「ディオです」
「ん?」
「俺の名前は、ディオ」
「それくらい、知ってるぞ」
「だったら、名前で呼んで下さいよ」
「しかし」
トーマはわざとらしく首を捻って笑った。
「パイチは、実際パイチだろう」
どっと、食堂中が笑いに包まれる。ディオは、反論することができず、心持ち顔を赤らめて黙った。
パイチとは、果実の名前である。桃をもう少し小ぶりにしたような形で、味も香りも非常に良く似ている。違いはその大きさと、全体的に色がパステル・ピンクである、ということくらいだ。この瑞々しく、甘く、掌にすっぽりと収まるパイチにかぶりつく幸福は、無論、ディオも認めるところだ。パイチ自体に、何の恨みもない。
ただ、ここアルサーンスの人々は、果実のみならず聖務官をもそう呼ぶ。理由は例の色だ。パステル・ピンク、まさにパイチ色というわけだ。だが別にそれも、ディオは気にしていなかった。問題なのは、パイチという言葉にあるもう一つの意味だ。恐らく、その薄っすらと産毛のある肌触りが、赤ん坊をイメージさせるところから来たのだろうが。我が国、我が町において、パイチはうぶなとか未熟なとか、そういう裏の意味を持っていた。未経験者――などという意味も。
「なんだか、とても楽しそうですわね。コーヒーのお代わり、いかがです?」
「あ、アンジュ」
「おう、アンジュ」
「アンジュ!」
呟くディオの声が、その他大勢の同じ言葉にかき消される。揃ってみなが、コーヒーカップを前に突き出す。もちろんディオも、必死に腕を伸ばしてはみたが。大柄なザックスやトーマに比べると、若干リーチが短い。しかしアンジュは慣れたもので、一番奥まった位置に沈んでいたディオのカップをも見落とすことなく、入れ立てのコーヒーを注いだ。いつものように、とびっきり爽やかで、優しげな笑顔を添えて。
結局のところ……。
ディオは、褐色の液体にたっぷりとミルクを注ぎ、それを一口飲み下しながらカウンターを見た。揃いも揃ってにやけた顔つきの男達が、同じ方向を向きながらコーヒーを飲んでいる。視線の先は、もちろんアンジュ。三ヶ月ほど前からここで勤めることとなった、亜麻色の長い髪の乙女目当てに、みんな集まっているというわけだ。
確か。
ぷりっと口の中で、ソーセージの皮が弾ける音を耳にしながら、ディオは思った。
エマおばさんの姪だって話だけど。全然、似てないんだよな。
目の前の、女主人に目を向ける。
肌の色は濃く、茶色の髪は縮れ、髪と同じ色をした目は、大きめの丸い顔に対して極端に小さく、バランスが悪い。体の方も、ふくよかななどというレベルを通り越した貫禄のある状態で、温かみや愛嬌や、親しみやすい感情は抱くものの、そこに美は見出せない。
その点、アンジュは。
ディオの視線がするりと横にスライドする。
滑らかな白い肌、ほっそりとした体。でも、メリハリがないわけではない。青いドレスとその上につけた白いエプロンとに阻まれてはいるが。前から見ても、横から見ても、彼女のシルエットは理想的な曲線を有している。もちろん、顔も魅力的だ。煌く海色の瞳、すっと通った鼻筋、少し小さめの、それこそパイチのような唇は、何か一言紡ぐたび、甘い香りを放つようにさえ思える。だが、それらよりも――。
「コーヒーのお代わり、いかがです?」
再びカップがいっせいに差し出される。アンジュが、にっこりと笑う。
そう、この笑顔なのだ。この表情なのだ。心の芯に、暖かな光を注ぐかのような笑み。その笑みの持つ柔らかさが、たまらなく美しいのだ。
「アンジュ、こっちはいいから。テーブルの方、頼むよ」
今まさに、ディオのカップにコーヒーを注ぎ込もうとしていたアンジュが、「はい」と小さく返事をして立ち去る。代わって、エマの幅広い体が、視界の端から端を占める。
「ちょいとディオ。そうあからさまに、がっかりした顔するもんじゃないよ」
乱暴にコーヒーを注ぎながら、体全体でエマが笑った。
「昔はあたしだって、アンジュに負けないくらいの美少女だったんだからねえ」
「そうだっけか?」
「そんな美少女がいたなんて話、聞いたことねえなあ」
古株の常連客から、すかさず野次が飛ぶ。エマが大仰に、肩を竦めてみせる。
まあ、少なくとも。
ディオは、皿に残っていたスクランブルエッグを、パンで拭うようにさらえ、口に放り込んだ。それを一気に、コーヒーで流し込む。
あの明るさは同じだな。エマおばさんも、アンジュも。人の気持ちを和らげる、幸せな気分にさせる名人だ。それが、唯一の共通点……。
「あら?」
空になったコーヒーポットを両手で抱えながら、アンジュが戸口の方を見やった。
「もう、こんな時間なんですね。聖会(せいかい)の鐘の音が」
――するわ。
と言ったのか、それとも「聞こえるわ」、と呟いたのか。残念ながらディオは、透き通るようなその響きを聞くことができなかった。