新條功治は自他共に認めるほどの屑野郎だった。
万引きは小学生から、酒やタバコを覚えたのは中学生から。馬鹿にはなりたく無かったのでシンナーは吸わなかったが。親の財布から金を抜いていたことが見つかって以来、小遣いは貰えなくなったので、必要な金は専ら恐喝して稼いだ。この頃には既に親にも見離されつつあった。
中学卒業と同時に女も覚えた。付き合いのあった悪い先輩からの卒業祝いとやらで、怯える少女を屑仲間と一緒に嬲った。
先輩は「そう言うプレイなんだよ」と下品に笑ったものだが、そんな訳がない事は彼も承知していた。何故なら少女は泣き叫んだし、なにより処女であったからだ。少女が何処の誰で、その後どうなったかは知らない。散々脅した後に廃ビルに放置したが、誰か捕まったと言う話は聞いていないので、まあ、どうでもいい事だった。
高校に入る頃には暴力団との付き合いも増えた。正確に言えばフロント企業のバイトだったが、上納金を稼ぐ為に無茶も加速した。頭の足りない女と組んでサラリーマン相手に美人局をやるのが一番楽に稼げる。大企業の部長が引っ掛かった時は最高だった。高校生相手に簡単に三百万も支払ってくれたのだから。阿呆だ。
そんな事ばかりを繰り返し、女絡みの下らない理由で喧嘩になった大学生を集団でリンチして逮捕されるに至って、とうとう家族から縁を切られた。”お勤め”を終えて帰った彼の自宅は見事な空き地へと成り果てていたのだ。
こうなっては仕方なく、高校時代の仲間の伝で血生臭い世界へとどっぷりと浸かる事となった。
学校の勉強こそ出来なかったが、彼の小ずるい知恵と臆病さから来る容赦のなさは裏社会という奴にピッタリと嵌っていたらしく、気が付けば三十を前にして広域指定暴力団直系組織である五島会の最年少最高幹部の座に収まっていた。
だが、彼は屑だった。
彼は十年に渡って世話になり続けた組長の五島隆一を裏切り、抗争中の黒澤組と密通して大陸系の組織との繋がりを強化していたのだ。昔気質な所のある五島会では海外の組織に渡りをつけるのは難しかった事情もある。
とは言え、新條にそれ程の野心があった訳ではない。もっとでかい男になってやろうとか、裏社会の支配者になってやろうだとかそんな大それた事は微塵も考えては居なかった。
ただ単にその方が金になったからだ。
屑には仁義も恩もない。薄々気が付いていたらしい組長には幾度となく警告を受けたものの、最終的に逃げ道を失った彼はあっさりと恩人を撃って逃亡した。側近中の側近として組長の身辺警護も任されていた新條には全く容易い事だった。
さて。
そんな屑にも大切なものはあった。
意外なことに、それは家族だった。見捨てられたことに恨みはあるが、それも仕方は無いと割り切ってもいる。
女の好みは母親と同じタイプだと自覚しているし、代議士だった偉大な父への幼稚な反発から非行に走ったのだと今では思っている。要するに理想的な家族において自分だけが異端だった事が強いストレスになっていたのだろう。
愛情の裏返しと言っては、彼は余りに歪みすぎてしまったが。
中でも殊更大切にしていたのは、今隣に在る、彼にはおよそ似つかわしくない可憐な少女だ。
贔屓目無しに見ても美しいその少女は、彼の年の離れた妹であり、彼にとって最後の”守るべきもの”だった。
笑えばさぞかし可愛らしいであろう少女は、しかし今は何も語らず、虚ろな瞳をしていた。
土砂降りの雨の中を走るトラックの助手席にだらりと身を預け、時折びくりと唇を震わせる以外には特に何の反応もすることはない。誰がどう見ても異常な様子は、しかし彼女の着用する入院着を見れば何となく事情を察することは出来る。間違いなく碌な理由では無さそうだが。
新條はその様を一瞥し、奥歯をぎりとかみ締めた。自然にステアリングを握る力も強まる。意識して深呼吸をした。
気を抜けば、余りの怒りに憤死するのではないかとすら思えた。だが、まだ死ぬわけにはいかない。
身勝手なことは自覚している。彼自身、同じことは何度もやってきた。
