アルサーンスの空の下で                  
 
  第九章  
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 エルダ・リテーストの実家は、ティアスタ国でも有数の海辺の保養地、マリーセアのすぐ近くにあった。キッパルは、この穏やかな入り江を抱く小さな町で、落ち着いた雰囲気がアルサーンスによく似ていた。自然の美しさ、そして人々の素朴さも、同じだ。たった半日で、ディオはキッパルの町がすっかり気に入ってしまった。
 しかし、バジルの機転がなければ、ディオはその日の午後には、ここを発たなければならなかったであろう。この時期、マリーセアは観光客で溢れる。シーズンも終盤で、大分人の姿がまばらになってきてはいたが、海辺の大きなホテルはどこも満杯であった。自分の計画性のなさを嘆きつつ、寝場所を求めて路頭をさ迷う覚悟を決めたところに、バジルから連絡が入る。海から少し山側に入った小さな別荘。何でも、マーチェスの従弟が有するもので、シーズン中は観光客に開放しているとのことだったが。例年、予約でいっぱいになるところ、たまたまこの三日ほどだけ、空いていたとのことだった。
 もちろん、聖務官の特権を生かせば、マーチェスの従弟が所有するものであろうが、海辺のホテルであろうが、一部屋空けさせることは可能だ。だが今、ディオはただの一般人として、キッパルの町を訪れている。パイチ色から解放され、いかにも夏の休暇を楽しんでいますという、くだけた服装で海岸を歩いている。ただ一つ、両の手にはめられた白い手袋さえ除けば、ディオの姿は周囲の風景に、全く違和感なく溶け込んでいた。
 ディオは、手袋をはめた両手をズボンのポケットの中に隠し、目指す家へと近付いた。
 海岸通りから、一本山側に入った道。そこに建つ、小さな土産物屋。こういう海辺の観光地によくある、貝殻で作った素朴な品が並んでいる。小さな巻貝のネックレスにコースター。真っ白な浜辺の砂を小瓶に詰めたもの。そこに、一つずつ入っているのは、淡いパイチ色をした二枚貝の片割れだ。それら見慣れた品々に混じって、貝殻を細かく砕いた破片で作られた小物も並ぶ。
 様々な種類と色の貝殻を組み合わせ、一枚の絵画とも見紛うほどの装飾が施された小箱。一つとして同じ物はなく、ディオの目には、それはもう芸術の域に達しているように映った。
「いらっしゃい」
 店の奥から響いた優しい声に、ディオは顔を上げた。ほっそりとした体の中年女性。だが、ぎすぎすした感じはない。年上でも年下でも、かなりの範囲でOKのベッツなら、恐らく片目を瞑ってみせたであろう美貌の持ち主。だが、その印象より強く、向けられた笑顔の明るさに惹かれる。晴れやかで、涼やかで、どこかで見たような、見知った者の顔を重ねてしまうような、そんな親しみやすさに思わず見入る。
「どなたかに、お土産ですか?」
 柔らかな声で、その女性が続ける。
「もしかして、彼女?」
「え……あっ」
 無意識のうちに手にした小箱が、いかにも女性が使いそうな、可愛らしい作りのものであることに気付き、ディオは頬を赤らめた。
「いえ、そうじゃなくて」
 小箱を棚に返し、ディオは女性の方に向き直った。
「実はあなたに、あなたと御主人にお伺いしたいことがあって来ました。エルダ・リテーストについて」
「エルダ……」
 女性の顔に、複雑な感情が浮かぶ。驚き、戸惑い、哀しみ、そして慈しみ。それが、今は亡き、娘の名を聞いた母の反応であった。
「あなたは……一体?」
「すみません、申し遅れました。私の名は、ディオ・ラスター。アルサーンスの聖務官です」
「聖務――官?」
 疑問の色を濃く残すリテースト夫人の顔の前に、ディオは身分証を指し示した。反応は変わらない。だが、それは無理からぬことであった。
 通常、聖務官であるか否かの判断は、その制服で見極められる。身分証を提示することなど、聖務官同士でもまず行わない。せいぜい転任時に、新しい上司たる署長から提示を求められるくらいだ。いかにして夫人から信用を得るか。残念ながら、ディオ自身の中にそれは見つからなかった。
