第2回 安曇野検定(歴史・文化・伝統編)

 

 

一般の部 私の解答

 

 

問題1〜問題50

 

 

問題51 植原悦二郎は明治大学、立教大学、東京高等工業学校で教授や講師を歴任する中で、政治学・比較憲法論等を講じていました。当時植原が主張していた理論はどれでしょう。

 

 民本主義

 民主主義

 天皇主権

 国民主権

 

私の解答  国民主権

植原悦二郎は、三郷中萱に生まれました。明治32(1899)年に渡米しワシントン州立大学卒業後、ロンドン大学で政治経済学博士の学位取得。明治44(1911)年帰国後、明治大学、立教大学教授や、東京高等工業学校で講師を歴任する中で、政治学・比較憲法論を講じていました。天皇主権の憲法下で、国民主権・天皇象徴性を主張しました。大正6(1917)年に犬養毅に説得されて衆議院議員となりますが、大政翼賛会には批判的な立場から昭和17(1942)年の翼賛選挙には落選。「暗黒日記」の著者:清沢洌とともに軍部全体主義体制に対抗し、太平洋戦争の和平にも尽力しました。昭和21(1946)年第1次吉田茂内閣で国務大臣、改造後は内務大臣を歴任し、国連総会の顧問などを務めました。信濃高等学院(現松本第一高校)の創立者でもあります。

 

 

問題52 植原悦二郎は軍部全体主義体制に対抗し、太平洋戦争の和平にも尽力したといわれていますが、この時植原と歩調を合わせて軍部に対抗した「暗黒日記」の著者でもある執筆家は誰でしょう。

 

 清沢洌

 会田貢

 青柳優

 藤森馨

 

私の解答  清沢洌

 

 

問題53 植原悦二郎は戦後閣僚として現憲法制定に尽力したり、国連総会の顧問などを務めました。植原が閣僚を務めたときの総理大臣は誰でしょう。

 

1 芦田均

 吉田茂

 鳩山一郎

 石橋湛山

 

私の解答  吉田茂

 

 

問題54 望月桂は大正時代、絵やマンガによる啓蒙宣伝を行うとともに、ある宣言により誰でも参加できる展覧会を開催しました。この宣言は我が国初めてのものと言われていますが、それはどれでしょう。

 

 具体美術宣言

 印象派宣言

 民衆美術宣言

 リアリスト宣言

 

私の解答  民衆美術宣言

望月桂は、明科塔ノ原に生まれました。明治38(1905)年、松本中学校(現松本深志高校)卒業を前に、上京して高村光雲・藤島武二の塾に通い、高村光雲の子、高村光太郎と画架を並べて勉強しました。明治43(1910)年、東京美術学校(現東京藝術大学)洋画科を卒業。大正5(1916)年、東京神田に一膳飯屋「へちま」を開業し、そこに集まった大杉栄らに感化され無政府主義運動に走り、大正11(1922)年、大杉著望月画「漫文漫画」を出版しました。大正8(1919)年民衆美術宣言をし、官展に対して無鑑査・すべて展示方式の美術展を開催しますが、弾圧により4回に終わります。昭和3(1928)年、読売新聞社に入社し、犀川凡太郎の筆名で漫画を新聞に掲載しました。

 

 

問題55 望月桂は東京に一膳飯屋「へちま」を経営していました。そこに集まった大杉栄らに感化され、ある運動に走ったのですが、この運動は何でしょう。

 

 護憲運動

 無政府主義運動

 社会主義運動

 民主化運動

 

私の解答  無政府主義運動

 

 

問題56 複合扇状地先端部に当たる安曇野の最低地帯の湧水を有効利用し、日本一広いとされる大王わさび農場を創設したのは誰でしょう。

 

 平林盛人

 深沢勇市

 竹田信平

 曽根原林三

 

私の解答  深沢勇市

 

 

問題57 豊科本村大日堂前には「ヤチマタヒコノカミ、ヤチマタヒメノカミ、クナトノカミ」と彫られた神代文字碑があります。この文字は神官の呪文文字とされていますが、何文字といわれているでしょう。

