アルサーンスの空の下で                  
 
  第四章  
              第三章・3へ  
 
 

 

「……緊急召集……ですか?」
 尻尾の生えた制帽を、寝ぼけ眼で抱え込んだディオは、まだ夢を見ているのかと自身を疑った。
『いいから、ソルドノート墓地まで早く来い。署長もマーチェスも、もう来ている』
 返ってきたベッツの怒声を、頭の中で反芻する。外はまだ暗い。当然、部屋の中も暗い。窓から零れ入る月明かりだけを頼りに、薄暗い空間をぼおっと眺める。徐々に慣れてきた目が、いつもはそこにない一つの塊を見出す。大きな旅行鞄。ディオはそれを見つめ、深く溜息をついた。
 ラフラス・ドーレ聖使徒殺人事件の捜査は、行き詰まっていた。あれだけ必死で捜査したにも関わらず、ファルスの町の聖務官は、現場から何も見つけることはできなかった。唯一、転移魔方陣の使用記録から、四ヶ月ほど前、被害者がアルサーンスを訪れていたことをつかんだが。実際に町で彼を見かけたという情報はなく、聖僕達も声を揃えて知らないと答えたため、その糸口はそこで切れた。
 一方、ローディアの方は。
 三日後、ようやくリナドルの町から心眼者を呼び寄せ、コードアの聖使徒に立ち会ってもらい、結界を突破したが。重いユロン病の娘は、心眼の力をもってしても、意識を探ることができなかった。
 娘の額に手を翳したまま、四十代半ばのベテラン心眼者が首を捻る。
「ご承知だとは思いますが。ユロン病は、脳の細胞が次々と死滅し、全体が萎縮してしまう病気です。壊れた場所によっては、体に不具合が生じていく。手や足が動かなくなったり、時にそれが呼吸を止めてしまうこともある。もちろん、体だけではなく、影響は意識にも及ぶ。記憶の欠落も、障害の一つです。ですが表面上、まるで意識のない、ただそこに存在しているだけのように見える者でも、全てが失われているわけではありません。統合性の欠如、あるいは意志があってもそれを表す手段を持たないだけで、断片的に、いろいろなものが脳には残っている。その人間が生きた証が、そこにある。ある……はずなのです。なのに、ここにはそれがない。いえ、あるにはあるのですが、記憶はみなどれもこれもがちぐはぐで。まるで、一度取り出し、それを前とは違う場所に戻したかのような。そんな……馬鹿なこと。いや……しかし」
 次第に整然さをなくす心眼者の言葉に、セシルアは険しく眉を寄せ、後ろを振り返った。
「ディオ、この部屋から何か読めるか? 何でもいい、手掛りになるものはないか」
 好き勝手、言ってくれるよな。
 ディオは、胃の中の物が遡ってくるような感覚を覚え、胸を摩った。
 結界の中に残っていたのは、優しい気持ちだけだった。ただ一つの祈り、愛する娘のための、彼女を救うための、純粋な気持ちしかなかった。だからこそ、ディオは身震いするほど、自分に嫌悪感を覚えた。穢れのない空間に土足で踏み入ったような罪悪感で、胸がいっぱいになる。人を助けるために犯罪に立ち向かうはずの聖務官が、いつしか事件を解決することだけに終始し、その陰で泣く人々を置き去りにする現実に、強く打ちのめされる。
 そんなディオの前で、セシルアはてきぱきと仕事をこなしていった。部屋に残された物が次々と運び出され、番号が付けられる。ローディアも、まるで物のようにそこから出された。建前は、署で保護するということであったが、実際には、小さな部屋に仮眠用のベッドを置き、とりあえずの保護魔法をかけただけであった。もし、署員が一丸となって、彼女の受け入れ先を探すようセシルアを説得していなければ、きっとそのままの状態で、放置され続けたであろう。ようやく許可を得て、丸二日かけて搬送先を探し、コルタナ村にて引き取り可能という連絡をもらわなければ、数日後には、アルサーンス聖務署内で、静かに息を引き取るに至ったかもしれない。
