「わたしは、貴志様にお仕えする、メイド、ですから」
殊更語調を強めてなされたその宣言に、クラスメートたちは予想通りの反応を示した。
一時間目の授業が始まっても、ひそひそと囁くような声と、自己紹介のときとは大分変質した色のする視線は止む事はない。
それに、その大部分が余り好意的なものではありえないことも、何となく分かった。
多分、こうした視線にはもう慣れきってしまっていたからだ。もしかするとオレの本当の性別が発覚した時のそれに、ある意味で酷似していたかも知れない。
例えば単純な好奇。声高に傍観者の特権を叫ぶように、飽くまでも無責任なだけに一番性質が悪い。
歪んだ嫉妬。何も知らないくせに、貴志の何を身勝手に羨望すると言うのか。
呆れと、困惑。憐れみすら込めて、或いは在りもしない裏を探るように。
それからあからさまな軽蔑。
女生徒が中心の、その冷たい視線は多分、”そうしたこと”を連想した結果のものなのだろう。
マンガや小説、或いはドラマでもなければありえないような、凡そ現実的でなく、道徳にも悖る関係の想像なのだとしても、それが『久瀬』であるのなら奇妙な説得力をもってしまうのかもしれない。
きっと、この町に住む人々のイメージする『久瀬』とは、そう言う家なのだ。封建的で閉鎖的な、現代的感覚からすればどこか狂気的と言える──つまり旧態依然とした価値基準を持った、そう言うことも赦されてしまう世界なのだ。
具体的かつ端的に表すならば、”メイドを寝室に呼べるのは主人の特権”という世界。
そしてその事を、誰も疑問を感じずに当然と首肯して見せるような。
けれど、それも無理もないとは思う。
『久瀬』は分かりやすい意味で名家だったから。
専属の運転手も、使用人もいるし、溜息が出るほど立派な豪邸も構えているし。
そもそもオレ自身が、ここへ引き取られ、次期当主である貴志に付くように言われた時、”そうしたこと”を期待されているのだと思い込んでいたのだから。
あの頃のオレは兎に角、そう言う異常な思考しか出来なくなっていたから、その所為もあるのだろうけれど。
勿論、実際にはそう言うことはなかった。
主となった人──貴志は、確かに他人に誤解されやすく、思ったよりも脆い人間だったけれど、気高く、眩しい人間だった。
玖堂の人間になった以上、もう必要がないと言われても、しつこい位に彼のメイドでありたがるのは多分、彼だけには必要とされていたいからなのだと思う。
貴志は、オレの殆ど全ての罪を知っていながら、オレを必要だと言ってくれる人だから。
同僚の使用人たちの中では、少しだけ年上の村瀬由貴によく世話になって──今も、なっている。
あの人は、オレとよく似ていて、でも、全然似ていなくて、とても強い人だから尊敬している。
彼女のように、本当は笑っていたいと思うのに、中々笑顔でいられない自分を思うと思わず溜息が出た。
今でこそ少しはマシになったと思うけれど、一年前のオレは、周りに迷惑を掛け通しだっただろう。
考えてみれば、既に相沢家の遺産相続権をなくしてしまったオレをわざわざ引き取って養ってくれることに、大した打算もないはずなのだから。
わざわざ下らない目的の為に、警察沙汰にすらなったオレを必要とする筈もないのだ。
答えは単純な事だった。オレの母である相沢夏奈未が、久瀬家現当主の妹に当たる玖堂聡子の従姉妹関係に当たり、二人が幼馴染でもあったからだ。
彼女──聡子さんは本当に良くしてくれたと思う。
オレをあの境遇から救い出してくれたのも、世間の下卑た好奇心から護ってくれたのも、金と権力にしか興味のない腐った相沢の親戚たちを遠ざけてくれたのも彼女だった。
そればかりか、オレを法的にも家族にしてくれたのだ。
今はまだ、あの人を母と呼べないでいるけれど、いつか本当の母娘になれたらいいと思っている。
この負い目と罪悪感は、そう簡単には消えてなくなったりはしそうにないけれど。
そう言えば、もう一人だけ財産目当てでなく、ただの親無しの少女でしかなかったオレを引き取ると言ってくれた親戚がいるらしい。
特殊な環境で育ってしまった扱いづらい子供だと知っていながら、何を見返りに望むでもなくそうしてくれたのだと言う。
ただ、その人には当時十分な経済的余裕がなく、聡子さんとも良く知った間柄だったので、その人も結局最後には渋々ながら彼女に任せるようにしたそうだ。