 

 阿比留文字

 出雲文字

 カタカムナ文字

 対馬文字

 

私の解答  阿比留文字

 

 

問題58 豊科本村大日堂前にある道祖神は庄屋の丸山家の屋敷神として鎮魂の碑でしたが、その後大日堂前に移転され、道祖神に転化しました。何の犠牲者の鎮魂碑だったのでしょう。

 

 貞享騒動

 二の丸騒動

 赤蓑騒動

 松本藩領中入村明和騒動

 

私の解答  赤蓑騒動

 

 

問題59 人は災害、飢饉、疫病などでどんどん死ぬ。だからそれに負けずにどんどん産まないと村自体がたちゆかないとの考えから、松本入山辺宮原で裸体男女の愛情場面を入れた道祖神が造立されましたが、これは何の飢饉のときでしょう。

 

 寛永の大飢饉

 享保の大飢饉

 天明の大飢饉

 天保の大飢饉

 

私の解答  天明の大飢饉

 

 

問題60 道祖神が盛んに建てられた近世後期の平均寿命は46歳程度でした。邪気を払って、長寿を願う意味で道祖神に彫られたものとは何でしょう。

 

1 羽団扇

 巴紋

 男根

 菊花紋

 

私の解答  菊花紋

 

 

問題61 安曇野で行われている道祖神祭りにかわるものが関西でも行われています。ある菩薩を祀るおまつりなのですが、祀られている菩薩はどれでしょう。

 

1 地蔵菩薩

2 観音菩薩

 弥勒菩薩

 勢至菩薩

 

私の解答 1 地蔵菩薩

 

 

問題62 道祖神は一生関わる神として「宮参り」のとき先に道祖神にお参りします。子どものころはある病気から守るためにお参りするとされていますが、その病気とは何でしょう。

 

1 喘息

2 扁桃腺炎

 はしか

 おたふくかぜ

 

私の解答  はしか

はしか」は、昔は「命定め」と呼ばれるほど恐い病気で、七五三のお祝いは「はしか」等を切り抜けた喜びがこめられているようです。

 

 

問題63 豊科成相・新田に伝わる小正月の道祖神祭りで、人間ピラミッドなどを一連の流れの中に組み入れ、この行事の祝いの象徴ともなるものを、祭り奉仕の青年たちが綱引きで奪い合うことが恒例となっている行事はどれでしょう。

 

1 成り木責め

2 福俵曳き

 どんど焼き

 繭玉づくり

 

私の解答 2 福俵曳き

福俵曳きは、豊科の成相新田両地区に伝わる小正月の道祖神行事です。17日に建てる道祖神御柱に付けられる「だし」と称する巨大な福俵を、小正月の115(年によってはその前後)の御柱倒しの後、外して町内を曳きまわします。途中人間ピラミッドなどの演技があり、最後に前年祝い事のあった家へ持ち込まれます。

 

 

問題64 庚申信仰は干支の庚申(かのえさる)の日を禁忌として、その日の夜に庚申を祀る行事です。庚申は仏教的には青面金剛ですが、神道的には何の神様でしょう。

 

1 安曇大浜

2 武水別神

 猿田彦

 天照大神

 

私の解答  猿田彦

庚申講(庚申待ち)とは、道教に由来する人間の体内にいるという(さんし)という虫が、寝ている間に、天帝(道教における最高神)にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで、天帝や、仏教の青面金剛や、神道の猿田彦を祀って宴会などをする風習です。三尸虫は、上尸、中尸、下尸の三種類であるとされ、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしていて、大きさはどれも2寸とされています。庚申講318回続けた記念に建立されるのが庚申塔といわれています。

 

 

問題65 庚申信仰は中国の道教の三尸説に由来します。人間の体の中に三尸虫といわれる虫がいるとされていますが、この三尸虫は、上尸、中尸、下尸の三種類であるとされています。上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿をしているとされますが、下尸の虫はどのような姿をしているでしょう。

 