やればやり返されるのは当然だと言うことも知っている。しかし、そんなことは何の慰めにもならなかった。
因果応報? 自業自得? だからなんだ。
覚悟していたか? している訳がない。彼はそんな格好のいい悪党なんかじゃあない。彼はどうしようもない屑だからだ。
新條ほどの屑が溺愛する妹が見目麗しい少女であるならば、この結果は幾らでも予想は出来たことだ。
予想していながら何も省みなかった新條はどう考えても最低であったが、ここに至っても彼に後悔はない。
ただ凄まじい怒りだけが彼の脳を支配していた。
ボンネットを叩く雨とクラクションの音が煩い。
遠方から徐々に近づくサイレンの音はもっと煩い。
興奮の余り壊れた機械染みて来た自らの呼吸音は最悪だ。
ああ、ああ。
まだか。まだなのか。
この時間、この道で間違いはないはずだろう。
妹の話した事だから間違いはない。
自分でも確かめたことだから、完璧のはずだ。
名前も顔も確りと覚えている。
特にあの異様な目つきは忘れようと思っても忘れられるものじゃない。
自慢の妹だが、男の趣味の悪さだけは最低だ。
あれは尋常じゃない。まともじゃない。屑と自覚する新條から見ても、在り得ない壊れ方をした男だった。あんな風になっては人間はお終いだ。
妹は優しい人などと評したが、それを聞いたときは一瞬意識を失いかけたものだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。恋は盲目と言うには余りにも余りだ。
あれが優しいなら、新條ですら聖人に叙せられる自信がある。
あれ程狡猾で邪悪な存在は他に居ないだろう。
妹の同級生と言っていたからまだ二十にも満たない少年の分際で、関東最大級の組を二つも壊滅に追い込んだのだ。
奴の策略によって喰いあった双方の主要人物は殆どが死ぬか逮捕されるかした。にも拘らず、どんな魔法を使ったか奴は何のお咎めもなくのうのうと高校生などをやっていやがる。
新條自身も破滅し、彼の妹も心を殺された。
五島会からはどうにか逃げ遂せたものの、直ぐにでも警察に逮捕されることだろう。
彼は諦めの悪い屑だが、馬鹿ではない。そのくらいのことは分かった。
だが、こんなことで終わるわけには行かない。
あれを殺してケリをつけるまでは、死ぬわけにも捕まるわけにも行かない。
ああ、ああ。
まだか。まだなのか。
怒りと苛立ちに獣のような絶叫を上げそうになり――。
彼は、とうとう見つけた。
興奮はピークに達し、しばし自失。ヒューと言う呼吸音で我に返る。
何時の間にか無意識にアクセルペダルを全力で踏み切っていた。
爆音に奴が振り返る。
ボロボロの黒い人形を大事そうに抱え、飽くまで自然体に佇む。そこだけ時間の流れが違うような優雅さには怪異の気配すら覚えた。
もう回避も間に合わない距離に一瞬だけ交差したのは、吐き気を催す無表情に張り付いた凍るような瞳。
例えば獲物を見据える蟷螂。或いは静寂の闇に鏡越しに見る人形。
カチカチと歯を鳴らす。ナイフでも銃でもなく、トラックを使ったのは正解だ。こんな怖ろしい奴とまともにやり合える訳が無い。
追い詰めている筈の彼が生唾を飲み込む。泣きたいほどの恐怖。化け物め。
気が付けばとうとう叫んでいた。
妹は相変らず反応しない。振動に身を任せるままに震える宙を見つめている。
ああ、むち打ち症になってはいけない。
新條は今更そんな間抜けなことを心配して。
――衝撃。
本願を果たし、だがそれ以降の記憶はない。
何故か泣いていた妹のことだけは確りと覚えている。
次に眼を覚ましたのは病院だった。
頭を強く打った後遺症で視力を失ったらしいがどうでもいい。取調べも受けたが、上の空で答えた。
新條はどうやって自殺すればいいのかを考え続けた。
残念なことに、小ずるい彼は死刑になるほどの事はして来なかったからだ。
新條功治は自他共に認めるほどの屑野郎だった。
だが、滑稽なまでに良い兄だった。今はもう屑でしかない。屑は死ぬべきだ。