 ディオは、少女の搬送を護衛するという役目を、昨夜遅く言い渡された。コルタナ村は、アルサーンスから八百キロも離れたところにある。転移魔方陣での移動は、彼女を保護する魔法に影響を及ぼす可能性があるため、使えない。地道に陸を、魔法を使わずに進むしかない。立ち寄る先の町や村の聖使徒に治療を施してもらいながらの、およそ五日間の旅。今日、夜が明けるのを待って、ディオは出発する予定であった。
 ようやく頭がはっきりしてくる。急いで身支度をする。ディオとしては、何よりもまずローディアの搬送という任務を優先したかったが。緊急召集に逆らうわけにはいかない。それに、どうにもその現場が気になった。ソルドノート墓場で事件、ということは……。
「まず、ダルダに間違いないだろう。奴らは夜行性だから、もう残ってはいないと思うが、油断するな」
 すでに明るくなった空の下で、セシルアが言った。遅れて到着したディオにきつい視線を投げてから、側に控えていた墓守に向って一つ頷く。曲がった背筋を大儀そうに揺らし、墓守が墓地の鉄門を押し広げる。
 町には墓場が二つあり、このソルドノート墓場は、聖会裏の小道を登った小高い丘の上にあった。振り返った時の町の眺めは、ここからが一番だ。遠く水平線に縁取られた海、おもちゃのように並ぶ色取り取りの家々。夜ともなれば、地に星が降りてきたかのような煌きを一望できるので、しばしば死者の眠りを冒涜するカップルが現れるところだ。
 この、眺めという一点だけを考えれば、なだらかな傾斜を有する墓地内を、さらに奥へと進んだ方が断然良いのだが。実際、そんなことをするカップルはいない。無断で墓地に入ったのが見つかると、墓守にどやしつけられる、というのがまずあるが。それとは別に、カップルが墓地内を避ける大きな要因があった。それが、ダルダだ。
 体長はおよそ三メートル。全身赤茶色の長い毛に覆われており、手が長く、逆に足は短い。知能は低いので、武器を持ったとしても、そこら辺に落ちている太い木の枝であったりするのだが。実際には、それを振り回すより早く、彼らは自身の鋭い爪や牙を使った。
 とはいえ、その姿を目にすることは稀で、ディオはもちろん、長年この町に住んでいる者も、ダルダなんて見たことがないというのがほとんどであった。基本的にダルダは山に住み、町までは下りてこない。人に対する攻撃性も低く、有害種ランクの格付けも、下から二番目のゾーンに位置している。アルサーンスにはこのダルダの他に、ベルゼーンという海に住む有害種があるが。これも時たま、漁師の網を引き千切ってしまうくらいで、人を襲うような種ではない。
 のどかな田舎町という外観に相応しく、アルサーンスは平和な町でもあった。国を見渡せば、ダルダなどより遥かに危険な種と共生している所も多い。毎日のように、有害種との戦闘に明け暮れるような、そんな町も……。
「ここだな」
 ダルダの遠吠えを聞き、慌てて通報してきた墓守が、セシルアの後ろで身を竦める。マーチェスにもう戻っていいぞと声をかけられ、一目散に、彼は門前の番小屋まで逃げ帰った。
「さて」
 軽く息を含ませ、ベッツが言う。
「取りかかりますか」
 墓地の中ほど、やや西寄りにある墓の一つが荒らされていた。ダルダはたまに、こうして人の死骸を食らうことがある。本来、彼らの食料となる猪や鹿を追って、必要以上に山から下りてしまった時に起る。厄介なのは、一度人間を食らうと味をしめ、また遺体をあさりにくることだ。そこから生きている人間に飛び火することはないが、墓荒らしを放っておくわけにはいかない。無残に踏み荒らされた墓を前にし、ディオは手袋を外した。

 
 
  表紙に戻る         前へ 次へ  
  第四章・1