1 武士の姿

2 学者の姿

 双頭の龍の姿

 牛の頭に人の足の姿

 

私の解答  牛の頭に人の足の姿

 

 

問題66 庚申講は年6回庚申の日の夜ごと行うところと、最初と最後の庚申の日の夜だけ行うところ等があります。初回を初度、最後の回を終度といいますが、初度に当たったものは上野庚申にお参りすることが多かったそうです。この上野庚申とは現在のどこでしょう。

 

1 旧安曇村 慈照寺

2 旧梓川村 恭倹寺

 旧安曇村 安桂寺

 旧梓川村 真光寺

 

私の解答  旧梓川村 真光寺

 

 

問題67 庚申塔の像碑には青面金剛が刻まれています。青面金剛は病気を除く鬼神とされていますが、庚申の本尊として祀られるようになると、多様な性格を帯びるようになります。旧豊科町では別の神様として祀っていたところが多いといわれますが、何の神様として祀っていたのでしょう。

 

1 商業の神様

2 農作の神様

 良縁の神様

 子宝の神様

 

私の解答 2 農作の神様

 

 

問題68 二十三夜講は月を信仰の対象とする講ですが、女人中心の講である場合が多いといえます。二十三夜講の本尊は何でしょう。

 

1 地蔵菩薩

2 観音菩薩

 弥勒菩薩

 勢至菩薩

 

私の解答  勢至菩薩

二十三夜講は、二十三夜の下弦の月の出を待つ行事でそれに集う講です。女人中心の講である場合が多いのは、月と女性の「月のもの」(月経)との間に因果関係があると信じられ、また二十三夜の「三」が「産」にも通じるとされています。二十三夜講の本尊は勢至菩薩です。

 

 

問題69 大黒天は古代インドでシバ神の化身で戦闘神の性格を持つとともに、ビシュヌ神の化身としては厨房の神(財神)とされました。この大黒天を日本にもたらしたと言われている僧は誰でしょう。

 

1 最澄

2 空海

 義真

 円仁

 

私の解答 1 最澄

大黒天は、古代インドでシバ神の化身で戦闘神の性格を持つとともに、ビシュヌ神の化身としては厨房の神(財神)とされました。日本へは天台宗の開祖最澄がもたらし、比叡山延暦寺の厨房に祀られたとされます。大黒天の講は、春・秋の甲子の日に行われるケースが多いことから甲子講と呼ばれ、その目的として豊作や蓄財の祈願、一部には縁結びの祈願を行います。

 

 

問題70 大黒天の講は春・秋の甲子の日に行われるケースが多くあります。講が行われる目的として、適切でないものはどれでしょう。

 

1 豊作祈願

2 長寿祈願

 蓄財祈願

 縁結びの祈願

 

私の解答 2 長寿祈願

 

 

問題71 恵比寿信仰は中世七福神の一つに加えられてから商売繁盛の神として都市部中心に広がったとされますが、元々は何の神だったのでしょう。

 

1 武士の神

2 農業の神

 工業の神

 漁業の神

 

私の解答  漁業の神

恵比寿神は元来漁業の神でしたが、中世七福神の一つに加えられてから商売繁盛の神として都市部中心に広がり、その後農村部で農業の神として浸透しました。恵比寿講は各月の二十日に開催されますが、最も盛大に祝うのは十一月二十日です。

 

 

問題72 信濃教育会南安曇部会編『南安曇郡郷土調査叢書 第一篇 年中行事編』(昭和10年)に記されている昔の恵比寿講の状況は、正月二十日に「初恵比寿」を行い各月の二十日にそれぞれ開催されます。最も盛大に祝う恵比寿講は何月に行われるものでしょう。

 

1 9

2 10

 11

 12

 

私の解答  11

 

 

問題73 中野正実氏(郷土史家)の「川西三十四番礼所について」によると観世音菩薩は一切の衆生の苦悩を救う力のある仏であり、その苦悩を救うためにこの世に現れるとされていますが、その際何種の姿になって現れるといわれているでしょう。

 

