聖会は、二つの大きな棟で構成されていた。まず一つは、表通りに面した礼拝堂。祭壇の左側に据え付けられた扉の先に聖使徒室があり、その地下に転移魔方陣、及び資料室が位置する。ちなみに、ここでいう資料とは、聖会にまつわる文献などではなく、代々その土地に住む人々の記録を指す。名前や住所、病歴、礼拝の頻度、寄付金の明細。果ては、告赦(こくしゃ)――法的なレベルに達しない小さな罪を、聖使徒に告白することで無罪放免とする、それらの詳細まで克明に記されている。
とはいえ、それが本当に事細かく残されているかは、推測の域を出ないものだ。資料は全て、特殊な記録盤に刻まれており、聖会の者以外は見ることが許されていない。仮に、聖会の者であっても、むやみやたらと知る権利はない。まあ、当然と言えば当然だ。しっかりと秘密が守られていなければ、誰も告赦などしないだろう。
ディオは、地下から上がると、再び礼拝堂の中に戻った。祭壇の前を過ぎ、今度は右奥にある扉を開く。
礼拝堂との間に、中庭一つを挟んであるもう一つの棟が、マダラストと呼ばれる聖使徒及び聖僕達の居住区だった。そこへ続くこの細い回廊は、『祈りの道』といって、立ち止まったり、声を出したりすることが許されていない。胸の中で祈りの一節を唱えつつ、足早に進まなければならない。が、
ええと……次、何だっけ。
最初の一節を過ぎたところで早くも詰まってしまったディオは、軽く肩をすくめた。ビヤンテの聖学校時代、肝心の教義の授業で赤点を連発し続けた過去を、懐かしく思い出す。その間に、回廊を過ぎる。
「ベルナード聖使徒様のお住まいは、二階の一番奥です」
マダラストの前に立っていたガラウスが、フラー副署長にそう囁いた。ディオより十一年先輩の、ひょろっとした体格の男。その男が、さらに何事かを副所長に耳打ちする。
左眉だけをぴくりと動かし、副署長は一つ頷いた。先に立って歩く。ディオ達も、後に続く。無言で進む。
マダラストの中で声を出すことは、別に禁止されていない。しかしディオは、無駄口を叩くことに、強く躊躇を覚えた。まず、そういう気分になれない。これから向う場所で、何をしなければならないのか。それを考えると憂鬱になる。さらに、周りの雰囲気。廊下はもちろん、幾つも並ぶ扉の向こうは、どれもひっそりと息を詰めていて、物音一つない。誰もいないわけではないだろう。礼拝堂や町に繰り出している者もあろうが、何人かは残っているはずだ。聖僕なり、あるいはその家族が。
ガリア真教についてよく知らない者は、聖職者が家庭を持っていることを不思議に思ったり、宗派でも異なるのかと勘違いしたりするのだろうが。ガリア真教は、今からおよそ五百年前に宗派統一を行っており、その際、聖使徒は家庭を持つことが許された。これは、聖会に属さない聖僕も同様で、彼らもみな自由に結婚することができる。聖会における最も下級の位である道士も、制限はない。ただし、聖使徒より上の三つの位に属する者は、俗世の慣わしに身を染めることが禁止されている。無論これは、形式だけではなく、行為自体の禁止を意味する。例えば今年、齢九十二歳に達する聖皇は、頭の先から足の爪の先まで、清らかな体というわけだ。
そういえば、来るべく後継者選びに備えて、中央ではいろいろともめているって聞いたな。聖皇が御存命中に権力闘争だなんて、随分情けない話だが。
「遅いぞ!」
「……えっ?」
二階へ続く階段を上りきるなり、凛とした声が響いた。驚きと同時に疑問を覚えながら、ディオが前方を向く。薄暗い廊下、その一番奥にある扉の前に立つ人物を見る。
まず、パイチ色が目に飛びこんで来た。つまりは職場の同僚、ディオと同じアルサーンスの聖務官である。なるほど、二人のうち一人は確かに見覚えのある男、二年先輩のリオドだが、もう一人は違う。
と、言うか。
「女?」