けれど、その時のいざこざが原因で聡子さんとその人とは以来事実上の断交状態にあるらしい。
オレもよく知る人だとは言うが、不本意な仲違いの原因でもあるオレには、その人のことを詳しく聞くのは憚られた。
それに、実はあの事故以前の記憶はひどく曖昧だったから、もしかしたら聞いても良くは覚えていないのかも知れないし。
でも今はこれでいいと思う。そうでないと、一人では上手く立てそうに無いから。
オレの名前は、玖堂葉月。それ以外の誰でも無いのだ。
「……ふぅ……」
長い黙考の末、自分でも理由の分からない溜息を吐いていた。
誰も話す相手がいない時は、いつもこんな風に悶々と考え込む自分に嫌気が差したのかも知れない。
結局オレは何も変わっていないのだと実感してしまうから。
「……ちっ」
「──?」
ふとかすかに耳朶を打った舌打ちの音に思考の海からその身を引き揚げると、オレは何となく視線を感じて静かに首を廻らす。
先ほど知り合ったばかりの二人──真直ぐに黒板を見据え、すらすらとノートへと書き込んでいる香里と対照的にいきなり熟睡している名雪の姿が目に入った。
その様に何となく口元を緩めてしまいそうになりながら、更に後方へと視界を移す。
「…………あ」
刹那。
そうして認識してしまった何かに、そこにあったものにオレは思わず息を飲んだ。
自然とオレの眼差しは冷たく鋭く、睨めつけるようなそれへ一瞬に変化する。
その様子を知ったのか、それ──いや、異常にぎらつく双眸を持つ少年が、殆ど殺意すら隠さないかのようにこちらを睨み返した。
「……青樹(はるき)さん」
思わず口をついて出た呟きに、なぜか自分自身でどきりとする。
けれどそれ以上の動揺を表情からは消して、オレは小さな深呼吸と共に黒板の方へ向きなおした。
そっと眼を閉じてから、真新しいシャープペンシルの軸を強く握り締める。
そう、その大部分が余り好意的なものではありえないことも、何となく分かってはいたのだ。
例えば単純な好奇、歪んだ嫉妬、呆れと、困惑。
それからあからさまな軽蔑。
そして──凄烈な憎悪、だ。
誇りを持って、全身全霊を込めて主へ尽くす。そう言えるオレは幸福だ。
けれど見方を変えればオレは──オレ達は、久瀬に飼われているとも言えるのだから。
「……っ」
より分かりやすい理由に今気がついた。
確かにこの関係は退廃的で異常なのかも知れない。
口さがなく噂を? 傷つくのはオレ? そうじゃない。
もし貴志がこの身を求めるならば、オレはきっと”喜んで全てを差し出す”だろうから。
必要とされていたい。ただのそれだけのこと。でも、それはひどく不純な想いとも言える。
”そうした事実”が無いだけで、その想いはきっともっと根深くこのオレを縛るように満たしているから。
ならオレは、どうして彼らの視線から目を逸らそうと言うのか。
事情を知らないから彼らはそう感じたのかも知れない。
けれど事情を知っている者から、現実に、久瀬は恨まれているのだ。
如何なる真実があっても、きっと。
自分の大切な何かが、他の誰かに飼われていると言う事実を、どうして憎まずにいられるのか。
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Be... Sinful One
[お弁当(1)/pride]
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昼休み。弁当を抱えあげてオレは立ち上がる。そのまま教室を出ようとして、あることに気がついて立ち止まった。
今から貴志のところへ行く。高校の昼休みもそんなに長くないみたいだから出来るだけ急ぐべきだと思う。でもオレはまだこの学校に詳しくないので、貴志の教室が何処なのか分からなかったのだ。
校内の案内図なんて無いだろう。たとえ在ったとしてもその場所も分からない。
その辺をふら付いていれば見付かるだろうか? いや、よく考えてみればこの学校は無駄に敷地が広い上に迷いやすいつくりだったような。
大体、この教室の位置さえ曖昧だった。下手にうろつくと昼休み中に教室に戻って来られなくなる危険性もあるかも知れない。
そう考えて、オレは結局気の進まないままにクラスメートにそれを尋ねることにした。
ざっと教室を見渡せば、妙に大きな荷物を抱えていそいそと席を経つオレの様子が物珍しかったのか、好奇心も隠さずにこちらを観察するように眺めている数人のクラスメートが目に入った。
