第5回 松本検定
上級コース 試験問題問題1 国外姉妹都市・友好都市提携を締結した年月が、最も古い都市はどれか? 1 グリンデルワルト村 2 カトマンズ市 3 廊坊市 4 ソルトレイク市 私の解答 4 ソルトレイク市 提携を締結した年月が古い順に、ソルトレイク市(昭和33年)、カトマンズ市(平成元年)、廊坊市(平成7年)、グリンデルワルト村(平成17年)。 問題2 松本市の人口は世帯数の約何倍?(2010.4.1現在)
1 約2.5倍 2 約3.5倍 3 約4.5倍 4 約5.5倍 私の解答 1 約2.5倍 2010年4月1日現在、96,637世帯、240,873人。 問題3 次の出来事の中で最も古い出来事はどれか? 1 松本空港ジェット化 2 サイトウキネンフェスティバル開始 3 安房トンネル開通 4 長野自動車道全線開通 私の解答 2 サイトウキネンフェスティバル開始 サイトウキネンフェスティバル開始は平成4年、長野自動車道全線開通は平成5年、松本空港ジェット化は平成6年、安房トンネル開通は平成9年です。 問題4 松本市に接する市の数は6つありますが、大町、安曇野、岡谷、塩尻、高山とどこ? 1 上田 2 千曲 3 諏訪 4 東御 私の解答 1 上田 松本市に隣接している市は、大町市、安曇野市、塩尻市、岡谷市、上田市、岐阜県高山市の6市です。 問題5 姉妹都市スイス・グリンデルワルト村のシンボルの山は? 1 モンブラン 2 マッターホルン 3 アイガー 4 グランドジョラス 私の解答 3 アイガー スイス・グリンデルワルト村のシンボルの山はアイガー(3975m)です。なお、アイガー北壁、マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁を世界三大北壁といいます。 問題6 松本市役所本庁舎(丸の内)のあるあたりの標高で一番近いのは? 1 400m 2 500m 3 600m 4 700m 私の解答 3 600m 問題7 文化・観光交流都市である金沢市の旧藩主は? 1 松平家 2 山内家 3 前田家 4 伊達家 私の解答 3 前田家 加賀藩の初代藩主は、もちろん前田利家です。 問題8 次の村のうち、松本市と合併したのが最も遅いのは? 1 岡田村 2 中山村 3 島内村 4 島立村 私の解答 1 岡田村 中山村の神田地区は昭和18年4月1日、それ以外の地区の中山村・島内村・島立村は昭和29年4月1日、岡田村は昭和29年8月1日に松本市と合併しました。 問題9 松本市の姉妹都市ではない市は? 1 姫路市 2 高山市 3 藤沢市 4 犬山市 私の解答 4 犬山市 国宝に指定されている城は、犬山城、松本城、彦根城、姫路城の4城のみですが、犬山市とは姉妹都市提携しておりません。 問題10 松本市の市章で、松葉の円の中にデザインされた字は? 1 城 2 本 3 松 4 山 私の解答 2 本
問題11 日本一広い高原台地美ヶ原高原の最高峰王ヶ頭の標高は? 1 2034m 2 2012m 3 2008m 4 2002m 私の解答 1 2034m 王ヶ頭は2034m、王ヶ鼻は2008m。 問題12 福寿草まつりを開催する地区は? 1 奈川 2 梓川 3 四賀 4 波田 私の解答 3 四賀 四賀の赤怒田(あかぬた)地区です。保福寺川の左岸約2kmにわたり群生する福寿草の株数は、約50万株といわれます。 問題13 三十六歌仙の一人・源重之の歌にも詠まれた温泉地は? 1 美ヶ原温泉 2 浅間温泉 3 扉温泉 4 中の湯温泉 私の解答 1 美ヶ原温泉 三十六歌仙の一人である源重之が、美ヶ原温泉の湯の原を訪れた折りに詠んだ、「いづる湯のわくに懸かれる白糸はくる人絶えぬものにぞありける」と後拾遺集に温泉の賑わいを記しています。 問題14 松本平の気候の一般的特徴をあらわしているものはどれ? 1 日照時間が短く、湿度が低い 2 日照時間が長く、湿度が高い 3 日照時間が長く、湿度が低い 4 日照時間が短く、湿度が高い 私の解答 3 日照時間が長く、湿度が低い 松本市域の平野部は内陸性中央高地型気候地域に属しています。