妹を殺してしまったので、彼は初めて後悔で泣いた。
「……っ」
暗く狭い箱の中で、僕は目覚める。
寝覚めは最悪だ。
桜田ジュンに相対してしまったことは勿論、水銀燈との戦いで力を使い過ぎた。加えて、”鏡”の力を使って夢の世界へ強引に逃避して来たことは、元々それに特化した能力を持つわけでもない僕には消耗が激し過ぎた。
そこへ来て更に余計な力を使ってしまった。補給は出来たものの、差し引きすればマイナスだろう。
とんでもない失策。如何に僕が最優であっても、無尽蔵の力を持つ訳ではない。
むしろ、燃費が悪すぎるが故に持久戦には向かない。攻撃と同時に力の補給が出来ればと考えるが、それも難しい。充分に集中しなければ、効率的に力を摂食出来ないのだ。かと言ってミーディアムと契約することも出来ない。そう言う能力は僕には無いからだ。人間からはせいぜい一方的に貪るのが関の山だ。
それは余り優雅とは言えないし、楽しくはない。
だが、立ち止まる訳には行かない。
とにかく一刻も早く力を補充しなければならない。気は進まないが、夢の世界には食餌は豊富にあるだろう。
僕はほうほうの体で鞄より抜け出すと、ふら付きながら何とか立ち上がった。
左足が思うように動かない。関節が錆び掛けている。非常にまずい状態だ。
無我夢中で幹へと手を伸ばし、寸前で躊躇する。
(世界樹は……ダメだ)
喰らえないことも無いだろうが、どのような影響があるか分かったものじゃない。他の心の樹を探さなければ。
だが若すぎるのは良くない。病気の樹が良い。傲慢な偽善だと言うことは知っているが、僕は食餌を選り好みしてしまう。
真紅には欺瞞だと罵った。だが、本当は僕が罵られるべきなのだ。
けれど、あれ程のミーディアムと契約を交わしておきながらそれを下僕などと呼んでぞんざいに扱う彼女に嫉妬を抑えることは出来なかった。
僕には決して手に入れられないものを、沢山持っているくせに。
いっそ開き直れるほどに僕が強ければどんなにか良かったろう。
どんな動物も命を食べる。だったら僕だって同じはずだ。
(この樹を食べることだって、当たり前のはず)
漸く見つけ出した老木に寄りかかるようにして、僕は言い訳染みたことを考えた。
だってそうだろう。この樹はもう幾らもしないうちに枯れてしまう。早いか遅いかの違いで、だったら僕が罪悪感を感じることなんか無い。それに、どうせ食べ無いといけないのだから、これこそが欺瞞。
どちらにせよ、もう後戻りは出来ない。もう引き返せないところまで来てしまった事は、自分でも良く分かっている。
ああ、頭が良く廻らない。とにかく力を。
半ば倒れこみながら幹にそっと手を触れた……瞬間に、また、紫色の焔が噴いた。
爆雷染みた轟音。これまでとは比較出来ないほどの凄まじさで、数メートル級の樹を一瞬で丸呑みする。
皮肉にも皓々と美しく輝きを放ち、歌声にも似た悲鳴を上げて崩れ行く。
悲痛の歌は僕を苛む。
人間の命は、悲しいほどに美味だった。
数十年分の人生は僅か数秒で僕の糧となる。この指先に光る黒曜石の爪が、およそ一年分の思い出を食べて形作られる。
僕の最大攻撃である黒曜石の雨は実に人間十人の一生分の命で出来ている。
だから僕は最強だった。薔薇乙女達がミーディアム一人を絞りつくしたって、敵いっこない。
樹は燃え尽きた。
僕は酔ったような溜息を吐いて、その場にへたり込んだ。酷く眠い。
空を見上げれば抜けるような蒼。眼で見ている訳でもないのに、見上げるなんて変だと少しおかしく思った。
眼を開けることはお父様に禁じられている。
正確に言えば、この眼をお父様に認めて頂けなかった。
虫唾が走ると言われ、それから眼を開くことが出来なくなった。
人形の眼には見る機能などは無い。だから、眼を閉じていても見ることに支障は無かった。
だから、ずっと閉じている。
今でも怖くて閉じている。
眼を開けば、悪夢から覚められると期待しているから? それとも、残酷な現実を見たくないから?
