エルダ・リテースト。
その少女がベルナード聖使徒の下に送られたのは、三年前だった。長く重い病に伏せっていた彼女は、キッパルの町の聖使徒に匙を投げられ、多くの人伝を経て、ベルナード聖使徒に辿りついた。だが、少女の受け入れの際には、相当難しいことがあったらしい。
基本的にベルナード聖使徒の診断も、キッパルの町のロスパ聖使徒と変わらないものであった。エルダはもう、助からない。ただ、だからもう治療を施しても無駄という考えではなく、最後まで諦めないというのが、ロスパ聖使徒との大きな違いであった。親としては、もちろん最後まで治療をして欲しかったであろう。しかし、ロスパ聖使徒にも言い分があった。
重病患者の治療は、多くの魔力を必要とする。かける時間も多大となる。キッパルはアルサーンスに比べ、三倍以上もの人口をかかえる町だ。一人の命を助けるために、他の患者を犠牲にすることはできない。ロスパ聖使徒の判断は、決して非情なものではなく、正当なものであった。
それだけに、突然ベルナード聖使徒の方から受け入れの申し出があった時、ロスパ聖使徒は驚き、同時に強い不快の念を持ったようだ。必要とあらばこちらから大聖会に要請し、転移なり応援を頼むなり取り計らってもらう。と、激しい口調で拒否をした。しかし、ベルナード聖使徒は怯むことなく、非礼を詫び、何度も何度も受け入れを申し出た。その熱心さに、ついにはロスパ聖使徒も折れ、彼女をアルサーンスに送り出すこととなった。ただし、彼女一人で。
思えばこれも、随分と無情なことのように思うが。こういうことを一度許してしまうときりがなくなると、聖会のみならず、聖務署の方からも働きかけがあり、結局エルダだけがアルサーンスに引き取られた。それでも両親は、大喜びだったという。四ヶ月前、静かにエルダが息を引き取るまで、ベルナード聖使徒に宛てられた何通もの手紙は、感謝の言葉で埋め尽くされていたそうだ。
と、そこまでが、バジルが調べ上げた全てである。手紙の内容、ロスパ聖使徒とのやりとりなどは、資料として公示されていない。にも関わらず、よくこれだけのことを突き止められたものだと、ディオは改めて感心した。優しげな笑みを絶やさない夫人と、いかにも職人らしい寡黙な主人が時折漏らす言葉が、その情報の正しさを証明することに感じ入った。
「本当に、ベルナード聖使徒様は、素晴らしい方でした」
何度もそう呟く夫人の瞳が、いつもしっかりと自分を見据えていることに、ディオは早くから気付いていた。彼女の言葉が、単にベルナード聖使徒を誉めそやすものではなく、自分を励ます意が込められていることを、理解していた。恐らく彼女は、自分が、亡くなったベルナード聖使徒の足跡を辿る旅をしているのだと、勘違いしたのだろう。自分の命を守って犠牲となった聖使徒を偲び、彼に縁のある人々を、地を、訪ね歩いているのだと。聖務官でありながら制服も纏っていないのが、何よりの証拠。職務を離れて、一人、ここに辿りついた、そう解釈したのだろう。
優しい人だ、とディオは思った。正直、その優しさを裏切るような形になることを、心苦しく思った。しかし、どうしても確かめなければならない。エルダ・リテーストのことを。死体のない墓のことを。その裏に隠された真実を。
「大変、ぶしつけなことをお尋ねしますが」
ディオは静かに、それでいてよく通る声で言った。
「なぜ、エルダさんが亡くなられた時、遺体の引き取りをなさらなかったのですか? ここに来る前、アルサーンスのソルドノート墓地で、娘さんのお墓を参りました。白いリンデンの花が枯れかけていて。花を手向ける縁者のいない墓は、いつもベルナード聖使徒様が代わりに供えていらっしゃいましたが。もう、今は……。確かに娘さんは、アルサーンスに移住されたわけですから、アルサーンスの人間です。町の者が亡くなった場合、その町で埋葬するのが基本です。でも今回は、特別な事情があったわけですし。申請をすれば、キッパルの墓地に埋葬することを、許可されたのではないでしょうか。なのに」
「あの子が、望んだんです。アルサーンスの地に眠ることを」
「娘さんがですか?」
「はい。もっとも、はっきりと意志表示をしたわけではありません。娘は、エルダは、重いユロン病でしたから」
――ユロン病?
夫人の言葉に、ディオは目を見開いた。ひやりと、冷たいものが胸に落ちる。その胸が騒ぐ。
エルダ・リテーストがユロン病? ローディアと同じ、ベルナード聖使徒の娘と、同じ病――?
「あの子は、エルダは」
固く目を伏せてしまった主人を見やりながら、夫人が訥々と話す。
「長らく子供に恵まれなかった私達に、やっと授かった娘でした。予定より二ヶ月も早く産まれたあの子は、とても小さく、とても弱く。何度も消えそうになった命を、その都度ロスパ聖使徒様が助けて下さいました。一年ほどして、ようやく落ち着き、日に日に成長する我が子を見守る幸福な時が、やっと訪れたと思った矢先、私達はエルダの異変に気付きました。同じ年の子供達はみな立ち上がったり、何かにつかまって歩いたりしているのに、エルダは這うことも満足にできない。マーマ、パーパ、エルダより半年も後に産まれた子供が、そう可愛らしい声を上げているというのに、私達のエルダは未だに一つの言葉も覚えない。焦ることはないと、子供の成長は様々だからと、周囲の人に励まされ、諭され、不安な気持ちに耐え続ける日々が続いた後、あの子はユロン病と診断されました。もって三年、早ければ一年以内に死んでしまうだろうと」
夫人はいったん言葉を切ると、左手を夫の膝上に伸ばした。そこに置かれた主人の手が、いつの間にか強く拳を握っている。それを、夫人の手が優しく包む。
「私達は、神に祈りました。どうか娘を奪わないで下さいと。この世に生まれて、たった二年で命を散らさなければならないだなんて。それでは、この娘は、一体何のために生まれてきたのか。死ぬために、生まれてきたというのでしょうか。どうぞ、どうぞ、娘を生かしてください。私達の命を、今すぐお召しになっても構わない。だからこの子を、エルダをと。毎日毎日、祈り続けました」
夫人の声がたちまち震え、言葉の終わりが涙で滲んだ。哀しいというよりは、空虚さを湛えた目で、主人を見る。