やはりそれは到底友好的な雰囲気でもなく、何となくこちらから話し掛けるのには気が引ける。
別に取り立てて嫌われているほどでも無いとは思うけれど、恐らくは今オレから近づいても向こうは途惑ってしまうだろう。
諦めて視線を他に移す。そんな中で、多分一番態度の変わっていなかった名雪と香里の姿が目に入った。
流石にオレの突飛な宣言の所為で多少困惑してはいたみたいだけれど、目立って軽蔑されている様子も無かったので二人に声を掛けることにする。
「久瀬君なら、多分、生徒会室じゃないかしら?」
思い切って尋ねると、香里が何かを思い出すようにして答えた。
隣りの名雪は知らないのか、どこか残念そうに首を左右に揺らす。
「生徒会室、ですか?」
「ええ、授業時間以外はそこみたいよ? あたしもそんなに詳しくは知らないけど」
「そう言えば、貴志様は生徒会長を、されてるんですよね。それで、でしょうか」
「ん、そうなんじゃじゃない。でも……ねぇ、葉月?」
オレが何時ものように、少し平坦すぎるほど冷静に呟きを洩らす。
すると香里は少し御座なりな感じで言葉を濁し、なぜか歯切れの悪い口調で問い掛けて来た。
「何です?」
「その、ね。あたしは何となく分かった気もするんだけど、やっぱりいきなりああいうことを言うのはまずかったんじゃないかしら」
「ああいうこと、ですか」
「そうだよ。わたしもビックリしちゃったよ」
白々しいまでに淡々と、静かに目を細めてみせたオレに、それまで静観していた名雪も困ったように同意する。
その様子にオレは僅かな苛立ちと、それから予想より少しだけ大きな安堵の溜息を洩らした。
この二人は、確かに、ほんの少しでも分かってくれるのかも知れない。オレを真直ぐに見ようとしてくれるかも知れない。
でも、きっと致命的な部分を誤解している。
「でも、事実、ですから」
「事実?」
「ええ。多分、皆さんが想像されるようなことは無いです。でも、きっと想像以上にわたしは──」
「?」
そこまでで言葉を切って。
(──穢れているのです)
続きのそれは胸のうちでのみ、唾棄するように紡ぐ。
名雪と香里はそのまま、いつまでも途切れたままのオレの台詞に首を捻りつつも、オレの様子の不自然さに気がついたのか、それ以上は何も追求はしなかった。
「わたしの我がままだとは知っているのです。けれど、貴志様を軽蔑されないで下さい」
「でも、だったらみんなの前で言うのは……」
名雪のその言葉に、理性で頷いて感情で首を横に振った。
そんなことは分かっている。分かりきってはいたから。
「そうすべき、だったでしょう。それがきっと一番賢くて、でも不安なやり方」
「え?」
「他の誰に蔑まれるより、貴志様にとってわたしが無価値になる方が、ずっと怖いだけ、です。貴志様は、わたしの下らない理由を分かっていて、それを許して下さります。わたしはそれを知っているから、卑怯にも自らの価値を自らに定義付けるのです」
そう考えると、オレは何と卑怯で汚い人間なのかと思った。
名雪も、オレの余りの言葉に何を言っていいのか分からないのか、何かを言いかけて結局口篭もる。
対照的に、香里はそんなオレに却って冷静な眼差しを向ける。その口元には、皮肉っぽいような、悲しいような笑みが見て取れるようにも思えた。
「ええ……そうかもね。多分誰でもそうなのよ」
誰を嗤っているのだろうか? 何となくそんなことを考える。
何かを見透かしたような香里の奇妙な性質のそれから、何故かオレは目線を僅かに逸らしていた。
今度は、オレが何を答えるべきか分からなくなった。
「……それで、生徒会室はどちらになりますか?」
暫くの後、まるで整然と滑り出した言葉に、二人が理由のよく分からない息をついたのが分かった。
オレはそれに気付かない風を装いつつ、表面では無表情のままに二人の口の開くのを待つ。
名雪はそれに少し落ち着かない様子で、香里は何かに思い至ったのか諦めにも似た疲労を声に滲ませつつ答えた。
「そうね、生徒会室は──」
刹那。
があんっ。
言いかけた言葉が、突然の轟音によって掻き消される。
叩きつけられるような、恐らくは誰かが勢いよく机を殴り付けたか何かした音だろう。
香里は一瞬びくりと肩を震わせ、どこか緩慢な動きで音源の方へ顔を向ける。
名雪は一体何が怒ったのかまだ把握しきれていないのか、途惑ったようにきょろきょろとあたりを見渡していた。