本当は薄々気付いている。僕はもうお父様に捨てら――違う。そんな事は無い。
きっと僕には足りないものがあるから。それを手にすることが出来れば、迷子の僕をお父様に見つけて貰える。
僕がミーディアムを持てず、喰らうしかないのも多分、真紅達と決定的に違うことが原因。
水銀燈の言っていたもの――奇しき薔薇<<ローザ・ミスティカ>>。
アリス・ゲームとか言う下らないお遊びなんて知ったことじゃない。
僕はそれを、きっと手に入れる。
蒼星石は余りの醜悪さに悲鳴を上げそうになった。
彼女が人間であったならば、吐き気すら催したに違いない。
彼女のマスターの心の樹が生きながらにして喰らわれている。
紫色の焔を噴き上げ、葉がボロボロと崩れ落ちる。
考えるまもなく【庭師の鋏】を取り出して駆けつけるも、気が付いてから僅か数秒で最早手遅れだった。
老木の幹には真っ暗な人形が凭れ掛かり、何の感慨も無く命を食べている。
やがて食事が終わったのか、人形は満足の溜息を吐き、食休みでもするようにその場に腰を下ろした。
決定的に間に合わなくなった。
契約が切れてしまったことも自覚した。
だからといって、あんなものを赦す訳には行かない。
彼女は闇色人形の元へ漸く到達し、無言のままに鋏を一閃。だが、容赦の無い一撃は人形を捕らえることなく、黒曜石の反撃に切っ先を逸らされる。そのまま勢い余って別の心の樹の蔓を引き裂く結果となった。
「――っ」
完全に不意を付いた積りがあえなく仕損じ、蒼星石は不利を悟った。
ただでさえこちらは契約の切れた身、あちらは心の樹を丸呑みするような非常識な存在なのだ。
この一撃で、倒せないまでも多少のダメージは与えたい所だった。
悔やむのは後にして、彼女は素早く振り返ると油断無く鋏を構えなおす。
それから相対する敵の姿をもう一度確かめた。
矢張り人形。見たことの無い姿では在るが、恐らくは彼女もまた姉妹なのだろうと推測する。
ローゼンメイデン以外にこれほどの人形はありえない。
ただ、言い知れぬ違和感はある。姿は真紅に近く、雰囲気は水銀燈を思わせるが、どうにも”らしく”ない。
漆黒のゴシックドレスは飾り気が無い。髪飾りも無かった。
ただ艶やかな黒髪が真っ直ぐに垂らされ、肌の白さは魔的であってどこか日本人形の風情もある。
加えて特徴的なのは閉じられたままの瞳だった。
だが、それをじっと見つめてはいけない事を直感する。ニーチェではないが、あの深遠を長く覗いてはいけない。
いつの間にか震えていた指先を強く握る。その手の中の鋏ががしゃりと音を立てた。
蒼星石は搾り出すようにして問いかけていた。
「……君は、何だ……」
迂闊だった。
まさかこんな所にまだ薔薇乙女がいたとは。
力は回復し切れていない。不意打ちをかわしきれたのは殆ど奇跡に近かった。
必要以上に警戒されている様子なのが救いだが、戦うのは得策じゃない。
だが、戦わずに済ませられる雰囲気では無さそうだ。話し合いの余地のある相手ならば問答無用で襲ってくることも無いはず。
喰った力は高々老木の一本。楽観的に見ても彼我の戦力差は互角だが、覚悟を決める必要があるかもしれない。
行き成り攻撃される言われは無いが、黙ってやられる訳にも行かないのだから。
「何の真似だ? お前に恨まれる覚えは無い」
それとも僕は余程腹立たしい姿をしているとでも言うのか。
目の前の蒼い人形とは初見の筈だし、僕は彼女に何をした覚えも無い。
だと言うのに、彼女は激発して鋏を振り回した。
「――っ、それは随分悪趣味な冗談、だ。……君は――」
「……話が見えない」
苛々する。
最悪の状態は脱したとは言え、僕はまだ万全とは言えないのに。
まだ上手く思考が働かない。
大体何故僕が責められなければならないのか。どう見たって非はそちらにあると言うのに。
面倒くさい。
僕は煩く囀る人形の口へ黒曜石の刃を突き立てようとして。
「君は、マスターを、喰ったな!!!」
その絶叫に、身を竦ませた。
「マスター、だと?」
喰った。そう、僕は喰った。
老木を喰った。何のために? 生きる為に。
何を? 老木を。否、そうではなく、誰を?
