アルサーンスの空の下で                  
 
  第十章  
               
 
 

 セシルアは小さく息をつくと、大きく声を張り上げた。
「閣下に、お聞きしたいことがあります」
「ほう?」
 頬杖をつく手を増やし、元帥はそう声を出した。組んだ両手の上に細い顎を乗せ、上目遣いにセシルアを見る。
「聞きたいこととは?」
「なぜ、軍の極秘諜報部員をよこしたのですか? 私だけでは信用できぬ、そういう意味でありますか?」
 元帥の唇に微笑が浮かぶ。しかし、瞳に笑みはなかった。それを屹然と見返しながら、セシルアがさらに言う。
「それとも、私に下された命が、嘘偽りであったのでしょうか。ベルナード聖使徒に禁忌を犯した疑いあり。大聖会はそれを黙認する意向であるゆえ、その実体を密かに暴けという――」
「それで、結果は?」
 穏やかな声が、元帥の唇から零れる。
「捜査の結果はどうであった? 嘘偽りの、でっちあげであったか?」
「それは……」
 詰めたような声で、セシルアが答える。
「事実――でした。搬送途中で亡くなったローディアの遺体を、ニーベランの聖使徒立合いのもと検分しましたが。明らかに彼女の脳の状態はおかしかった。ユロン病ならば、もっと全体的な萎縮があっていいはずなのに、彼女の脳は正常値の容量でした。欠落しているのは、その中身だけ。何の不足も障害もない細胞が、使われることなく真っ新のまま残されている状態。以前、心眼者が見立てた時の言葉が確かなら、その異常は、転生の法によって引き起こされたものと考えられます。すなわち、人の記憶を、それを持つ脳細胞のみを、そっくり入れかえるという禁忌の法によって」
「うむ、御苦労。後は――」
「ですが」
 元帥の言葉を遮って、セシルアが声を上げる。
「閣下の狙いは、本当にそれだったのですか? 一人の聖使徒の過ちを暴き、大聖会の不正を正す。ただそれだけが目的だったのですか? そうであるなら、なぜ――」
「なぜ?」
 柔らかな声だった。だが、向けられた目は、ディオント山の頂上を覆う氷塊よりも、冷たかった。
 意識的に顎を引き上げ、セシルアが言う。
「なぜ、バラザクスの諜報部員が、墓荒らしなどしたのですか? なぜ、ドーレ聖使徒が大聖会の闇部に殺されるのを、黙って見ていたのですか? そもそもなぜ、ドーレ聖使徒は、そしてベルナード聖使徒は、大聖会の闇部に狙われたのですか? 仮に、禁忌を犯したベルナード聖使徒を、密かに抹殺しようと考えたのだとしても、ドーレ聖使徒を襲う理由にはなりません」
「存外、ドーレ聖使徒も禁忌を犯していたとか」
「それだけでは、前の二つの答えにはなりません」
 セシルアの細い眉が、片側だけ引き上がる。
「この私に、そのようなはぐらかし方を為されても、無駄です」
「そうで――あろうな」
 言葉の後半が、息の音で占められる。
 元帥は大きく両腕を掲げ、それを頭の後ろに宛がい、体を椅子に添わせた。聖皇も、大聖会のお偉方も、バラザクスの将軍も、あの、始終暗い顔をした秘書官も。彼を知る全ての人々が、一度も見たことがないようなくつろいだ姿勢で、椅子に沈む。そして、少年のような無邪気な笑顔をセシルアに向ける。
「理由はあったのだ。そなたには言えない。事が事だけに、慎重を期さなければならなかった」
「私が、信用できなかったとおっしゃるのですか?」
「違うな」
 ぐらりと椅子を揺らし、元帥は少しだけ体を右に回した。見るともなしに、視線の先の華やかな宮殿の柱を見つめ、呟く。
「信用できなかったのは、私自身だ。君に告げてしまえば、そのまま走ってしまいそうだった。夢に向って、野望に向って……」
「――閣下?」
「だが、まだその時ではない。大聖会は、世界の頂点は、まだ遠い」
「閣下……」
 エルドラート元帥の瞳が、星を纏うかのように煌き、そして深く沈む。見つめるセシルアの唇が、小さく音を鳴らす。