特徴は日照時間が比較的長く、湿度が低めで、気温の日較差・年較差が大きいことです。 問題15 県の天然記念物に指定され、乳房イチョウとしてしられる千手(せんぞ)のイチョウがある地区は? 1 中山 2 奈川 3 安曇 4 入山辺 私の解答 4 入山辺 入山辺の千手には、県の天然記念物に指定された大イチョウがあります。古木でこぶがたくさんあることから、乳房イチョウとして乳の出ない女性の信仰を集め、お礼に奉納された石仏がいくつとなく大イチョウの周りに奉納されています。 問題16 焼岳の噴火で出来た池は? 1 田代池 2 明神池 3 牛留池 4 大正池 私の解答 4 大正池 大正4年の焼岳の大噴火で梓川がせきとめられてできた大正池、そのわずか上流にある田代池、穂高神社奥宮がある明神池は上高地にあります。 牛留池は乗鞍高原にあります。 問題17 「糸魚川−静岡構造線」はフォッサマグナのどちら側? 1 東側 2 西側 3 南側 4 北側 私の解答 2 西側 ナウマン(Heinrich Edmund Naumann)はドイツ人の地質学者で、東京帝国大学地質学教室初代教授として、日本で最初の地質学の講義をおこなった、いわば日本地質学の祖です。ラテン語で「大きな溝」という意味の大地溝帯:フォッサマグナ(Fossa Magna)を発見したり、野尻湖の湖底からナウマン象を発掘しました。このフォッサマグナの西側の断層線を、「糸魚川−静岡構造線」と呼び、松本盆地の東縁を南北に走っています。 問題18 上高地の河童橋は昨年架橋100年を迎えたが、現在の橋は何代目? 1 4代目 2 5代目 3 6代目 4 7代目 私の解答 2 5代目 現在の河童橋は、平成9年に架け替えられた5代目です。 昭和2年、芥川龍之介が河童橋周辺を舞台にした風刺小説「河童」を書きました。 問題19 次の山を標高の高い順に並べよ。 @奥穂高岳 A槍ヶ岳 B乗鞍岳 C西穂高岳 1 @→A→C→B 2 A→@→C→B 3 A→@→B→C 4 @→A→B→C 私の解答 4 @→A→B→C 奥穂高岳(3190m)>槍ヶ岳(3180m)>乗鞍岳(3026m)>西穂高岳(2908m) 問題20 国土交通省の「甦る水100選」に選ばれている川は? 1 女鳥羽川 2 梓川 3 大門沢川 4 牛伏川 私の解答 1 女鳥羽川 問題21 水野氏のあとに松本藩主となった戸田氏は、どこの藩から来た? 1 小倉 2 明石 3 鳥羽 4 高崎 私の解答 3 鳥羽 松本藩主として最も長く君臨したのは戸田氏で、前後2回、松本藩を預かりました。康長・康直時代が16年で、再度松本にきた光慈以降が142年、合わせて11代158年にわたります。戸田康長は、徳川家康の養妹・松姫と結婚したため、家康から松平の姓と葵の紋を与えられた初めての大名です。 戸田康直が播磨明石へ転封以来、戸田氏は美濃加納、山城淀と転封を重ねました。戸田光慈は5歳で家督を継ぐと、直ちに志摩鳥羽への転封を命じられ、財政は窮乏していました。光慈14歳の時、水野忠恒が改易になって、旧地の信州松本が空き城になると、幕府の老中に、「家来の人数が多いにもかかわらず、鳥羽は狭く生産性も低く大変難儀をしている」と訴え、将軍吉宗より入封を命じられました。しかし松本入封を命じられた翌年、松本城本丸御殿が炎上してしまいます。本丸御殿は藩政事務所と藩主私邸を兼ねた重要な建物でしたが、財力がなかったため復旧できず、明治維新まで二の丸御殿を政庁としました。 問題22 中国大陸のカラチン王国へ渡り、現地の女子教育に尽力した松本出身の女性の名は? 1 河原操子 2 中村まつ 3 下田歌子 4 多賀春子 私の解答 1 河原操子 河原操子は、松本藩士の娘として生まれ高等女学校教諭となりますが、かねてより清国の女子教育への熱意を持っており、下田歌子の紹介により上海の務本(ウーペン)女学堂教師として赴任します。その実績が評価され、内蒙古のカラチン王室の女学堂教師として招致され、カラチン王府の教育顧問として活躍しました。 問題23 松本市歴史の里に生家が復元されている、社会運動家・作家として活躍した人は? 