「そうだ、それを、君は――あんな風に、当たり前のように、簡単に――」
マスター?
それは誰か。ああ、知っている。
さっき食べた。とてもとても美味しかった。
老木にしては瑞々しい悲鳴を上げてくれた。
どうして?
きっと、ミーディアムだから。
(あは……あはははは)
可笑しくて、笑い出しそう。
「……あの樹が、マスター?」
「――っ」
ついに声を上げて笑った僕に、返礼は鋭い刃の一閃。
それも手加減の一切は無く、正確に胴を切り裂かんとする必殺の気配。
かわしきれない事を悟り、蒼い人形の口元を狙った爪剣を咄嗟に盾へ変換する。
辛うじて衝撃を受け止めるものの、練の足りなかったせいか一撃で砕け散った。
蒼い人形のマスターの一年分は、蒼い人形の攻撃であっけなく砕け散った。
何と滑稽なことか。
余りに滑稽なので、つい泣きそうになった。
それ以上に、どうしようもない馬鹿の人形に腹が立って仕方が無かった。
だから決めた。
こんな下らない人形には、やっぱりローザ・ミスティカは勿体無い。
(それなら、僕が有効活用してやろう)
似たような事を水銀燈に言われたことを思い出す。
あの時は良く分からなかったが、きっと彼女も今の僕と同じ気持ちだったのだろう。
全く僕は薔薇乙女達と相容れそうに無い。
水銀燈は気持ち悪いし、真紅は妬ましい。この蒼い人形は下らない。
「確かに枯れかけていた! 君が何をしなくとも、遠からず枯れてしまったろう――それでも、あんな風に終わらなければならなかった筈がない!!!」
分かりきった事をいちいちがなり立てる。
本当に煩い。黙れ。気分が悪い。
だったらどうすればいい?
無機物の命を食べても満たされない。動物だって同じ。
僕が生きる為には人間を食べるしかない。
人間を食べないで、ひっそりと消えてしまえばいい? そんなのはごめんだ。
僕は生きる。生きて、きっとお父様に必要とされる人形になる。
綺麗ごとばかり言うのは、初めから何もかも持っているせい? 愛されているせい?
どうしてそんなにも下らないことばかり言うのか。
僕をこれ以上失望させないで欲しい。
「それを何故――あんな、怖ろしいことを。君のしたことは、赦されることじゃ――」
「うるさい」
「――なっ」
べらべらと囀る人形の胸を狙って黒曜石の爪を振るう。
前触れもなく、完全に虚を突いた一撃に蒼い人形は回避する術もないだろう。
反応出来た事が精一杯。
鋏を盾に何とか上体を逸らそうと試みたようだが、目測が甘い。
爪を更に伸張させ、触れた先を抉りつつ存在を貪り喰らう。
「がはっ」
動きの鈍った一瞬にもう一歩踏み込んで、完全にその身を刺し貫いた。
「――――っ!!」
蒼い人形は最早声も出ないのか、苦痛と驚愕に眼を見開く。
対照的に、僕は愉悦と期待に瞼の奥の瞳を輝かせていた。
不意を突いたとは言え、余りにあっけない幕切れに言い知れない不安はあるものの、指先から伝わる力はどうしようもなく僕の心を高揚させる。
腕を上げると、人形は簡単に持ち上がった。
自重が掛かった所為で苦痛が増したのか、重い呻き声が上がる。
「さあ、ローザ・ミスティカを渡せ」
「……ぐっ、誰がお前に――ごほっ……」
「――薔薇乙女の力は美味すぎて、僕にはまるで麻薬なんだ」
人間の命が僕にとって生きる糧とするならば、薔薇乙女達のそれは嗜好品に近い。
それも依存性の極めて強い麻薬のような、まともではない類の。
「押さえが利かなくなるんだ。歯止めが利かなくなるんだ」
「ぐ、ふぅ………あぁああああああああああああ!!!!!」
爪先から肘に向かって紫焔が大きく噴き上がった。
「それは困る。ローザ・ミスティカを貰わないと。またうっかり壊してしまってはいけない」