1 31

2 32

 33

 34

 

私の解答  33

 

 

問題74 馬頭観音は馬への愛が生んだ信仰であり、安曇野にはおびただしい数の馬頭観音が見られます。当時の人間と馬との関係で適切でないものはどれでしょう。

 

1 馬の肥やしは刈敷と絡めてぜんぶ畑で肥料とした

2 松本藩の下級武士の使用する馬についてその飼育を担当した

 馬のつくれ場で養生余分な血を抜いたり馬の蹄を整えたり毛づくろいしたりした

 馬への愛から路傍に馬頭観音を置き馬の安全無事を祈った

 

私の解答 2 松本藩の下級武士の使用する馬についてその飼育を担当した

 

 

問題75 元禄年間に松本藩から成相組唯一の市場として市立ちの権利を与えられ、一日市場(長尾組)に代わる市場として市が立ちました。成相町の熊倉街道沿いと新田町に市神を祭る津島社祠がありましたが、新田町では市神社をある寺の境内に祭祀していました。この寺はどれでしょう。

 

1 円証寺

2 法蔵寺

 高山寺

 自性寺

 

私の解答 1 円証寺

 

 

問題76 三郷の下中萱に明治40年まで八坂神社がありました。このことは中世下中萱付近が市場集落であったことを裏付けるものですが、八坂神社等にも祭祀されていた市神はどれでしょう。

 

1 大国主命

2 宗像大神

 牛頭天王

 事代主命

 

私の解答  牛頭天王

三郷上中萱の熊野神社には八坂神社本殿がありますが、明治40年に下中萱から移転したものです。これは中世に、下中萱が六日市場という市場だったことを裏付けています。

 

 

問題77 明治15年、成相町は商業復活の切り札として初市を開催するため警察に許可を求めたところ、市立ちには「市神」が必要との指導を受けました。霊力の衰えた津島社を見限り、八坂神社の総本社の市神を勧請していますが、その八坂神社の所在はどこでしょう。

 

1 京都祇園

2 京都西京極

 京都太秦

 京都宇治

 

私の解答 1 京都祇園

 豊科の初市の市神として、京都祇園の八坂神社の祭神:神道では素盞鳴命(スサノオノミコト)・仏教では牛頭天王(ゴズテンノウ)勧請しています。

 

 

問題78 『豊科町誌 別編<民俗U>』には細萱洲波神社境内には養蚕の神、農業の神としてある神様を祀っていると記されていますが、この神様はどれでしょう。

 

1 天照大神

2 月夜見尊

 天熊人

 保食神

 

私の解答  保食神

 

 

問題79 御嶽登拝信仰は室町時代に始まり、豊科熊倉には御嶽神社の祭場跡も確認できます。覚明行者は御嶽の登山道を整備したと伝えられていますが、その登山道はどれでしょう。

 

1 王滝口登山道

2 黒沢口登山道

 開田口登山道

 日和田口登山道

 

私の解答 2 黒沢口登山道

天明2(1782)年に覚明行者が黒沢口登山道を、寛政4(1792)年に普寛行者が王滝口登山道をそれぞれ開きました。

 

 

問題80 御嶽教の信者となった岡村阜一は有明山を御嶽山同様にしようと考え、明治13年には御嶽教と同様に有明講を興しました。しかし、有明講はそれ以前にも有明山登頂から始まったともいわれています。有明講の元となる登頂を行ったのは誰でしょう。

 

1 西行法師

2 藤原定家

 宥快

 天明行者

 

私の解答  天明行者

 

 

問題81 念仏には観想念仏と称名念仏の二つの流れがあり、民間の念仏は阿弥陀如来への信仰が根底にあるため、「南無阿弥陀仏」と唱えます。平安末期に天台宗の良忍が始めたという新たな念仏の考え方が広がり、中世以降浄土教系の信徒も含め民衆は講をつくって村の堂などで念仏講を行うようになりましたが、この念仏を何というでしょう。

 

1 三昧念仏

2 観想念仏

 融通念仏

 踊念仏

 

