で当然停滞だろうから残りは2日しかない。7日会社をサボるわけにはいかないし・・・。

 と悩んでいても仕方ないので、うだうだ布団で寝つつ、食堂で本を読みつつ長い一日を過ごした。停滞といってもテントではなく小屋なのだからありがたいもんだ。下界でもこんなのんびりした時間は持てないから、たしかにありがたい時間であった。


5月4日(火)暴風雨、濃霧

 山行前の予想どおり今日は前線の通過で悪天。停滞。当初の予定と違うのは、双六小屋にいるはずだったのにまだ奥深い太郎平にいること。双六小屋なら弓折からか鏡平にエスケープすれば一日で新穂高まで下れるが、ここではそうはいかない。万が一エスケープするとなっても折立が閉鎖されているこの時期、神岡新道を下らなければならず、下ったところでバスも通っていないので林道を延々と歩かないとならない。

 といっても天気ばかりはどうもならないのでまた本を読んだりして過ごす。夕食は小屋の食事を頼んだが、やっぱり暖かい食事はうまかった。メシと味噌汁を3杯くらいおかわりしてしまった。
食堂のテレビの天気予報では明日は寒冷前線も抜けて晴れ間が広がるとのこと。明日はやっと行動できるだろう。


5月5日(水)風雨、高曇り〜濃霧

 朝起きると昨日より予報どおりかなりマシになっている。曇ってはいるが高曇りで、北ノ俣岳をしっかり確認することができる。天候は回復に向かっていると判断して出発。スキーを履いてシールを付け、一路北ノ俣岳を目指す。

 昨日、おとといの雨でトレースはほとんど消えかけているが、視界がしっかりしているので順調に北ノ俣岳まで到達。しかしさすがに風は強く、休んでいてもあまり快適ではなかった。

 北ノ俣岳で休んでいると霧が立ち込め始め、一気に視界がなくなってしまった。朝の時点では寒冷前線が離れていくにしたがって天気は回復するだろうと思っていたので、少し不安になる。しかし時間的にも余裕があるのでとりあえず赤木岳に向かうことにした。視界が悪いのでスキーは履かず、つぼ足で下った。

 赤木岳と北ノ俣岳の最低鞍部に達したところで、遠くの雪面に人が倒れているのが見えた。青いヤッケと形から確実に人だと思い、声をかけてみたのだが返事がない。これはおかしいと思って近づくと、疲労凍死者であった。

 その蒼白の顔に思わず腰を抜かしてしまい、心拍数は一気に倍増。思わずその場から数歩逃げ去ってしまったが、「何をやってるんだ!」と思いかえして戻った。

 もう一度声をかけ、身体をゆすってみるが反応がない。顔には血の気も弾力もなく、死後硬直が始まっている感じで一見して死亡しているのが分かった。

 取りあえず携帯電話が通じるか確認するがその現場では電波は届かず、少し北ノ俣岳に戻りハイマツがむき出しになっているところまでくると電波が通るようになった。

 太郎平の小屋が一番近いのだが、生憎電話番号をメモしておらずとりあえず双六小屋に通報。双六小屋の話では太郎平にはこの時期電話はないようなので、とりあえず太郎平の小屋の下界の事務所に連絡してもらうことにし、自分も電話番号を聞いた。太郎平の事務所と連絡を取ってみると、太郎平小屋への連絡手段はないとのこと。太郎平から人足を動員して遭難者を下ろすのが一番早いと思っていたので少しショックを受ける。しかたがないので自分の携帯番号を教え、太郎平小屋から上市警察署に連絡をしてもらい、さらに上市警察署から富山県山岳救助隊に連絡が行ったようで、山岳救助隊から僕の携帯電話に連絡が入った。山岳救助隊から連絡が入るまでの間、ARIの緊急連絡先になってもらっている有持さんと清水さんにも電話を入れた。山岳救助隊の方は手馴れた感じで、現場の位置、その場の状況、遭難者の状態などを聞いてきた。現場は北ノ俣岳と赤木岳のコルの最低鞍部付近であること、遭難者は呼びかけても反応がなく、一見して死亡しているのが分かること、現在はあたり一面濃霧で視界がなく、細かい雨とともに若干強い風が吹いていることなどを伝え、さらに住所と名前、自宅の電話番号などを伝え、山岳救助隊の担当者の携帯番号も聞いてとりあえず電話を切った。その後、なにかあるといけないので実家にも電話を入れた。