オレも訳が分からないままに香里の向いた方へ視線を移し、思わず息を呑んだ。
それから唇を軽く噛み締める。何時の間にか背筋をひやりと汗が濡らしているのに気がついた。
その光景に、唖然とするクラスメートたちとは対照的に、オレは何故か絶叫したいような思いに駆られる。
それは既視感にも似た、悪夢のような未来予想図の形だったからかも知れない。
「──ぜぇんだよ」
奇妙な沈黙を破ったのは、その沈黙を創り上げた音源そのものだった。
思った通りに、叩きつけたのだろう右の拳からは、つい目を背けたくなるほどの鮮血を流しながら。
そして、それがより一層に事態の異様さに拍車をかけていた。
その様はあまりにも凄惨で凄絶で、まさにその雰囲気が別世界めいていたから。
思わず息を呑む音が聞こえてきたのは、きっとその所為に違いない。
「うぜぇ。何なんだよ、てめぇは。吐き気がすんだよっ! 気持ち悪いんだよっ!!」
「えっ?」
その声の主の、余りに感情のこもった憎悪に満ちた言葉に、僅かでない怯えすら滲ませて香里が呟きを洩らす。
それ──普段は寡黙な筈の少年が尋常な様子ではなかったから。物静かだった彼のイメージとは余りにかけ離れていたから。
そもそも、何をそこまで興奮しているのか。そして、何故このオレへ向けて、ぎらついた殺意の眼差しをすら向けているのか。
「……青樹さん」
「気安く呼んでんじゃねぇよ、汚らわしい」
「……」
オレの声を、噛み付いて引き千切るように。
執拗なまでに鋭く刺々しい、遣り切れないような、もがき苦しむような、そんな口調で返す。
その余りの対応の酷さに、暫く呆然と見ているだけだった香里が不機嫌そうに口を挟んだ。
「ちょっと、村瀬君。いきなり何なのよ。そんな言い方──」
「うるせぇな、美坂。関係ないのに何でしゃばってんだよ」
「でしゃばる? 訳の分からないことを」
「うぜぇな、美坂、お前も。まぁ、何も知らないだろうからな。その女のことは」
「……どう言う意味よ?」
怪訝そうに眉を顰めた香里に、しかし彼──村瀬青樹は答えのかわりに舌打ちを一つ洩らした。
オレはその様子に大きく深い深呼吸をして息を整えながら、出来るだけの平静を保つ。
それが却って彼の癇に障ったのか、青樹は忌々しげに鼻を鳴らした。
「青樹さん。わたしは──わたし達は」
「──っ。お前が、その先を、言うのか!?」
「……っ……すみません」
飼われてなどいない。飼われているとしても、望んでここにいる。
少なくとも不幸ではないし、きっと喜びを感じている。
でもきっと、それはオレが言った所で何の意味も無く、却って彼には呪わしい思い出しかないのだろう。
だからオレはそれ以上は何も言えず、ただ唇を噛んで俯いた。
「……で?」
「え?」
「そうやってお前は今日も久瀬に媚びに行く訳だ。ご苦労なこったな、お嬢様」
「……何が、言いたいんです?」
「何を白々しい。そうやってお前は玖堂になったんだろう。次は、何を狙ってる?」
「それは、勘繰りすぎ、です。玖堂グループにとって、わたしは大して重要な人間ではありません」
「そのために、今度は久瀬を、手に入れるのか?」
殆ど病的なまでの妄執に取り付かれた青樹の様子に、オレは自分でも持て余した感情と共に深い息を洩らす。
分からない。どうして彼はそれほどまでに──否、理由は分かっている。でも。
「どうしてそこまで貴志様を、久瀬を憎むのですか?」
「何?」
「何も久瀬は、由貴をあなたから奪った訳では──」
「黙れっ」
「……」
いっそ哀しみを込めて諭すオレの言葉を、聞く耳も持たないと言う風に青樹は大きく頭を振った。
どこかがおかしいのは多分、本人にも良く分かっているのだと思う。でも、認めてしまえばもっと恐ろしいことになる気がするのかも知れない。
青樹はオレに良く似ているから。
あのおぞましい記憶がしばしばオレを傷つけるように、彼にもそうした古傷があって、まだ癒えてはいないのだろう。
それが裏切られた記憶なら、尚更。
一度彼が信じた所為で、本当に由貴を奪われたことがあるから。
だからきっと、信じないのは彼なりの防衛線なのだ。
そしてオレはそれを責めることは出来ない。オレと同じなのだから。
──と。
そこまで考えて、結局自分が可愛いだけの自分に嫌気が差した。
オレは何も変わっていなかった。同病相憐れむとでも言うつもりだったのか。