私の解答  融通念仏

 

 

問題82 念仏講の普及のため安曇地方を訪れた遊行聖は3人いるといわれています。このうち、善光寺別当大勧進住職を務めたのは誰でしょう。

 

1 等順

2 正道

 徳本

 一遍

 

私の解答 1 等順

 

 

問題83 安曇地方には豊科吉野の諏訪神社、堀金下堀諏訪神社、三郷上長尾諏訪神社など諏訪神社が多く存在しますが、その理由のひとつとして適切なものはどれでしょう。

 

1 諏訪と松本が両方とも盆地であり、類似した地形から同じ神様を祀るようになった

2 狩猟を守護する神社として、安曇野に多くある山間部の神社から広まった

 中世の穂高神社に南宮として諏訪神社の祭神が祀られたことから広まった

 海洋民俗とされる安曇族と諏訪湖がある諏訪地方が同様に水の神を祀ることから広まった

 

私の解答  中世の穂高神社に南宮として諏訪神社の祭神が祀られたことから広まった

 

 

問題84 堀金村出身の小説家山田多賀市は極貧生活の中、職と住所を転々としながらそれらの経験を活かして庶民の立場に立った作品を生み出しましたが、小説家として活動をしていた頃の拠点となっていた場所はどこでしょう。

 

1 松本市

2 長野市

 山梨市

 甲府市

 

私の解答  甲府市

 

 

問題85 山田多賀市は農民文学の発展に貢献したほか、特異な人生を歩んだことで知られています。山田の特徴ある人生とはどれでしょう。

 

1 それまで培った瓦職人の技術を活かし独自の瓦を製造した

2 戦争に反対し、戦時中から平成2年の没時まで無戸籍を貫いた

 大工の経験を活かし、小説家となってからも宮大工として収入を得ていた

 子守奉公の経験を活かし、日本発の児童園を開設した

 

私の解答 2 戦争に反対し、戦時中から平成2年の没時まで無戸籍を貫いた

 

 

問題86 昭和20年特攻隊員として22歳の若さで戦死した上原良司は、出撃前夜に書いたとされる遺書が多くの人々の心に強い影響を与えたとされています。この遺書は何という名前で伝えられているでしょう。

 

1 きけわだつみの声

2 所感

 雑感

 不戦を誓う99人の手記

 

私の解答 2 所感

上原良司は、池田町に生まれ穂高有明で育ちました。二人の兄に続いて、昭和10(1935)年に松本中学校(現松本深志高校)に入学し、昭和15(1940)年に卒業して、慶応義塾大学経済学部予科に入学、その後、本科経済学部に進みました。しかし、昭和18(1943)年学徒出陣により入隊、昭和20(1945)年陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として沖縄嘉手納湾上の米海軍機動部隊に突入し、22歳の若さで戦死しました。「きけわだつみの声」に収められている「所感」では、「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」と書かれ、最後に「出撃の前夜記す」と結んでいます。

 

 

問題87 小説『安曇野』を著し、「安曇野」の名を全国に浸透させるきっかけをつくった臼井吉見は、ある出版社の創設に関わり、編集に携わりましたが、この出版社とはどれでしょう。

 

1 竹書房

2 白夜書房

 筑摩書房

 柏書房

 

私の解答  筑摩書房

臼井吉見は、堀金田尻に生まれました。松本中学(現松本深志高校)東京帝国大学国文科を卒業後、県内外の教職を歴任し、松本中学からの親友古田晁の興した筑摩書房の経営を助けました。昭和211946)年、筑摩書房「展望」の初代編集長に就任し、多くの作家や評論家を世に出す一方、自らも近代文学を中心に個性的な文芸評論を発表しました。昭和481973)年、10年の歳月をかけて完成した「安曇野」全5巻により、第10回谷崎潤一郎賞を受けました。

 

 

問題88 臼井吉見の墓には自筆の語句が書かれています。水が尽きずに流れる、湧き出るさまを表した言葉で、アイデアが尽きることなく湧き出ることを願った言葉とされていますが、何と書かれているでしょう。