1 中村太八郎 2 小林有也 3 市川量造 4 木下尚江 私の解答 4 木下尚江 木下尚江は松本藩士の長男として生まれました。開智学校から長野県中学校、東京専門学校で学んだ後、松本で弁護士として開業しました。キリスト教に受洗後、明治29年に同志と平等会を、その翌年には普通選挙期成同盟会をつくっています。また新聞記者としては、廃娼論、普選論、非戦論、足尾鉱毒事件などに関わり論陣を張りました。 問題24 信濃守護小笠原長時が、林城を逃れてから亡くなった地は? 1 小倉 2 京都 3 会津 4 松本 私の解答 3 会津 信濃守護・小笠原氏には、鎌倉末期には井川の館(井川城)があったとされますが、その後里山辺の林へ居城を移しました。林城は規模の大きな山城で、別名金華山(きんかざん)城と呼ばれていました。北方には、入山辺の桐原城と山家(やまべ)城、岡田の伊深(いぶか)城、本郷の稲倉(しなぐら)城、西方には、深志城、城山の犬甘(いぬかい)城、南方には、中山の埴原(はいばら)城が位置していました。小笠原長時は、武田信玄の進攻で、1550年7月林城を戦わずして落城し、越後、京都と諸国を流浪し、会津で亡くなりました。 問題25 徳川家康の家臣から豊臣秀吉の家臣となった武将で、松本藩主になった人物は? 1 松平直政 2 堀田正盛 3 石川数正 4 小笠原秀政 私の解答 3 石川数正 「徳川の家につたはる古箒 いまは都の木の下を掃く」 これは、徳川家康のもとを去って豊臣秀吉についた石川数正の去就を皮肉った当時の落首のひとつです。「箒(ほうき)」は伯耆守(ほうきのかみ)だった数正、「木の下」は秀吉を表しています。数正は、もともと家康に小姓の頃から仕えた三河以来の家臣でした。 問題26 神林の下神遺跡でみつかった土器に書かれていた墨書は? 1 良田 2 草茂 3 捧下 4 大野 私の解答 2 草茂 神林の下神遺跡では、「草茂」と墨書された土器が見つかり、この地が文献に登場する「草茂庄」であることがわかりました。 問題27 松本藩の歴代藩主は何人? 1 20人 2 21人 3 22人 4 23人 私の解答 4 23人 石川氏2代、小笠原氏2代、戸田氏2代、松平氏1代、堀田氏1代、水野氏6代、戸田氏9代の6家23代です。 問題28 松本城は深志城と呼ばれたが、深志城を造ったのは誰か? 1 石川数正 2 小笠原長時 3 市川量造 4 島立貞永 私の解答 4 島立貞永 小笠原氏の支族、島立右近貞永が居を構えて深志城と名づけたとされます。 問題29 世に加助騒動と呼ばれた百姓一揆が起きたときの松本藩主は誰か? 1 水野忠職 2 水野忠直 3 戸田光慈 4 戸田光行 私の解答 2 水野忠直 「加助騒動」は、水野家第3代藩主となった水野忠直の治世、貞享3年(1686)に安曇郡長尾組中萱村の庄屋:多田加助を指導者とした百姓一揆です。ただしこの時、藩主の水野忠直は参勤交代で江戸詰のため留守でした。 問題30 歴代藩主の家紋のうち、「笹龍胆」は何氏の家紋か? 1 石川氏 2 小笠原氏 3 松平氏 4 堀田氏 私の解答 1 石川氏 石川氏は笹竜胆、小笠原氏は三階菱、戸田氏ははなれ六星、松平氏は丸に三つ葉葵、堀田氏は黒餅竪もっこう、水野氏は丸に花おもだかの家紋です。 問題31 江戸時代、江戸城の松の廊下で刃傷事件をおこして改易となった松本の藩主は? 1 水野忠職 2 水野忠幹 3 水野忠清 4 水野忠恒 私の解答 4 水野忠恒 信府統記の編纂を起こした水野忠幹が早逝し、その遺言により弟の水野忠恒が松本水野家第6代藩主になりましたが、生来酒色にふけり、政務をかえりみる力量がなかったといわれています。襲封2年目、時の将軍:徳川吉宗に拝礼を終えて退出する際、江戸城中松の廊下で、毛利主水師就に出会うと突然抜刀して切りつけてしまうという刀傷事件を起こしました。忠恒は領地を没収され、川越藩にお預けとなり改易されます。松本藩は、戸田氏入封までの約8ヶ月間、一時幕府の直轄領となりました。 問題32 野麦峠を越えて運ばれたことで知られる年取り魚は? 1 鰯(いわし) 2 鰤(ブリ) 3 鯛(タイ) 4 鮭(サケ 私の解答 2 鰤(ブリ) 野麦街道は、本町の牛つなぎ石を起点に、伊勢町、渚、波田を通り、奈川、野麦峠を越えて飛騨へ抜ける道です。 