「っ――何、を」
僕は自分がもう狂ってしまったことを自覚する。
まただ。いつもそうだ。
僕はこんなことは望んでいない。望んでいる筈が無い。
けれど、薔薇乙女はとても美味しい。
――美味しかった。
思わず口元が歪んでしまう。
「……っ!!! き、貴様っ、まさか――」
「翠星石、だったか。 ローザ・ミスティカを貰う前に壊れてしまった」
「貴様あああああああああああああああああああああああ!!!!」
絶叫と共に、蒼い人形が強引に爪を引き抜いた。
しかし、百舌の早贄のような体勢からでは余りに無謀。壊さないように折角綺麗に貫いてやったものを、傷口を大きく広げながら彼女は転がり落ちる。
胸には大きく風穴を開け、落ちる際に自らの鋏を巻き込んで右腕の関節が不自然に捩れている。
最早修復の見込みは無いことは明らかだった。
「貴様は、翠星石を――」
「壊してしまった。そんな積りは無かったんだが」
「黙れええええええええっ!!!」
人形が怒りと絶望の声を上げる。
辛うじて無事な左手に鋏を構え、力の入らない両足で倒れこむように突進するのがせいぜい。
何の技巧もなく速さも無いその稚拙な一撃は、僕には届かない。
ご都合主義の奇跡などは在り得ない。
どれほどの想いを持ってしても、どれほどの正義を叫んでみても。
世界は理不尽に満たされていて、冷徹なまでに公平だ。
僕の一撃は彼女よりも勝り――
「――ぎっ」
あっけなくその首を切り飛ばした。
僅かな静寂の後で、からん、と軽い音を立ててそれが転がった。
「…………しまった」
僕はまた、ローザ・ミスティカを手に入れられなかった。
残念だ。
とても残念だった。
首を拾い上げる。胸に抱えるようにして、じっと眺める。
断面は流石に黒曜石の切れ味と言うべきか、気色の悪いくらいに滑らかだ。
「……あ」
雨が降ってきたみたいだ。
ぽつぽつと止め処なく零れ落ちていく。
見詰め合う人形の頬を濡らして、まるで泣いているみたいになった。
でも何故だろう。
人形の首は僕の体の下にあるのだから、雨に濡れるはずは無いのに。
熱い雨は、止め処なく降ってくる。
身勝手な懺悔の後に、僕はのそりと立ち上がる。
いつの間にか膝を突いてしまっていたらしい。
名前も知らない人形の首をそっと地面に下ろして。
――茨の槍に胴を貫かれた。
あまりの衝撃に思考が追いつかない。
半ば恐慌に陥りながら振り返った矢先に、全身を黒い羽が絡めとる。
そのまま爪先に群がって、黒曜石の剣を完全に封殺した。
全身に力が入らない。
(何だ……これは)
全快とは言えないまでも、蒼い人形からはそれなりの力を奪えた。
”初めて”水銀燈と殺り合った時と同等以上には、動ける筈だと言うのに。
なのに何故――否、問題はそんな事ではない。
それよりも在り得ないのは。
「――何故、お前が、生きている?」
嫉妬と怒りに任せ”バラバラに壊したはず”の真紅は、柳眉を吊り上げ涙を流しながら僕を睨んでいる。
伸ばした指先は真っ直ぐに僕の胸を貫いている。
恐らくこの槍は彼女の力なのだろう。
よりにもよって串刺しにされたことに、僕は場違いに笑みを浮かべた。
「何が可笑しいんだ、お前」
感情を抑えきれないのか、震えながら詰る声が僕の耳朶を打つ。
緩慢な仕草で空を見上げれば、巨大な黒翼を広げた不機嫌そうな水銀燈に抱えられて降下する桜田ジュンの姿。
やがて地に下りると水銀燈は彼を乱暴に放り捨てた。
ジュンの抗議を無視し、転がっていた蒼い人形の首を拾い上げる。
彼女は無言のまま歩いて、それを首なし人形の体――あるべき位置へ戻した。
「あなたのせいで、アリス・ゲームは台無し」
