アルサーンスの空の下で                  
 
  第三章  
               
 
 

 

 その部屋は、異常だった。入るのは初めてだ。しかし、たとえ二度目であっても、他の誰が見ても、同じ気持ちを持つことは確かであった。
 ベルナード聖使徒の部屋には、黒しかなかった。煤のような、くすんだ色。燃やし尽くされた、そういう跡。実際、部屋の中には何も残っておらず、天井も床も壁も、一様な黒で満たされていた。唯一違う色彩を見せているのは、小窓から覗くアルサーンスの町並みと、先に続くザラード海。だが、それらは黒一色の中で妙に生々しく、見る者の心から落ち着きを失わせた。
 ただの火事で、こんな状態にはならない。肉体はおろか、その魂までも焼き切るという地獄の炎が、ここを襲ったのではないか。そんな妄想を抱かせるほど、部屋は無の空間と化していた。
「これでは、お前の力も役に立たぬな」
 心持ち、低い声でセシルアが言った。その言葉に、頷く動作だけで同意を示す。それが、ディオにできる精一杯だった。
 とてつもない魔力だ。
 部屋に一歩足を入れながら、思う。
 恐らく一瞬にして、その者はここを焼き払ったのであろう。単なる炎ではなく、術者の魔力が練り込まれた炎。魂まで、とはいかないが、そこに残る気の全てを消滅させる威力のあるものだ。
 通常、こんな魔法は使用が許されていない。魔力を持つ者なら誰でも知っている、禁忌の法というものがこの世には存在する。人の命を、あるいは心を軽んじ、弄ぶ力。そういう類の魔法は、能力的に可能であっても、倫理という観点から枷がかけられる。たとえそれが過去の、今この部屋にはいない者の記憶であり、想い出であっても。無下に焼き消すことなどできないのだ。
 一体、誰がこんなことを。何のために――。
「ここで一体、何があったというんだ」
 溜息のようにベッツが零した言葉に、誰もが顔をしかめる。そしてもう一つの、異なるものを見つめる。
 マダラストの部屋は、全て二間続きとなっていた。独身の聖僕はそのうちの一部屋だけが宛がわれ、結婚している者は家族用に、もう一部屋、使うことが許された。これは聖使徒も同じで、壁に埋め込まれた扉一つで繋げられた隣の部屋が、彼の家族のためのものであった。だが、
「何だ? これは」
 ベッツがまたそう息を漏らす。
 一同の視線の先に、壁はなかった。あるのは、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた結界。それが二重、三重、幾重にも重ねられている。ただ、その一番手前の結界は、傷だらけであった。引き千切られたような跡が、数多く見受けられる。
「つまり」
 腕を組み、無残に残る綻びを見やりながら、セシルアが言った。
「この部屋をこれほどまでにした犯人ですら、破れなかったというわけか」
 傷は、生々しく残っていた。しかし結界は、まだ生きていた。白く光る糸のような無数の線は、なお冷え冷えと侵入者を拒んでいる。中にある者を、寝台に横たわるベルナード聖使徒の娘、ローディアを、守っている。
「どう……されますか?」
「どうもこうも」
 低く呻くように声を出した副署長に、セシルアが少し苛立った音を返す。
「この結界を何とかするしかなかろう」
 そう言い放つと、セシルアは結界に歩みよった。右手を伸ばす。見た目は頼りなさそうな糸に触れんとする。しかし。
「くっ」
 セシルアの口から、息の音が漏れる。拒絶の波動が、セシルアだけではなく、ディオ達をも打つ。その力の凄まじさに、この結界の種類を知る。
「反力結界か。これは厄介だな」
 いつも穏やかなバジルの声が、険しく響く。
 セシルアは、糸に触れることができなかった。触れる寸前、弾かれた。仮に、もっと勢い良く力を込めて結界に立ち向かったとしても、結果は同じであったろう。いや、今よりさらに、悲惨なことになっていたかもしれない。受けた力の何倍もの反発力で、侵入者を撥ね退ける。そういう魔法が、この糸にはかけられているのだ。
「なるほど。力任せでは解けぬということか。となると、この二重構造を利用するしかないな」
「二重構造?」
 そう疑問の声を上げたディオを、セシルアが冷たく見返す。
「気付かなかったのか? 波動に方向性があったのを」
「方向性? あっ、そうか。中に反動が行かないように、この結界――」
「そうだ。この結界には表裏がある。表には『陽』、攻撃性の高い反力魔法が。そして裏には彼女を保護するための『陰』。吸力魔法、そして恐らく祈りの魔法も」
「祈りの……魔法」
「そうでなければ、彼女は」
 みなの目が、結界の中のローディアに吸い付けられる。

 
 
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  第三章・2