私の大晦日は、鰤の刺身、鰤の照り焼き、鰤大根と鰤三昧です。 問題33 今も残り、きちんとした形で保存されている武家屋敷のうち正しい組合せは? 1 安東家と高橋家 2 馬場家と橋倉家 3 安東家と棚橋家 4 橋倉家と高橋家 私の解答 4 橋倉家と高橋家 高橋家住宅は、御徒士町と呼ばれた下級武士集合住宅地帯の住宅です。現存する松本藩士の武家住宅としては最古のもので、市重要文化財に指定されています。徒士(50石程度)の官舎として、代々藩が所有していたもので、高橋家は30石前後の禄高を得ていた武士で、戸田光慈にしたがって志摩の鳥羽から松本に移住してきたようです。床板には釘が打ってなく、有事の際は全部はね上げられるようになっています。 橋倉家住宅は、お城から高橋家住宅より北東に離れているので、高橋家よりさらに下級の武士であったようです。橋倉家は土着性が強く、水野家さらに戸田家に仕えました。江戸時代末期に建築されたと推定され、昭和51年、県宝に指定されています。上座敷以外は天井を省略してあること、上座敷の表側に雨戸をつけていないことなどに、武家住宅に対する厳しい規制がうかがえます。 問題34 「牛つなぎ石」のある場所で交わった街道の正しい組合せは? 1 善光寺街道と武石街道 2 善光寺街道と野麦街道 3 善光寺街道と千国街道 4 野麦街道と千国街道 私の解答 2 善光寺街道と野麦街道 善光寺街道は、北国脇往還または北国西街道とも呼ばれていました。中山道の洗馬宿から分かれて郷原宿、村井宿、城下に入り、岡田宿から四賀の刈谷原宿・会田宿、青柳宿、麻績宿を経て善光寺町へ至る道です。 野麦街道は、本町の牛つなぎ石を起点に、伊勢町、渚、波田を通り、奈川、野麦峠を越えて飛騨へ抜ける道です。 私の大晦日は、鰤の刺身、鰤の照り焼き、鰤大根と鰤三昧です。 問題35 幕末期の町人町の構成は? 1 親町3町・小町10町・24小路 2 親町2町・枝町10町・20小路 3 親町3町・枝町10町・20小路 4 親町3町・枝町10町・24小路 私の解答 4 親町3町・枝町10町・24小路 町人地は、親町3町、枝町10町、24小路に分かれていました。商人町は幹線道路となる親町に、職人町は枝町に置かれました。
問題36 福島安正が明治25年から翌年にかけて行ったシベリア単騎横断は、ベルリンからどこまで横断したか? 1 ウラジオストック 2 ウランバートル 3 ハバロフスク 4 イルクーツク 私の解答 1 ウラジオストック 福島安正は松本藩士の長男として生まれ、江戸の開成所で英語を学んだ後、司法省を経て陸軍省に勤務、主として外国地図の翻訳をしました。明治25年から翌年まで488日かけて、ベルリンからウラジオストックまで14,000kmを横断した「シベリア単騎横断」は、当時の国民の血をわかせました。 問題37 国宝松本城の天守閣は五重六階ですが、外から見えないのは何階? 1 1階 2 2階 3 3階 4 4階 私の解答 3 3階 松本城天守は外から見ると5重ですが、内部の床は6階あります。これは2重目の屋根にあたる部分に外からは見えませんが、階がひとつ入っているからです。 問題38 日本銀行松本支店の開業はいつ? 1 明治10年 2 大正3年 3 昭和19年 4 昭和27年 私の解答 2 大正3年 日本銀行が本町(現在の松本郵便局の位置)に松本支店を置いたのは、大正3年のことです。中央銀行の支店が、県庁所在地ではない松本に置かれたのは非常にめずらしいことですが、それが実現したのは、当時の産業の核であった製糸業と養蚕業が中南信地域に深く根をおろしていたからにほかなりません。 問題39 「束間の湯」へ行宮を計画したのは? 1 天武天皇 2 天智天皇 3 文武天皇 4 聖武天皇 私の解答 1 天武天皇 日本書紀には、天武天皇の14年(685年)に束間の湯に行宮をつくらしめた記事が見られます。この湯が、浅間か山辺の湯の原か確証はありませんが、松本にある温泉が中央にまで知られていたということになります。 問題40 松本城下で江戸時代に実際には存在しなかった町名は? 