思わず、そう声が漏れる。途端、その女性の眉間が険しく寄せられた。
顎のラインで切り揃えられた黒髪を右手で払い、つかつかと足音を立て女が近付く。まだ若い。ディオと同じか、二、三歳ほど上か、そのくらいだ。怜悧な輝きを放つ大きな濃茶色の瞳は、見ようによっては猫のような可愛らしさがあるのだが。今は、圧するような色しかない。
女がディオの前にすっくと立つ。細い眉の、片側だけが引き上がる。
「お前は?」
「えっと、ディオ。ディオ・ラスターです」
直感的に、相手の立場の方が上と判断し、ディオは敬礼した。わずかにずらした視線の先で、女性の襟元を捉える。そこに輝く徽章を見て、ディオは自分の感が正しかったことを知った。
女性の、少し肉厚な唇が薄く開く。
「お前は何か? 女の下では働けぬ。そういう主義か?」
「そんなことはありません。むしろ、大歓迎」
しかし、ディオのその余分な言葉は、空振りに終わった。あっさりとそれを無視し、女が一同に向って言う。
「本日付けでアルサーンス聖務署長に就任した、セシルア・フェルバールだ。諸君等が優れた上官を求めるように、私も優秀な部下を必要としている。馴れ合いで仕事をするつもりはない。私が無能だと思うのなら、速やかに本部へそう申し出るがいいだろう。何も遠慮はいらない。こちらも、これは使えぬということであれば、容赦なく切り捨てるつもりだからな。では、フラー副署長」
「はっ」
「これまでの報告を」
「はい。ええ、現場はファルス町聖会の――」
「口頭では時間がかかって敵わん。記録盤を見せろ」
「はい、しかし」
ベッツに記録盤を出すように指示しながら、副署長が言った。
「これは、現場の模様、及び特心眼による映像を、そのまま記録しただけのものでありますから。データ化はまだ――」
「まだ?」
ベッツから渡された記録盤を手にした状態で、セシルアが動きを止める。
「祈りの道は、長かったろう?」
「……はあ?」
「その間、お前達はただ歩いてきたのか? それとも、バカ正直に祈りの一節でも唱えていたのか」
言葉尻に、強く息の音が乗る。吐き捨てるような口調に、誰もが顔を強張らせる。
「まあ、いい」
皮肉めいた笑みを浮かべ、セシルアが記録盤をマーチェスに渡した。
「マーチェス・バズウ」
「はっ」
「私がここに戻るまでに、リオド・アートラと二人でデータ化を済ませておけ。フラー副署長、及びベッツ・グスタム、バジル・セオドルートは、私と共にベルナード聖使徒の私室を捜査せよ。そして――」
セシルアの目が、冷たくディオを見る。
「お前は、どうする?」
どうするって――どういう意味っすか!
と、心の中でディオは叫んだ。
これが友達や恋人や、そういうレベルの付き合いならば、心の叫びをそのまま言葉にしただろう。あらかじめ全ての部下の、名や顔を認識していながら、敢えて名前を問い質す陰険な態度に、一言文句を言ったであろう。しかし、上官相手ではそうもいかない。何だよと開き直るのは無論のこと、誤解ですと弁明することも、状況からして得策ではない。
とりあえず、深く息を吸い込む。それで、気持ちを吹っ切る。苦手のマーチェスよりも遥かに強力な、これまでの人生で最大級の相性の悪さを覚える相手を見据える。
ディオは右腕を折り、拳を胸元に置いて、溜めていた息を一気に吐き出した。
「署長殿の指示に従いたく思います!」
「ふん」
セシルアが小さく鼻を鳴らし、背を向ける。
「では、ついて来い」
大きく肩で息をつく。その横で副署長がやれやれという風に首を振り、ベッツが片目を瞑ってみせた。バジルがぼんとディオの肩を叩き、見送るリオド、それにマーチェスまでもが、揃って首を竦めてみせる。
こういうことで連帯感を持つってのもあれだけど。まあ、何とかやっていけるかな。
みんなの姿を支えに、ディオはそう自分自身を慰めた。