アルサーンスの空の下で                  
 
  第六章  
               
 
 

 柔らかな羽毛に包まれるように、ディオの意識が沈んだ。全ての感覚が徐々に遮断され、現実と夢との狭間に落ちる。自分が自分であることだけを、辛うじて心の隅に残しながら、ディオはゆっくりと目を開けた。瞳のある、目ではない。意識の目。心眼者のみが持つその特別な目を、魔力を用いて見開く。
 まず、記録盤を探る。そこに残る、意味を持たない断片を拾い集める。一つの情報として記録する際に、切り捨ててしまったものを残らずさらう。それらを元に、自身の脳を検索する。物に残る記憶は、時間の影響を受けやすい。時の経過と共に、磨耗が激しくなるのだ。無論、それは人の脳にも当てはまる現象だが、残された記憶を思い出す、つまりは反復という劣化防止機能がある分、石よりも脳の方が優秀だ。同じ記憶でも、より確かに鮮明に残っている。
 今、ディオがやろうとしていることは、喩えるなら、欠けているジグソーパズルのピースを探し出す作業だ。中心部分は完成しているものの、周りができていない。それを記録盤から全てかき集める。ただし、ピースのほとんどは時の浸食を受け、色が剥がれたり、汚れていたり、端が欠けていたりといった不良品ばかりだ。よってそれを一つ一つ、自身の脳の中にある劣化の少ないピースと交換する。気の遠くなるような、地道な作業。
 ならば、直接自分の脳からピースを探せばいいと、心眼者でない者は考えるであろうが。脳にはこのジグソーパズル以外の物がたくさん記憶されており、全てがごちゃ混ぜとなっているため、かえって時間がかかるのだ。いや、むしろそんなことは不可能であると、言い切った方が正しい。人一人が生きてきた過程で生まれた記憶の残骸から、特定の記憶の欠片を探すことなど、絶対にできない。
 ディオは、記録盤から取り出した欠片を一つ、意識の目で捉えた。それをゆっくりと左の手で包み、自身の中に沈める。暗い、暗い、海のような意識の波に、そっと浮かべる。
 穏やかにうねる波が、欠片を運ぶ。底から泡のように立ち上った無数の記憶に触れながら、漂う。と、不意にそれが、きらりと光った。意識の海に眠っていた断片と結びつき、本来の色と形が蘇る。
 ディオは右の掌から、ぽとりと欠片を記録盤に落とした。ジグソーパズルの欠けていた部分が一つ埋まる。それを起端とし、次の記憶に挑む。次々とピースを埋めていく。最初に見た時に捉えた謎の影。その背後の闇を、見極める。
 闇が……。
 ディオは、意識の目を凝らした。
 闇が、二重にある? 影の後ろに、別の影?
 新たな認識が、記憶の再構築に拍車をかける。霧が晴れるように、不明瞭な部分がはっきりとする。
 間違いない。あの時、あの場所に。ドーレ聖使徒の他に、何者かが二人いたのだ。一人は後ろの影、ダルダの背後に潜んでいた者と一致する。犯人は後ろの影か、この前の影か。それとも、やはりベルナード聖使徒様が関わっているのか。どこかに、鍵があるはずだ。
 何でもいい、
 何か、
 何か、残って――、
「――うっ、ぐう」
「脈拍五八、血圧一〇二、五三。意識レベル、一から三まで回復」
「く、くるし……」
「脈拍八三、血圧一三五、九二。平均以上に上昇中」
「ギブです……ギブ!」
「おう」
 ベッツの太い腕が、ようやくディオの首から外れる。喘ぐように息を継ぎながら、ディオが呟く。
「俺を……殺す気ですか?」
「助けてやったのに、何だ、その言いぐさは」
「にしても、助け方ってもんがあるでしょう。それに、タイミングが早過ぎです。後、もう少しで」
「もう少しで?」
 ベッツの眉が吊り上る。
「そうだな。もう少し放っておいたら、確実に死んでたな」
「…………」
「とにかく」
 バジルが手にした記録盤、すなわち、今、ディオが無意識下で見た物の全てが記されている石盤と、スクリーンとを交互に見やりながら、セシルアが言った。
「あの場所に何者かが二人いた、というのは間違いないわけだな。しかも、内一人は、墓場で遭遇した者と完全に一致すると」
「あ、はい」
「だが、その正体なり、実体なりは、相変わらず不明であると」
「はい、まあ、そうです。感じたのは気だけですから。ダルダの時のように、近くに現れれば、すぐにそれと分かりますが。今の時点で、誰であるかを特定することは」
「結局」
 ベッツが愚痴を零す。
「ターゲットが増えただけで、何も分からずか」
 空間が、重く沈む。それは単なる事実で、そのことに責任はないのだが。ディオは首を竦める思いで、項垂れた。
「ディオ、一つ確認しておきたいんだが」
 柔らかなバジルの声が響く。その音色に、空気が少しだけ緩む。
「なぜ、最初、影を一つだと思ったのかね?」
「ああ、すみません。間違えてしまって」
「いや、そうじゃなくて。別に咎めているわけではないんだ。初めてだったからね。何度か君と組んでいるが、気の数を読み違えたことなんて、今までなかっただろう? それで、今回はどうしてそうなったのだろうと」
「はあ……多分」
 問われて初めて、ディオは考えた。
 そう言えば、なんでこんなミスをしたのだろう。最初に見た時、なぜこの影を同一視してしまったのか。一番、考えられるのは――。
「意識がリンクしていた。という可能性が、まずあるけど」
 思考がそのまま、ディオの唇から音となって漏れる。
「二つの間に、別段、強い結びつきはなかった。それは、ベルナード聖使徒様にもいえて、あの場にいた三者の間に、強い負の共通意識はなかった」
「それはつまり、犯行が単独であるという意味かね」
「もう一つ、考えられるのは」
 バジルの言葉に、頷く動作だけで答えると、ディオは続けた。
「偶然にも、両者の意識の質が似通っていた、そのため見誤った――ああ、これはないな。改めて振り返ってみると、はっきりと違いを感じたから。おかしいな。これだけ違うのに、どうして俺は……。とにかく、あの影が、まるで空間と一体化するようにあって。それがそこにある者達の気とぴったり合わさるように――あっ」
 ディオの顔が上がる。
「そういうことか!」
「そういうこととは?」
「どういうことだ?」
 口々に尋ねる一同をぐるりと見渡し、ディオは最後にセシルアの方を見た。

 
 
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  第六章・1