 

1 滾滾汨汨

2 滔滔不絶

 清泉滾滾

 渾々沌々

 

私の解答 1 滾滾汨汨

 

 

問題89 豊科光出身の花村四郎は戦後自由党創立に参加し、昭和29年から法務大臣を務めていますが、この時の総理大臣は誰でしょう。

 

1 芦田均

2 吉田茂

 鳩山一郎

 石橋湛山

 

私の解答  鳩山一郎

花村四郎は、豊科光に生まれました。日本大学法科を卒業後、弁護士となりました。戦後自由党創立に活躍し、昭和29(1954)年には鳩山一郎内閣で法務大臣となりました。

 

 

問題90 豊科田沢出身の藤原保信は南安曇農業高校を卒業後、早稲田大学第二政経学部を経て同大学の教授となっています。現在「藤原シューレ」と言われる弟子たちが各界で活躍していますが、その中でマスコミでも活躍中の政治学者は誰でしょう。

 

1 加藤榮一

2 中村哲

 藤田省三

 姜尚中

 

私の解答  姜尚中

藤原保信は、豊科田沢に生まれました。南安曇農業高校、早稲田大学第二政治経済学部を卒業、早稲田大学教授となりました。政治思想史研究し、未来社会に@大量生産・大量消費の人間生活には限界がくるので、環境適合型の社会をデザインすべきA自由経済の下で、人間の欲望が肥大化するような政治のあり方を変えるべきB強者が弱者を常に支配するような現実社会に対しての批判、と三つの提言をしています。「藤原シューレ」と言われる弟子たちの一人に姜尚中(カンサンジュン:東京大学大学院教授)がいます。

 

 

問題91 藤原保信は未来社会に三つの提言をしていますが、適切でないものはどれでしょう。

 

1 大量生産・大量消費の人間生活には限界がくる

2 心の拠り所としての宗教はこれから今以上に求められる

 自由経済の下で、人間の欲望が肥大化するような政治のあり方を変えるべき

 強者が弱者を常に支配するような現実社会に対しての批判

 

私の解答 2 心の拠り所としての宗教はこれから今以上に求められる

 

 

問題92 望月桂は昭和3年、読売新聞社に入社し、漫画を新聞に掲載していますがこの時のペンネームは何といったでしょう。

 

1 明科太郎

2 犀龍小次郎

 龍門淵三郎

 犀川凡太郎

 

私の解答  犀川凡太郎

望月桂は、明科塔ノ原に生まれました。明治38(1905)年、松本中学校(現松本深志高校)卒業を前に、上京して高村光雲・藤島武二の塾に通い、高村光雲の子、高村光太郎と画架を並べて勉強しました。明治43(1910)年、東京美術学校(現東京藝術大学)洋画科を卒業。大正5(1916)年、東京神田に一膳飯屋「へちま」を開業し、そこに集まった大杉栄らに感化され無政府主義運動に走り、大正11(1922)年、大杉著望月画「漫文漫画」を出版しました。大正8(1919)年民衆美術宣言をし、官展に対して無鑑査・すべて展示方式の美術展を開催しますが、弾圧により4回に終わります。昭和3(1928)年、読売新聞社に入社し、犀川凡太郎の筆名で漫画を新聞に掲載しました。

 

 

問題93 大王わさび農場には安曇野伝説・八面大王の塚が祀られています。八面大王は討たれた後身体をばらばらにされて祀られていると伝えられていますが、この場所にはどの部分が祀られているでしょう。

 

1 

2 

 腕

 胴

 

私の解答  胴

 有明山の麓の宮城の岩窟に住んでいた八面大王は、坂上田村麻呂に討たれた後、魔力で生き返ることを恐れ、身体をばらばらにされて埋められました。胴体を埋めて祀られているのが大王神社、耳が埋められたのが穂高有明耳塚地区、足が埋められたのが穂高有明立足地区と伝えられています。なお、松本の筑摩(つかま)神社境内には首塚があります。

 

 

