アルサーンスの空の下で                  
 
  第十章  
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 長い回廊に響く、自分の硬い靴音だけを聞きながら、セシルアは歩いた。
 ビヤンテ区国内にあるバラザクスの総司令部は、この華麗なトル宮殿の中にあった。遠くリノキアで採掘された上質な大理石、スラタバ製の最高級のタイルを装飾に使った壁、柱や縁には金箔が貼られ、施された繊細な彫刻をより際立たせている。高い天井に描かれた絵は、およそ百五十年前、一世を風靡した天才画家、レルパオドの手による宗教画だ。大胆な構図、緻密な筆さばき、そして絵心の全くないセシルアですら、感嘆の声を発する豊かな色彩。とりわけ、「バラザクスの赤」と呼ばれる、六人の聖者を包む真紅の衣は、まるで本当に絹衣がそこに張りついているかのように鮮やかで、見つめているうちに、ふっと手を伸ばしてしまいそうになる。艶やかな色をすくうように、掌を翳してしまう。
 ぽたりとそこから、血のような赤が染み落ちるような気がして、セシルアは首を振った。天井から視線を外し、美しい回廊の壁のない方、大聖会との間に挟まれた中庭を見やる。優しい緑と、きらきらと光を撒き散らす噴水の飛沫に、心を落ち着かせる。
 だが。
 その効果も、ほんの数秒のことであった。美しくはあるが、華やかではあるが、いかにも作られた感のある姿が、しっとりと馴染まない。それは、これでもかと言うくらい飾り立てられた大聖会の中も同じで、トル宮殿内のどこにいても、セシルアは心から休まることができなかった。
 もし、我が手に力があれば、真っ先にこの宮殿を叩き壊してみせるのだが。
 セシルアの唇が、音を伴わずそう動いた。
 同感だが、これは自分の言葉ではない。それを口にした人間は、この先にいる。
 セシルアの足が止まった。回廊の突き当たり、美しい装飾の施された大きな扉の前に立つ。
 セシルアは、睨みつけるように前を見据えると、深く息を吸った。そしてそれを、声にして吐き出す。
「セシルア・フェルバール。仰せに従い、参上致しました」
「入りたまえ」
 テノール歌手のような、澄んだ美しい響きで扉が答える。その音に、心がきゅっと反応したことを苦々しく思いながら、セシルアは扉を押し広げた。


 バラザクスは、いわば連合軍だ。各国の選りすぐりの人材が集められている。基本は、聖学校における成績の優秀な順に採用していくわけだが、実際にはもう一つ、別の条件があった。全体的なバランス。一国に力が集中しないよう、各々の国の、最低限の枠のようなものが存在したのだ。
 それでも、年によってはばらつきが生じる。長らく、優れた魔力所持者に恵まれない国も、中にはあった。しかし軍は、単に戦士だけで構成されるわけではない。そういう時は、魔力は少なくとも、知力智謀に長けた者で補充し、対処した。さらに、その各国の思惑に加え、大聖会の策略も絡む。元帥、将軍を始めとする、地位の高い者の多くが、各王族で占められていることが、それだ。
 一見、優遇しているように見えるこの計らいも、裏を返せば人質としての役割を有していた。今でこそ、バラザクスに対抗する軍を所持する国など、この世界のどこを探しても存在しないが。ガリア真教の浸透がまだ不十分であった頃は、密かに自国で魔法力を持つ者を囲っていたところもあったのだ。そして、ティアスタ国にも、同様な過去があった。
「久しぶりだな、セシルア」
 柔らかくうねる肩までの金髪を揺らし、重厚な造りの机に片肘を立て、エルドラート元帥はそう言った。白い肌に埋め込まれた怜悧な緑の目が、セシルアの全身を素早く認める。
「少し、痩せたか」
 淡紅色の唇の端を、わずかだけ引き上げ放たれたその言葉を無視し、セシルアは敬礼をした。表情を殺し、元帥を見る。二つ年上の従弟を見つめる。
 フェルセス・ナーダ・エルドラート。
 現ティアスタ国王の妹、マルラ・ベラントーワ・エルドラートの第一子である彼は、第七王位継承権を持つ。セシルア自身も、もし男性であれば、第十四位の継承権を持つ身であったが。エルドラート家とフェルバール家では、家柄に大きく隔たりがあり、この従弟はセシルアにとって雲の上の存在であった。ただしそれは、単に身分の差や、世の女性達、時には男性達までもが誉めそやす、彼の美貌によるものではない。そもそも、そんなものを賞賛したり、羨望の対象にする趣味は、セシルアにはなかった。彼女が心よりの賛辞を送ったのは、彼の持つ力。十年、いや、百年に一度の逸材と言われた魔力。兵法、軍略にも長け、政治的手腕をも持つ頭脳。セシルアはその才能に感銘し、陶酔した。そして彼の目が、どこを見据えているかを知った時、それは決定的となった。
 しかし――。

 
 
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  第十章・1