「……もう聞き飽きたんだよ、そう言うの。いい加減俺もごまかされて無いっての。いいか、俺は必ず、姉さんを救い出してみせる。久瀬の薄汚れた手から──」
「どうして、そんなことを言うんですか。由貴は、少なくとも、紛れも無く彼女自身の、その意思で選択をしたんです」
けれどその言葉も届く筈も無く。
青樹はいっそ哀れみをすら込めて溜息をついた。
「お前は……お前は、まるで飼い犬だな。そうだろうよ、飼い犬は、望んで飼われているさ。そう、自分を不幸だとは思ってない。でも、無様なんだよ、それ」
「……」
「貴志様のメイド? そんなことを真顔で言えるお前はもうイカレっちまってるよ。うそ寒いね。お前の両親も、あの世できっと嘆いてるだろうよ」
「そんなことは」
反射的に答えを返す。
オレの言葉はきっと、彼の意図しない理由で酷く冷たくなっていた。
下らない。
その時、本当にそう思った。
結局は、彼も同じなのに。
彼もまた、オレと同じくらいに無様で醜い生物でしかないのに。
「…………そんなことは、ありません。いえ、あり得ません。ある筈が、無いです」
「あ?」
「母は、わたしと”とてもよく似た”人でしたし、父は……あの男にはそんなことを言う資格も、いえ、権利もありませんから」
「…………」
「わたしは、狂っていますか? あるいはそうなのかもしれません。いいえ、きっとそう。でも、わたしは多分、このわたしを誇れなくなった時に本当の意味で狂ってしまう。そしてきっとそれは、あなたも同じ、なのでしょう? もし、それを由貴の選択だと認めたならあなたは──」
「──黙れ!!!」
何故か躊躇いもなく確信を込めて、だからオレは笑みさえ浮かべる。
案の定、青樹は苛立たしげに苦汁に満ちた顔をして、オレから僅かに視線を逸らした。
「……ちっ」
舌打ちをもう一度。
それからどちらも、何も言葉を発することは無かった。
ふと周りを見れば、状況が分からずにオレと青樹を見比べる香里と、自分の事でも無いのにやたらと不安そうな名雪の姿が目に入る。
それに少しだけ柔らかい気持ちになって、オレは今度はそっと心中で苦笑を浮かべた。
「ご迷惑をお掛けしました」
忌々しげな様子で青樹が教室を出ていった後で、オレは二人に自分でも不必要なまでに丁寧と思える仕草で頭を下げた。
二人はそんなオレの所作に、大体の傾向は分かって来たのか何も言わずに軽い笑みで答えた。
「あ、ううん……それはいいんだけど、何ともね」
「うん、いったい何が何なのか良く分からないし。えぇと、村瀬君と葉月は知り合いだったんだよね。なんか、ちょっと様子が変だったけど」
「それは……」
「あ、別に無理に訊きたい訳じゃないよ」
「そうね。何だか他人が入り込んで良い話じゃない気がするわ」
「それは……ですが。いえ、有難う御座います」
そう礼を述べつつ、オレは軽く目線を逸らしていた。
この二人は本当に、オレを真直ぐに見ようとしているのかも知れない。見過ぎようとしているかも知れない。
そう自覚した時、二人がどこか遠くの世界の存在のように思えた。
……いや、そうじゃない。
思わず腕の中に抱えたままだった大き目の弁当箱を軽く抱き締めるようにして、どこかうそ寒い気分でオレは僅かに身を震わせる。
改めて、自分が狂っている事実を突きつけられるような、そんな感覚。
そして同時に、そんなことを今更ながら恐れているような自分に自嘲の念が生まれた。
そう、オレは今更そんな些細な事で、この自分を迷ったりはすべきではなかったのだ。
「……それで、生徒会室はどちらになりますか?」
暫くの後、やはり整然と滑り出した言葉に、二人がとても分かりやすい理由の息をついたのが分かった。
オレはそれに心中で晴れやかとさえ言える笑みを浮かべつつ、表面では無表情のままに二人の口の開くのを待つ。
名雪はそれに軽く眉根を顰め、香里は何かを悟ったのか呆れにも似た苦渋を声に滲ませつつ答えた。
「そうね、生徒会室は──」
少し急ぐ必要があるかも知れない。
高校の昼休みは、やはりそんなに長くないそうだし。
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後書き by XIRYNN
……お弁当?(笑)
次回こそはその中身を暴露する予定です。
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