それから、水銀燈は何時もとは打って変わって静かな口調で告げる。
「あなたが全部壊してしまったから。ローザ・ミスティカを砕いてしまった」
「もう、誰もアリスにはなれなくなったのだわ」
「アリスなど知らない。質問に答えろ、真紅。何故お前が――」
「生きてなんかない!」
僕の問いをジュンが遮った。
そのまま僕の方へ駆け寄ると、水銀燈の黒羽ごと僕の胸倉を締め上げる。
瞼越しに合った瞳からは力は奪えなかった。
いつの間にか媒介たる黒曜石無しでは喰らえないほどに、彼の迷いは無くなってしまったらしい。
つくづく訳が分からない。
「真紅は、生きてなんか、ない――お前が、殺したんだ」
「なら、あれは何だ」
「壊れた体を直すことは僕にだって出来る。服だって幾らでも繕える。だけど――」
「それは充分に凄いことだわ、ジュン」
「凄くなんてない――僕には、それしか出来なかった!」
どうやら迷いが無いどころではなかったらしい。
だが、これは、どういう冗談だ?
馬鹿馬鹿しいが、まさか。
「ローザ・ミスティカも無しに、ローゼンメイデンの魂を呼び戻したとでも? それは、どんな冗談だ!」
奇跡ですらない。
ここまで荒唐無稽だと、冗談染み過ぎている。
ご都合主義の奇跡などは在り得ない?
いいや、ここにあった。馬鹿馬鹿しいくらいに。
桜田ジュンの為したことは何の媒介も無く意思ある人形を作り出したことに等しい。
そんな事はローゼンにだって出来るかどうか。
「だが、そんな無茶が――ああ、そうか」
「その通りだわ。そんな無茶が通るわけが無い。今の私はただの幻。直に消える夢」
「そうまでして僕を壊したかったか」
「……私の責任なのだわ」
責任。
余りに傲慢で身勝手な言葉に、僕は怒りを覚えた。
「真紅、お前は――」
「――もう飽きたわ、さっさと逝きなさい」
「っ!! ……がっ」
割り込んだ声と共に、体を締め上げる圧力が膨れ上がる。
衝撃にジュンが弾き飛ばされ、尻餅をつく。相変らず格好のつかない姿に、僕は奇妙な安堵を覚える。
ごきり、と。
左腕が圧壊するのが分かった。
相変らず力が入らない。真紅の茨の槍の効果なのか、それとも水銀燈の力か。理屈は分からないが、絶体絶命と言うことだけは確かだろう。
「アリスにはなれない。じゃあ、わたしは何のために生きているの? ねえ、化け物」
「ぐ――が、ああ」
べぎん。
右足が割れた。
「お父様には会えない。もう何年待ってもアリス・ゲームは始まらない。ローザ・ミスティカは私と、第七ドールのそれしかないのだから――それじゃあ絶対にそろわないわね。ねえ、どうしてかしら、化け物!?」
「っげぁ……ご……」
がぎん。
右腕は肩ごと砕けた。
「何もかも台無しよ。お前の、下らない遊びのせいで! お前のような、汚らわしい化け物のせいで!!」
「ぎぃっ」
かん。
右足は、冗談のように簡単に潰れた。
最早体を支えることも叶わず、僕は芋虫のようにその場に這い蹲る。
水銀燈は詰まらないものを見たように鼻を鳴らすと、そのままくるりと踵を返した。
交代と言う訳でもないだろうが、今度は真紅が近づいてくる。
(……打つ手なし、か)
余りに無様だったが、どこかで納得もしていた。
案外簡単に終わるものだと、酷く他人事のように感心すらして。
きっとこの感情を諦念と言うのだ。
だから僕は、瞼越しの視界をいつの間にか覆っていた薔薇の嵐をどうするでもなく眺めて。
「さようなら、偽者のアリス」
何故だか口を付いた感謝の言葉と共に終わりを受け入れた。
「……っ」
暗く狭い箱の中で、彼女は目覚める。
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