「一体、何が……。この一連の事件の背後に、何が隠されているのですか?」
「ベルナード聖使徒に、娘はいない」
 感情のない声で、元帥が言った。椅子を戻し、真正面からセシルアを見る。
「分かるか? この意味が」
「それはつまり、ローディアは……ローディアの頭の中は、別の人間ですが。体は間違いなくベルナード聖使徒の娘であるはず。それが違うということは、あの娘は」
「ドーレ聖使徒から預かったのだ」
「では、彼女はドーレ聖使徒の?」
「ドーレ聖使徒に、娘はいない」
 元帥の顔に、楽しそうな表情が浮かぶ。うまい悪戯を思いついたような、そんな目をセシルアに向ける。
「つまり、彼も誰かから預かったのだ、あの娘を。では、一体彼女は誰の娘なのか? 大聖会の闇部が追い、それゆえ我が配下の者を差し向けなければならなかった者とは。大聖会が血眼になって探し、滅しようとした娘とは」
 セシルアが呟く。
「フェルが、野望を抱くほどの存在?」
「やっと名前で呼んでくれたな、セシルア」
 元帥が、邪気のない笑みを見せる。セシルアの心がそれで緩む。無駄のない動きで元帥は立ち上がると、セシルアを見つめながら、一言紡いだ。
「聖皇は、来月、御歳九十二歳となられる」
 セシルアの顔色が変わる。
「つまり、それは」
「次期聖皇の候補に、二人の男の名が上がっている。一人はルドラス・メルベラン真修公。そしてもう一人は、イール・ファンドレオ真修公。我がバラザクスは、ファンドレオ真修公を強く推している。だが、メルベラン真修公の後ろには、がちがちの保守派がついているからな。このまま何事もなければ、メルベラン真修公が次の聖皇となられよう。何事もなければ――だが」
「まさか……まさか、真修公ともあろうお方が、そのような」
「そんなものだよ、大聖会などというところは」
 あからさまな嫌悪の感情を顔に浮かべ、元帥は窓の方を向いた。人工的な中庭を見下ろしながら、囁くように言う。
「これで分かったろう。娘はとてつもない爆弾だ。大聖会を揺るがすほどの。ゆえに我らは大聖会がそれをもみ消す前に、押えようとした。ドーレ聖使徒に見張りをつけ、機会を待った。彼を失ったことは、不幸だ。まだあの時は、娘の所在をつかみきれていなかったからね。顔を出し、我らが動いていることを、大聖会に悟られるわけにはいかなかったのだ」
 そこで元帥は、わずかに首を傾げ、セシルアを顧みた。黙したまま、セシルアがそれを見返す。言葉ではなく、強固な視線で意志を示す。
 先に、元帥が顔を背ける。
「ドーレ聖使徒の件は――気の毒であった」
 言い訳でもするように、そう呟く。
「だが、それで我らは、大聖会の闇部に一歩先んじることができた。ベルナード聖使徒が現れ、彼が絡んでいることが分かった。無論、それは大聖会の闇部も同時につかんだことだ。しかし奴は、逃げたベルナード聖使徒を慌てて追ったため、彼が心の中で呟いた言葉を捉え損なった。ルダ、ルダ、エルダ――という、その名を」
「では、私にアルサーンスへ出向くよう命を下された時、すでに閣下は、エルダという娘のことを御存知だったのですね」
「その時はまだ、確信はなかった。だが、エルダという娘がローディアと同じ病で死んだという事に、引っ掛りを覚えた。よって、それを確かめるために、君を」
「そして、影を。極秘諜報部員を使って、ベルナード聖使徒に縁のある者の墓を調べさせた。まず妻の墓を。続いてエルダの墓を掘り返そうとした。私だけでは、秘密を暴くことができないとお思いになられて」
「違う」
 元帥が小さく首を振る。
「助けになればと、そう思ったんだ」
 拗ねたような元帥の口調に、セシルアは胸の内だけで大きく溜息をついた。

 
 
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  第十章・2