アルサーンスの空の下で                  
 
  第十二章  
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 妙な雰囲気が、その部屋を包んでいた。
 転映機の置かれた、今は亡きベルナード聖使徒の部屋。その小さな空間で、誰もが息を殺し、じっと壁にかけられた石盤を見ている。一辺が、ディオの肩幅くらいの四角い石。一様な鉛色で占められた盤が、低く唸るような音を上げているのを聞く。空気が硬い。緊張感、というよりは、どうにも落ち着かない、意味なく不安が漂うような感じ。焦れるような、歯がゆいような感覚が胸を塞ぎ、いつしか息苦しさを覚えさせる。
 ディオは、右手を首元まで上げ、襟をつかんだ。深く息を吸う。その音が、思った以上にうるさく響いたので、慌てて息を止める。と、それに合わせるかのように、鉛色が、すっと色を薄めた。
 あっ。
 声にならない声でそう呟く。透き通った石盤に、映像が映る。
 ディオの目に、まず青が飛び込んできた。ガリア真教の象徴でもあるその色の地に、銀の六角星が描かれた垂れ幕。前には、同じ青い布で覆われた高く小さな机。聖皇様がお言葉を述べられる時や、重要な決定事項を大聖会が発表する時によく使われる、蒼の間の光景だ。だが、まだそこに誰も立ってはいない。ただ画面の両端に、時折がさがさと人影が映り込むのみだった。
 しばらく、同じ映像が続く。不安に加え、苛立ちを覚える。
「……ディオ」
 画面の端の人影が、さらに忙しく動いた。
「……ディオ」
 しかし、まだ誰かが出てくる気配はない。
「……ディオ」
 一体、何が今から始まるというんだ。何が――。
「ディオ!」
「……へっ?」
 角のある囁き声と共に、軽く肩をつかまれ、ようやくディオはすぐ側に立つセシルアの存在に気がついた。大きな猫のような瞳が、冷たくディオを見据える。なお音を殺しながら、セシルアが言う。
「全く、いつもいつもぼおっとして。まあいい、お前は早く、向こうに行け」
「……向こうって?」
「エルダ、いや、ローディア、いや、お前にとってはアンジュか」
 小さく顎を動かし、セシルアがさらに囁く。
「とにかく、彼女の側にしっかりついていろ」
 ディオはセシルアの促す先を見た。部屋の一番後ろ、壁と同化するように立つ影の直ぐ側に、アンジュは立っていた。ぴんと背筋を伸ばし、毅然とした表情で転映機を見つめている。だが、その顔色は蒼白だった。
 ――アンジュ。
 ディオは、アンジュの側に近付いた。ちらりと影が視線をよこす。反射的にディオは、睨み返すように影を見た。しかし彼は、表情一つ変えることなく、再び転映機の方に視線を戻した。そのまま闇に沈む。存在を消し、壁となる。
 軽く敗北感を覚えながら、ディオはアンジュの側に立った。そっと囁く。
「……アンジュ?」
「……ディオ……さん」
「大丈夫?」
 その言葉にアンジュが微笑む。
「……はい」
「おおっ、あれはバロメア真修公か?」
 ベッツの大き過ぎる声に、ディオとアンジュが同時に振り返る。そして、転映機から溢れる光を見る。
 青の垂れ幕の前に、白髪の老人が立っていた。紫色の衣は、間違いなく彼が、真修公の位を持つ者であることを示している。現在大聖会には十二人の真修公がいるが、その最高齢者、八十一歳の真修公の名が、レント・バロメアであった。
 画面の中のバロメア真修公が左を向き、画面の外の誰かと何事かを話す。一つ頷き、前を向く。するすると、手に持った書簡を開き、懐から鼻眼がねを取り出し、かける。
「ええ……」
 大量に息漏れする、力のない声が転映機から流れる。
「この度、全聖会、及び全信者に、お知らせすべきことができましたので、ここにご報告致します。長年大聖会にて聖皇様に仕え、信者を導いて参りましたメルベラン真修公より、過去の過ちについて告赦の申し入れを受けました。しかしその罪は、大聖会に属する者として、まことにもって許し難き重罪でありましたゆえ、大聖会は本日、メルベラン真修公を破門の上、身柄をバラザクスに預け、然るべき裁判を受けさせることに致しました。今回の事件は、聖皇様、及び全信者の信頼を裏切ることであり、大聖会としても遺憾の念を覚えずにはおれません。今後、このような不祥事が起こらぬよう、戒律を守り、己を律し、尊き神の教えに従うことを改めて皆にお約束致します。大聖会代表、レント・バロメア」
 鼻眼がねをひょいとあげ、バロメア真修公がまた左を向いた。頷き、どこかほっとしたような息を吐く。するすると、書簡を巻き戻す姿の途中で、ふっと映像が切れる。そこで、転映が終わる。
 最初にベッツが口を開いた。
「……で、結局何がどうなった? メルベラン真修公が破門されたってことは分かったが、それ以外ははっきりしない、うやむやな説明だったような」
「立場上、そうせざるを得ないでしょう」
 マーチェスが続く。
「都合の悪いことは知らせない。それが大聖会の方針ですから」
「だが、まだバラザクスの会見がある」
 独りごちるかのような小さな声で、セシルアが言う。
「もう少し、何か分かるかもしれない」
「ですが、それもあまり期待はできないでしょう。所詮、バラザクスは大聖会の一付属機関にしか過ぎない。建前では、それぞれ独立した権限を持っているとのことですが。大聖会に逆らってまで、バラザクスが事を明るみにするとは考えられません」
 そのマーチェスの言葉に、セシルアの眉が少しだけ動いた。否定も肯定もせず、じっと沈黙を守る。転映機を見据える。

 
 
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  第十二章・1