アルサーンスの空の下で                  
 
  第九章  
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 伏せていた瞼を上げ、夫が夫人を見返した。その額に、深い皺が刻まれる。夫人の口から溜息が零れる。
「私達の――私達の祈りは聞き届けられました」
 抑揚のない声で、夫人が言葉を紡ぐ。
「もって三年といわれたエルダは、五歳を迎え、六歳を迎え、八、十、十二と生き続けてくれました。七歳の頃にはもう、ベッドから一歩も動くことができなくなりましたが、彼女はそれでも生き続けました。そしてそのことが、私達の新たな苦しみとなったのです」
 夫人の声がそこで途切れる。沈黙が長く続く。しかしディオは、促すようなことはせず、ただじっと待った。夫人の唇が幾度もためらい、開いたり閉じたりするのを、見つめ続けた。
「私達は――」
 あまりの苦痛に漏れ出たような声で、夫人が再び言葉を紡いだ。しっとりと濡れた瞳でディオを見る。
「私達は、なぜ、あんなことを祈ってしまったのか。ただ息をするだけの存在となったエルダ。何も感じず、何も思わず、ただベッドに横たわり、そこにある。それが彼女にとって何になるのか。いかなる喜びがあるのか。彼女は一体何のために生まれてきて、何ゆえ、生き続けるのか。そうまでして、こうまでして――」
 がたりと大きな音が響いた。主人が立ち上がり、背を向ける。後ろの壁際まで進み、そこにある小さなチェストに両の拳を叩きつける。そしてそのまま彫像となる。
 静かに夫人が言う。
「私達は、あの子に生き続けて欲しいと願いました。でもそれは、ただ命さえあればいいというものではありませんでした。私達は懸命に、私達の考える命を、立って、歩いて、それが叶わぬとも、せめて笑って、泣いて――そんな命を取り戻したい。その方法を求め、探し続けました。しかし、やがてそれにも疲れてしまったのです。そうなって初めて私達は気付きました。なんと残酷なことを、あの子に望んだのかと。私達が愚かな夢を見続ける間、どれだけあの子は苦しみ続けたのかと。そんな時でした。ベルナード聖使徒様にお会いしたのは」
 夫人の声が、わずかだけ明るくなる。その変化に、自分の心も少し軽くなったのをディオは感じた。
「ベルナード聖使徒様は、優しくおっしゃって下さいました。祈りの魔法の力だけで、人を生かすことはできないのだと。もし、そうであれば、死者をも蘇らせることが可能であろうと。だが、何人にも、そのような力はない。その者が望まない限り、生かすことはできない。ゆえにあの子は、自分の意志で生きているのだと。エルダ自身が生きることを望み、初めて祈りの魔法は力を持つことができるのだと」
「……それで、わしらは救われた」
 ぽつりと主人が呟いた。顔の半分だけをこちらに晒しながら、なおも言う。
「だから、わしらはベルナード聖使徒様にお願いした。娘がそれを望むなら、生きることを望んでいるなら、その気持ちが続く限り、あの子を助けて欲しいと。守って欲しいと」
「それで、ベルナード聖使徒様は、エルダさんを引き受けた。四ヶ月前、静かに息を引き取る瞬間まで、治療を施し続けた」
「ええ、でも」
 ディオの言葉に、夫人の唇がほのかな微笑を湛える。
「それだけではないのですよ。ベルナード聖使徒様は、娘に奇蹟を起こしてくれたんです」
「奇蹟?」
「あの子、笑ったんです」
「えっ?」
 ディオは驚きの声を発した。ユロン病の患者が、しかも末期の患者が、笑うなどということがあるのだろうか。そこまで回復するようなことが……。
「でもそれは、私と夫と、ベルナード聖使徒様だけが、そう思っているに過ぎないのですけどね。そう信じているだけ」
 ディオは、あからさまに驚いたことを恥じた。
「ご覧になります?」
 俯いたディオを助けるように、夫人が声をかける。
「アルサーンスで、あの子は海の見える部屋が、一番好きだったそうです。もちろん、これもベルナード聖使徒様と私達だけが、そう確信しているに過ぎないのですが。でも本当に、その部屋に寝かされている時のエルダの顔は、とても穏やかで。とても優しい目をしていて。そんな顔、このキッパルの町では一度も見せたことがなかった。だから、遺体をどうするかというお話になった時、私達はエルダをアルサーンスの墓地に埋葬して欲しいと願い出ました。永遠に、いつもあの笑顔でいられるように。私達には、この写像画(しゃぞうが)さえあれば、それで十分――」
 夫人はそう言うと、首にかけていたペンダントを外した。裏蓋を開け、ディオの前に差し出す。
「ベルナード聖使徒様が送って下さったのです。聖会の、海の見える部屋の、エルダの姿。エルダの顔を」
 ディオはペンダントを手に取った。そして息を呑む。思わず大きな声を上げそうになり、それを押し止める。乱れた心が、激しく混乱する。それがそのまま顔に現れるのを、必死で押えつける。
 どくどくと、大きく脈打つ心臓の音に呼吸を合わせながら、ディオはペンダントを夫人の手に戻した。ゆっくりと顔を上げ、夫人の海色の瞳を見据える。
「ありがとうございました。これで、エルダさんの墓に花を手向ける時、胸にその姿を思い浮かべることができます」
 夫人の顔が、美しく微笑む。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 はらりと大粒の涙が、頬を転がる。その横で、主人が深々とディオに頭を下げた。

 

 
 
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  第九章・3