問題94 田沢神明宮の由緒書を見ると、祭神として天照大神と如来とを表裏一体(神仏混淆)としてとらえていることがうかがえますが、この如来は何でしょう。

 

1 釈迦如来

2 大日如来

 阿弥陀如来

 薬師如来

 

私の解答 2 大日如来

 

 

問題95 明科光中条の五社神社は、明治9年の『長野県町村誌』に記載されている祭神と『明科町史』で明治初年の時点で記載されている祭神が異なっています。明科町史に記されている明治初年の時点での祭神は天照大神、伊弉冊命、豊受冊命、速玉男命ともう一つは何でしょう。

 

1 事解男命

2 武甕槌命

 経津主命

 天児屋根命

 

私の解答 1 事解男命

五社神社の祭神は、『明科町史』によると明治初年の時点では天照大神、伊弉冊命、豊受姫命、速玉男命、事解男命の神、明治年の『長野県町村誌』には、武甕槌命、経津命、天児屋根命、太玉命、彦火火出見命の神とあります。例大祭の運営は旧光村の北村・南村・中条の三区が年番で当番区を決めあたっていますが、同じ旧光村でも野田は田沢神明宮への奉仕で運営には加わっていません。

 

 

問題96 五社神社の例大祭は旧光村の三区が年番で当番区を決め当たっています。同じ旧光村ですが、ここに加わらず田沢神明宮の祭祀を行っている地区はどこでしょう。

 

1 南村

2 北村

 野田

 中条

 

私の解答  野田

 

 

問題97 明治末期建造の五社神社本殿は、江戸後期信州で隆盛をみた建築彫刻の諏訪立川流の白木彫刻が施されています。この彫刻を施したのは誰でしょう。

 

1 原田蒼溪

2 清水虎吉

 坂田亀吉

 原 玉蔵

 

私の解答 2 清水虎吉

 

 

問題98 満願寺の聖天堂の天井には、安曇十狩野とうたわれ名声があった望月硯斎の「飛天」が極彩色で描かれているほか、安曇野出身の画家による「龍」も描かれていますが、この画家は誰でしょう。

 

1 山口蒼輪

2 藤森桂谷

 丸山雲章

 西沢明花

 

私の解答 2 藤森桂谷

藤森寿平は、豊科新田に生まれ、若い頃より漢学・和歌・絵画を学び、桂谷と号しました。明治4年、私財を投じて法蔵寺境内に私塾「実践社」を開設しました。これがのちに、「武居用拙塾」、明治12年国会開設請願運動のための結社奨匡社」へと発展していきます。豊科村議会議員(副議長)、長野県議会議員も歴任していますが、明治7年に発足した豊科村の村名を、鳥羽・吉野・新田・成相の頭文字から発案しています。文人画家としては、書・詩・画が三位一体になった文人画(南画)400点以上残しています。

 

 

問題99 明科光の宗林寺は開基では宗源寺といいましたが、松本城主の死に際して本堂が再建され、宝篋印塔が建てられ、寺名も宗林寺と名づけられました。何という城主の死によって再建されたのでしょう。

 

1 石川数正

2 石川康長

 小笠原秀政

 小笠原忠真

 

私の解答 1 石川数正

宗林寺は、開基では宗源寺といいましたが、松本城主の石川康長の帰依を受け、父である石川数正の死に際して菩提寺として本堂が再建され宝篋印塔が建てられ、寺名も数正の戒名<秋岳院殿高月宗林大禅定門><宗林>から宗林寺と名付けられた。

 

 

問題100 安曇野市には昭和60年に長野県宝に指定された木造の日光・月光菩薩立像がありますが、この像が安置されている真言宗の寺はどれでしょう。

 

1 松尾寺

2 法蔵寺

 平福寺

 光久寺

 

私の解答  光久寺

光久寺の木造日光菩薩立像・月光菩薩立像は、善光寺仏師妙海の作で、昭和60年に長野県宝に指定された鎌倉時代末期の優品です。

 

 

参考資料:安曇野市ホームページ

BACK<<