 少し迷って、ディオがある言葉を口にする。
「実は、ベルナード聖使徒様の――」
「ベルナード聖使徒様」
 夫人の表情が、大きく変わる。沈痛な色が、顔全体に滲む。
「本当に、この度はお気の毒な……あのような、立派な方が……」
 そう言って、俯く。その表情に嘘偽りも誇張もないことを認め、ディオは哀しみに沈みながらも誇らしさを覚えた。
 あの一件、『ドーレ聖使徒を殺害した犯人を独断で追い詰め、その末にベルナード聖使徒が命を落とした』というニュースは、すでに国中に知れ渡っていた。今の時代、情報は直ぐに伝わる。聖会、及び聖務署において、緊急連絡用に使われている転映機を用い、重要な事柄を広く人々に知らしめすシステムが、およそ三十年前に確立されたのだ。情報の選択は大聖会が行うこと、また、例えば今回の事件のような場合、事が片付くまで一切が伏せられるなど、実際庶民に伝わる情報は、非常に少なく偏ったものではあるが。それでも、何もかもが秘密にされていた昔より、いいことだとディオは思った。
 一つのことを知れば、さらなる知識を求めるのが人の性だ。その気持ちがある限り、仮に提示された情報の向こうに隠されたものがあっても、それを暴くことができるだろう。目の前に示されたものが、紛れもなく真実であるかどうか、探求することが可能だろう。迷ったり、間違ったり、騙されたりする者があっても、する時があっても。いつか誰かが、正しい道を見出すに違いない。その入り口が開かれていることは大きい。現に――。
「これだけの功績を残されたにも関わらず、ベルナード聖使徒様に、聖教士(せいきょうし)の位が授けられないなんて、おかしいと思いますわ」
 目の縁を軽く押えながら、夫人が話す。
「本来なら、聖務署に任せるべき犯人の追跡を、単独で行ってしまった。そのため、命を落とされたとのことでしたが。ベルナード聖使徒様ともあろうお方が、何のお考えもなしに、無謀なことをなさるとは思えません。それに、たとえそうだとしても、恐ろしい殺人者を葬ったことに、変わりはありませんもの。町の人の中には、生かしてつかまえることができなかったのが悪いのだ、と言う者もありましたが。それは、その余裕がなかった、一緒にいた聖務官の方々を、守らんと為さったからではないでしょうか。転映報道では、ただ聖務官の中に怪我人が出たとだけ伝えていましたけど。でもそれは結局、そういうことだと思うのです。聖使徒様が、聖務官の方々をお助けになったという」
 その通りです。
 思わずそう答えそうになるのを、ディオは辛うじて踏み止まった。
 そうなんです、その時助けられたのが、俺なんです。
 喉まで出かかった台詞を呑み込む。大聖会が公にしていない情報を漏らすことは、厳罰の対象となる。聖務官という地位を失うことにもなり兼ねない。
 真実を告げたい思いを押えて、ディオは頷き、一言だけを添えた。
「私も……そう思います」
 夫人の、この入り江の海のような瞳が、大きく見開く。
「あなた、聖務官――とおっしゃいましたわね。アルサーンスの」
 夫人が言葉を切る。唇から小さく吐息を零し、そして微笑む。
「賛同して頂けて、嬉しいですわ。主人もきっと喜びます」
「御主人も、同じご意見なのですか?」
「ええ、私達は娘のことで、エルダのことで。ベルナード聖使徒様には一方ならぬお世話になりましたから」
 夫人の目が、想い出を探るように半分ほど伏せられる。しばらくの時を置き、再び開けられた目が真っ直ぐにディオを見る。
「そのお話を、お聞きにいらしたのですね」
「ええ」
「そうですか。ではどうぞ、二階に。少しばかり、長い話になると思いますので」
 夫人の顔に、優しい笑みが過ぎる。その笑顔に、ディオも一つ微笑を返すと、彼女の後について部屋の奥へと入っていった。

 

 
 
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  第九章・1