 さらに15分くらい待ち、そろそろ体が冷え切ってくるころになって待ちきれずさっき聞いた山岳救助隊の携帯電話に電話を入れてみた。ここまで発見から一時間半くらい経っていたと思う。山岳救助隊の方からはまだ方針は固まっていないが「あなたもその場に長くとどまっていると冷えて危険だからもう動いてください」と言われた。このときは精神的にも余裕がなく、よく考えもせず山行を続行しようと赤木岳方面に向かってしまった。

 遭難者の現場まで戻り、再度確認する。やっぱり一見して死亡しているのが分かる。自分は学生時代に海でライフガードをやっていたので、死の判断は医師以外できないことは重々承知していたが、もう蘇生法を施そうという気にもならないほどであった。と、ふと薬師沢側でウーと獣のうなる声がした。遠くにかすかに狼か野犬とおぼしき影がみえ、こちらを伺っている。もう狼が匂いを嗅ぎつけたのかと思ってピッケルで少し追い払おうとするとどこかに消えてしまった。

 そこから赤木岳を越え、中俣乗越へ下る。まだこの時には天候は回復するだろうと思っていたのだが、万が一回復しなかったら、撤退するのに自分のトレースしか頼るものはないなと思い、スキーを履かずにツボ足で下った。しかしこの判断が本当に自分を救うことになろうとは。

 中俣乗越へのくだりも中腹に差し掛かったあたりで急に視界が5mくらいになってしまい、風も雨も強くなってしまった。この斜面は非常に広く、これはやばいなと思っていたら、案の定ルートを外してしまった。おそらくその地形や時折かすかに見える斜面の感覚から赤木沢側に外したと思う。目標物もなにもないなかコンパスも役に立たないため、これはこれ以上動いたら危ないと思い、とにかく晴れるのを待とう、晴れれば目の前に黒部五郎岳が見えて自分の位置が確認できるだろうと考え、潅木のくぼみを見つけ、そこでツェルトに包まり、ラジオを聴きながら待った。ラジオから聞こえる人の声に元気付けられる感じだった。

 しかし、一向に天気が回復する気配がなく、むしろ悪くなっているくらいであった。この時点で当初の天気予報に反して天気が悪転したと判断。おそらく寒冷前線が太平洋岸に停滞し、気圧の谷が残ってしまっているのだろうと思い、11:00の時報を待って撤退を開始した。視界は5mしかなく、この広い斜面では自分のつけたトレースしか頼るものはないのでそれを忠実に辿って戻った。一人分のかすかなトレースを見失わないように慎重に慎重に、いつもの倍くらい時間をかけて慎重に戻った。戻る途中、このまま太郎平まで戻れなかったら自分もあの遭難者みたいになってしまうのか、などといらぬ恐怖が沸いてきたが、要するに平静を保ちきれていなかったのだろうと思う。そんな自分と戦いながらなんとか遭難現場まで戻ると、今度は遭難者のそばの雪からむき出したハイマツの中で犬がうずくまっているのが見えた。先ほどの野犬か何かかと思われた影はこの犬だったのだ。一見して飼い犬だとわかった。たぶん遭難者と一緒に山に入ったのだろう。このままでは犬も危ないかと思い、一緒についてくるかと呼んでみたが主人のそばを離れる気配はなかった。しょうがないので一人でさらに北ノ俣岳へと戻り、携帯が通じるところまで戻ってから再度山岳救助隊に電話してみると、山岳救助隊は方針を決め、死亡していることがほぼ明らかであり、また視界もなくヘリも飛べないため今日は救助活動は行わず、明日晴れたらヘリでピックアップするとのことだった。明日は寒冷前線も抜け切って晴れるだろうから、さすがに正確な判断だと思った。

 そこからさらに慎重に北ノ俣岳まで戻ると13:00になっていた。自分に余裕を持たせるためあえて休憩をとり、水と行動食を口にした。ここから先は自分のトレースもスキーとスキーアイゼンのものに代わってしまうのでたどりにくい。慎重に降りなければならない。

