アルサーンスの空の下で                  
 
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 食堂が、慌しい音で満たされる。カップをカウンターに置く音、がたりと椅子をずらす音、ばたばたと駆け出す音、ばたんと扉が開けられる音。そこに、「やべえ、遅刻だ!」と叫ぶディオの声が合わさる。
「行ってらっしゃい、ザックスさん」
「行ってらっしゃい、トーマさん」
「行ってらっしゃい、イーノさん」
 人が飛び出すたびに、アンジュが律儀に声をかける。
「行ってらっしゃい、ディオさん」
「うん、行ってくる」
 本当は、声と同時に投げかけられた優しい笑みを、じっくりと見つめたかったのだが。ディオは、その思いを相当な努力のもと押し殺すと、勢い良く通りに飛び出た。眩しい陽射しに目を細める。腕を掲げ、それを見上げる。
 空が、今日も青い。
 澄んだ青を、瞳に、心に、晴れやかに染みつかせると、ディオは戸口の脇に据えつけられた、彼専用のバル置き場に急いだ。一目で聖務官のものと分かる、パイチ色の板を石畳の上に置く。
 この幅三十センチ、長さ一メートル弱の薄い板は、すでに二代目だ。初代のバルは一年前、栄えある聖務官としてアルサーンス本署に向う途中、潰してしまった。坂が多く、しかも曲がりくねった道の多い町の地理に疎かった、というのも理由の一つではあるが。免許取り立てで、魔力のコントロールが上手くいかなかった、というのが最大の原因だった。
 初日にバルを壊した奴は、お前が初めてだ。
 灰色の口ひげを撫でながら、小一時間ほど小言を垂れた副署長の顔を思い出し、ディオは苦笑した。
 右足を前に、左足を引いた形でバルに乗る。体を斜に構え、少し腰を落とした姿勢を取る。その上で、右手を前に伸ばす。バルの先端に埋め込まれた、直径五センチほどの小さなボールが跳ね上がり、吸い付くように掌に収まる。
 気を流す。バルが、地上より十センチほど浮き上がる。そのまま、風となる。
 町はすでに動き出していた。大通りには市が立ち、行き交う人々も多い。掌のボールを右に、左に、優しく撫でるように転がしながら、その人々の間を縫う。
「おはよう、パイチ」
 かけられた声に、
「おはようございます」
 そう返しながら、海岸通りまで走り飛ぶ。小さな坂を、滑るように上る。
 そそり立つようにあった左右の建物が、頂上に至る寸前で途切れた。視界から、遮る物の全てが消える。
「わあっ!」
 一年、三七二日。つまりは三七二回。そこから週休、有給休暇、特別休暇を差し引いた、残る三〇四回。ディオはいつもこの場所で、そう感嘆の息を漏らし続けた。見渡す限り広がるのは、青い海原。昇ったばかりの太陽に力強く照らされ、きらきらと光の粒を撒き散らしている。手を伸ばせば指先に、輝く粒子が幾つかくっついてきそうだ。
 その煌きを、前面に代わって右半身で受ける。ぐるっと九十度、左に曲がる。
「わあっ!」
 一年、三七二日。つまりは三七二回。そこから週休、有給、以下略の三〇四回。ディオはここでも、そう溜息をつき続けた。右にはあの美しいザラード海、そして左には、三角屋根の連なる町並みが、朝陽を浴びてパイチ色に輝いている。真っ白な海岸通りの道を挟んで、海の青と見事なハーモニーを見せている。
 道なりを、滑り降りる。風と共に坂を下る。落ちると同時に、昇るような浮遊感が全身を包む。その感覚が、ディオを酔わせる。
 ――と、
『全聖務官に緊急連絡、全聖務官に緊急連絡』
 頭の上の帽子が、いきなりそうがなり立てた。もごもごと動き、まるでリスの尻尾のような一房が、そこから生え出る。そしてぴったりと、ディオの左頬に貼り付く。
 パイチ色も問題だが、この制帽の材質も何とかして欲しいよな。
 胸の内で一つ悪態をつくと、ディオはくすぐったさに耐えながら、尻尾に向って声を出した。
「こちらディオ・ラスター」
『おお、ディオか』
 聞き覚えのある野太い声。ディオより五年先輩のベッツだ。角張った輪郭に、嘘のような童顔が収まっているその顔を思い浮かべながら、ディオは尋ねた。
「ベッツさん。何か事件ですか?」
『ああ、そうだ。お前、今どこだ?』
「ええと」
 今の時間からすると、少なくともレーベンス通り辺りを走っていなければ、時間通り分署に着くことはできない。どやしつけられるのを避けるため、一瞬そう言おうかとも思ったが。配達屋とか出前屋ならともかく、聖務官たるものが、ついていい嘘ではない。
 出した結論に従い、ディオは心持ち小声で囁いた。
「海岸通り――です」
『なんだ、お前。また遅刻か!』
 毛むくじゃらの尻尾が、何の遠慮もなく直ぐ耳元で叫んだ。左から右ヘ、貫くような大音響に、一瞬バランスを崩す。真っ白な道から右へ大きく弾け、バルの真下に海を捉えたところで我に返る。体を捻り、何とか高さ五十メートルほどのダイビングを免れたディオは、恐る恐る、また声を出した。
「すみま……せん」
 次なる衝撃に備える。「馬鹿野郎!」か、「たるんどるぞ!」か。どういう言葉になるかは知らないが、再び怒鳴りつけられるであろうことは、確かだ。しかし、
『まあ、いい』  低い声で、ベッツが言った。
 え?
 予想外の展開に、拍子抜けするところへ、さらなる声が続く。
『とにかく現場に急行しろ。ガリア真教聖会、そこに行け』
「は、はい。で、一体何があったんですか?」
『死体が発見された』
 死体……。
 考える。かなりの時間をかけて、熟考する。その間に坂を下り、角を左に曲がり、さらに四つほどブロックを進む。そこでようやく質問する。
「死体って――犬ですか? 猫ですか?」
『馬鹿野郎! 緊急召集がかけられているんだぞ。死んだのは人だ。報告では、間違いなく他殺。とにかく急げ!』
 耳元をくすぐり続けていた尻尾が、もぞもぞと帽子の中に戻る。
 人の……他殺体? このアルサーンスで? 平和でのどかな田舎町で?
 ディオは右を見た。
 この道を真っ直ぐ進めば、分署のある通りに出る。そして、
 左を向く。
 こっちを行けば、町の中心部に出る。本署があるのはこの方向だ。で、
 ディオは、正面を見据えた。ほんの少し上り坂になっている細い道。うねりながらそれは、北西の丘へと続いている。ここからでも、その上に建つ聖会の尖塔が見える。
 死体って、人の死体って……一体、誰が殺されたんだ? 一体、誰が――。
 ディオはきゅっと眉を寄せると、手の中のボールを握った。強く、前に向って滑り出す。

 殺したんだ……?

 

 
 
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  第一章・3