1 片端 2 同心町 3 飯田町 4 花咲町 私の解答 4 花咲町 片端は、総堀の片側に造った上級武士の屋敷地です。 同心町は、同心という見回り役についていた武士が住んでいた中下級武士の屋敷地です。 飯田町は、小笠原秀政が飯田から移ったときに飯田から来た人を住まわせた町人地です。 問題41 松本藩と高島藩との境にあって、それぞれの村が神社の本殿を並べて建てている神社は? 1 筑摩神社 2 千鹿頭神社 3 須々岐水神社 4 諏訪神社 私の解答 2 千鹿頭神社 千鹿頭(ちかとう)山は、近世はじめまで松本藩でしたが、元和4年(1618年)尾根を境に、松本藩領の東五千石が高島藩領に分割されることになり、それまで一緒だった社殿は、神田村の千鹿頭神社本殿と、林村の千鹿頭社本殿が並べて建てられました。 問題42 信州筑摩三十三ケ所観音霊場で、波田にある第30番の寺は? 1 安養寺 2 保福寺 3 盛泉寺 4 田村堂 私の解答 3 盛泉寺 問題43 松本民芸家具を調度している山辺の厄除け寺は? 1 兎川寺 2 廣澤寺 3 玄向寺 4 徳運寺 私の解答 4 徳運寺 問題44 小室諏訪神社の裏山金比羅宮の参道に置かれる、88体の石仏群をなんと呼ぶ? 1 三日山石仏群 2 七日山石仏群 3 十日山石仏群 4 二十日山石仏群 私の解答 2 七日山石仏群 問題45 廃仏毀釈で廃寺となった波田地区の若澤寺から移された二層桜門式の鐘楼がある梓川地区の寺院は? 1 真光寺 2 恭倹寺 3 廣田寺 4 安養寺 私の解答 2 恭倹寺 恭倹寺は明治13年にできた寺で、二層桜門式の鐘楼の枡組は、廃仏毀釈で廃寺となった波田地区の若澤寺から移されたものです。 問題46 飴市で買ったアメを供える神様は? 1 三峰様 2 蚕玉様 3 大黒様 4 恵比寿様 私の解答 4 恵比寿様 問題47 東海道中膝栗毛の作者十返舎一九も数日間逗留したといわれている寺院がかつてあったといわれているが、その寺院の名は? 1 西大寺 2 円城寺 3 安養寺 4 若澤寺 私の解答 4 若澤寺 若澤寺(にゃくたくじ)は、天平年間(729〜749)僧行基の開基と伝えられる真言宗の古刹でした。江戸時代末期には、七堂伽藍が建ち並び、その荘厳さは、信濃日光と称されました。明治初年の廃仏毀釈により、堂塔伽藍は取り壊されました。 問題48 松本城本丸庭園に咲く「小笠原ボタン」は、小笠原長時が落城する際、ある寺に預けられていたが、どこのお寺か? 1 牛伏寺 2 兎川寺 3 保福寺 4 安養寺 私の解答 2 兎川寺 小笠原長時は落城時、宝と愛でていた白いボタンが武田軍に乱されるのを惜しんで、兎川寺にこの株を託し、兎川寺は寺の檀家総代にも株分けしてともに育てることとしました。昭和32年、ボタンは長時の子孫の元に返され、松本城天守解体復元工事後の本丸庭園に植樹されました。 問題49 松本藩主小笠原氏の菩提寺は? 1 廣澤寺 2 放光寺 3 神宮寺 4 正行寺 私の解答 1 廣澤寺 廣澤寺は小笠原氏の菩提寺で、室町時代の信濃守護で、林城主であった小笠原政康の開基といわれています。裏山には、大坂夏の陣で討ち死にした、小笠原秀政・忠脩父子の墓があります。 問題50 次の神社で御柱を行わないのは? 1 千鹿頭神社 2 沙田神社 3 松本神社 4 須々岐水神社 私の解答 3 松本神社 松本城と堀を隔てたすぐ北にある松本神社はかつて「五社」と呼ばれていました。 松本神社は、戸田光慈がそれまで居城としていた播磨国(兵庫県)明石城内にあった暘谷神を祀ったのが始まりです。暘谷とは、松本戸田家の祖・戸田康長と松姫(徳川家康の妹)の間に生まれた子・虎松の祭神名で、家康との対面のため江戸に上る途中で病死してしまったと伝わっています(実際は幼少期でなく40歳で死去)。その後、戸田氏の出身地三河国(愛知県)の領主・一色兵部義達、戸田氏の直接の祖・戸田宗光、戸田康長、松姫(祭神名・淑慎様)の4人を祭神に加え、合計5人の祭神としたことが「五社」と名付けられたゆえんです。 参考資料:松本を楽しむ本・松本まるごとウォッチングQ&A・松本まるごと博物館ガイドブック |
||||||||
|