 そして太郎平に引き返そうと少し下り始めると、人の声がした。あれ、と思って耳を澄ましていると、向こうから地元富山の3人パーティーがやってきた。朝から死体を発見して今に至るまで誰にも会わず、一人でこの濃霧の山域をうろうろしていたので、人の姿を見て思わず力が抜け、膝からへたり込んでしまった。3人パーティーにこれまでの顛末をまくしたてるように説明すると、さらに気が楽になる感じだった。

 3人パーティーはもう天気が悪いので神岡新道を降りるということ。精神的にも肉体的にもヘロヘロになっていた僕を見て、一人で下るのは危険だから一緒に来いと言ってくれた。なんとありがたいことか。遠慮なく一緒に行かせてもらうことにする。

 神岡新道は夏道が出ているところではツボ足でくだり、それ以外のところは雪面がむき出しになっているところを選んでスキーで下った。3人パーティーの方々は何度もこの神岡新道をトレースしているようでこの道に明るく、視界が悪い中、広い雪面を飄々とスキーで下っていった。僕もショートスキーで追随。「なかなか上手いねぇ」なんて言ってくれて、落ち込んだ気持ちがさらに気が和む感じだった。で、この日はこの3人パーティーとともに、神岡新道の避難小屋に泊まった。3人パーティーにはメシも分けてもらい、さらに酒も分けてもらった。下界に持って帰るのも面倒だからたくさん飲んでくれとのことで、勧められるままに飲み続けているとさすがに酩酊してしまった。と、呂律が回らなくなり出したところでなぜか突如号泣してしまった。自分でもなんであんなに情けなくも大泣きしたのか分からなかったが、おそらくあの遭難者を発見したシチュエーションが強烈だったのだろうと思う。自分はこれまで半分腐りかけた溺死体や顔が原型をとどめていないような墜落死体も見たことがあるのだが、そのどれよりも今回の疲労凍死者は強烈であった。蝋人形のように血の気のない硬直した顔が白銀の上に横たわっているそれは、なんともやり切れない感じがしてつらかった。もう少し早く発見していたら助けられたのではないか、などと酩酊しつつ泣きながら叫んでいた。

 結局この日は天気が回復することはなかった。終日、前日の4日と同じような状態だった。


5月6日(木)快晴

 寒冷前線は完全に日本から遠ざかったようで、快晴無風のなか、お世話になった3人パーティーとともに神岡新道を下山。避難小屋を出るときに上空を見上げるとヘリが北ノ俣岳上空に飛び、遭難者をピックアップしていった。

 神岡新道は地図で見るとおり一直線の尾根ではなく、特に寺地山では90度左に折れる感じで進むため積雪期にはルートファインディングに注意が必要だろうと思う。今回は3人パーティーのおかげで苦もなく下れたが、一人だったら地図をみながら慎重に下っただろうと思う。

 途中神岡新道から飛越新道に道をかえ、飛越トンネルの上を通ってから林道に降り立った。この時期、飛越トンネルは通行止めとなっており、さらに今年はその3kmほど下で土砂崩れが起きて道がふさがっていた。3人パーティーの方々の車はその下に停められていた。


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 後から分かったことだが、ここに名古屋ナンバーの車も停められており、それが遭難された方の車であることが分かった。遭難したご主人のそばを離れなかった犬は、その後自力で神岡新道と飛越新道を下り、この車のところまで降りてきたそうである。犬は車を取りにきた遺族の方に無事保護され、今は名古屋の自宅で暮らしているとのこと。しかし犬の生命力と、誰にも頼らず、来た道をきちんと覚えていてそれを辿って戻った能力には本当に驚嘆した。

 また、帰りに上市警察署に寄って自分の住所などを報告し状況を確認したところ、遭難者はおそらく3日に入山し、霧に巻かれて迷い、凍死されたのだろうとのことでした。心よりご冥福をお祈りいたします。

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 その後、さらに3人パーティーの車にまで便乗させてもらい、なんと昼飯までおごってもらった挙句、魚津まで送ってくださった。魚津経由で横浜にもどり、なんとも長いGWの山行が終わった。




4. 謝辞と総括

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