アルサーンスの空の下で                  
 
  第一章  
            プロローグへ  
 
 

 

 まどろみの中で寝返りをうつ。枕を抱え込みながら、もう少しだけと眠りにすがる。しかし、その気持ちとは裏腹に、耳と鼻が心地よい刺激を捉えて目を覚ます。
 しゅんと湯の湧く音。じゅっとソーセージが焼かれる音。香ばしい匂いが弾け、そこに炒り立てのコーヒー豆の深い香りが混じって、
「あなた」
 と、優しく呼びかける声まで響く。
「ねえ、あなた。早く起きて下さい」
「う、ううん」
「あなた」
「ううん」
「ディオ、もう起きる時間よ」
「ううん、分かったよ、アンジュ」
 ディオは呟き、薄目を開けた。榛色の瞳が正面の壁を捉える。青い小花をちりばめた壁紙。二箇所ほど、染みがある。その染みに向って伸びているのは、自分の左腕。確かにアンジュを抱き寄せたはずだが、そこには何もない。
 夢……か。
 ディオは、ここ三日続けて見ることのできた楽しい夢に、満足気な笑みを浮かべた。大きく伸びをする。ゆっくりと上体を起こす。あくびを一つしながら、ぼさぼさの栗色の髪を右手でかく。軽く首を左に一度、右に一度、ぐるりと回して気付く。今見た夢の全てが幻ではないことを示す、耳と鼻をくすぐる刺激の存在を知覚する。
「しまった! もう朝飯の時間」
 ぐうっと腹の虫を鳴らすと、ディオはベッドから飛び起きた。
「飯、飯、飯」
 呪文のように唱えつつ、部屋の隅にある洗面台に向う。ざざっと顔を洗い、ついでに寝癖のついた髪を撫で付け、すぐ脇の壁に釣り下がっていた服に手を伸ばす。この職に就いてもう一年になるというのに、未だに慣れない聖務官(せいむかん)の制服に腕を通す。
 いや、形はいいのだ、形は。かちっとした仕立ての短めの上着、白いパンツ、膝まである黒のブーツに、同じく黒の帽子。ちなみにこの帽子は位によって大きさが違っており、聖務官としてまだ駆け出しのディオは、高さ十センチほどの円筒形のものをちょこんと頭に乗せるのみとなる。まあこの部分も、いかにも私はペーペーですと触れ歩いている感じで、不満といえば不満なのだが。実際のところ、確かにペーペーなので文句は言えない。ディオの悩みは、他にあった。色だ。帽子ではなく、上着の色だ。
 ――パステル・ピンク。
 ピンクだけでも相当辛いのに、そこにパステルが加わっている。この町、すなわちアルサーンス町を象徴する色とのことだが、どんな理屈をこねられても、納得できない。聖務官というのは、町や村の治安を守り、時に命をかけて悪と対する、そういう職業だ。それが何とも可愛らしいというか、やる気なさげというか、今一つ締まりを感じない色で身を固めるのは、いかがなものか。
 って、まあここじゃ、そんな大事件は起りっこないけど。
 えい、と心持ち気合を入れて、パステル・ピンクの上着を羽織る。部屋を飛び出し、匂いのする方向へ走る。古びた木の階段をぎしぎし鳴らしながら、一階に下りる。そして、食堂の扉を開ける。
 ぐぬっ。
 ディオは悔しさに、そう息を漏らした。
 すでに、四人掛けのテーブル席は、五つとも埋まっていた。カウンターにも、ぎっしり人が並んでいる。体をそのまま並べることができず、揃って左肩を前に、右肩を後ろに、斜めに立ちながらへばりついている。
 ここの食堂は、本来、この棟の二階から六階に住む、間借り人のためのものなのだが。居並ぶ者の中には、そうでない顔もあった。確かに、エマおばさんの作る朝食は、アルサーンス一と言っても過言ではない。だが他にも、マリア・ベルの『幸せの黄色いオムレツ屋』とか、ダクストンの『がんこ親父の極みコーヒー店』とか、美味い朝飯を提供してくれるところは、たくさんある。にも関わらず、ここがこれだけ繁盛しているのは――。
「何だ、坊主。また寝坊か?」
 ディオの太腿ほどある腕を振り上げて、カウンターの一番奥に立っていたザックスが、そう声をかけた。この日焼けした肌の髭面の男は、ディオのちょうど真上の部屋に住んでいる。職業は漁師。アルサーンスの特産物である、ダルドル魚釣りの名人だ。漁は夜中に行われるので、今、彼は、一仕事を終えてここに来ていることとなる。
  逞しい腕を窮屈そうに壁に擦りつけながら、隙間を作ってくれたザックスの下に歩み寄る。途中、バザット通りで肉屋を営んでいるにも関わらず、わざわざ毎日ここまで朝飯を食べにくるイーノが、中年太りの突き出た腹を揺らし揺らし、
「いい加減、しっかりせいよ、パイチ」
 と声をかけてきたが。ディオは軽く苦笑を返しただけで、すぐにザックスの隣りに身を滑らせた。
「これでも大分ましになったんだよ、ディオは」
 カウンターの向こうで、食堂の女主人にして家主であるエマが、豪快に笑う。
「入った頃は遅刻ばかりで、いつも朝ご飯を食べずに、すっ飛んで行ってたんだから」
 声と共に、大きな皿が目の前に置かれる。夢で見た、いかにもかりっと焦げ目の美味しそうなソーセージが二本。卵をど〜んと三個も使って作ったスクランブルエッグ。それに、トマト一個をスライスし、軽くオリーブオイルで炒めたものと、青々としたアスパラガスのソテーが添えられている。
「何だ、パイチ、そうなのか?」
 バターのたっぷり入ったパンが、山と積まれた籠を手渡しながら、左隣の男が言った。六階の東端の間借り人、石工見習いのトーマだ。イーノの時は、まあまだ我慢したが。同じ屋根の下の住人に、しかも年齢の近い者に、パイチと呼ばれるのは耐えられない。ディオは、少しむっとした表情で言った。

 
 
  表紙に戻る         前へ 次へ  
  第一章・1