アルサーンスの空の下で                  
 
  第十一章  
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「署長、彼です! 彼がもう一人の、現場の、ダルダの、墓の、あの」
「遅いぞ」
 驚きのあまり、言語能力を著しく欠いたディオの言葉を無視し、セシルアは新たな影に向ってそう呟いた。構えた左手を降ろし、近付きながら、さらに冷えた声を放つ。
「と、貴殿の上官に、お伝え願いたい」
 影の眉が、そこで上がる。顔をセシルアに向けながら、一言紡ぐ。
「申し訳ない。その上官から緊急の言伝があったもので、一歩遅れた」
「緊急の言伝?」
「あまり無茶をしてくれるなと。どのような立場の者であれ、大聖会の者に万が一のことがあれば、事は難しくなると」
 無表情のまま、男が後ろを振り返る。
「良かったですな。奴は無事に逃げたようだ」
 ディオは、夢でも見ているかのような気持ちだった。
 最初の影はもう、異空の果てに消えていた。後に残された穏やかな空間と、静かに佇む新たな影とを交互に見る。何度かそれを繰り返すうちに、視界の端に立っていたマーチェスが、動きを見せる。いつでも解き放つことができるよう、腕に絡めた風の渦を収め、静かに言う。
「なるほど。そちらはバラザクスの方ですか」
 バラザクス?
 ベッツが、バジルが、フラー副署長が、ガラウスが、そしてとっくの昔にセシルアが。緊張の糸を緩める中、ディオは一人迷っていた。
 バラザクスだから、何だって言うんだ? こいつは、ドーレ聖使徒を見殺しにした、ダルダを操って墓を荒らした、あの影だぞ。そんな相手を信用など……。
 影の顔が、ディオの方に向けられる。その動きが、闇に沈みつつある周囲の景色と合わさり、あやふやとなる。人目に姿を晒しながら、なお気配を感じさせぬほどに己を消し、呟く。
「私は貴殿らに、及びエルダ・リテースト嬢――いや、この場合、ローディア・メルベラン嬢とお呼びした方がよろしいか。とにかく、どなたにも危害を加えるつもりはない。疑うなら、その力で確かめて頂いても結構」
 ぎょろりとした目が、ディオのむきだしの手を見据える。その時初めて、男の目が、普通よりも大きめであることに気付く。本来、最初に感じるべき特徴を知る。
 大聖会の闇部であろうが、バラザクスの手のものであろうが。この手の職種の者に親近感を持つことは難しいな。
 心の中だけで呟き、ディオは小さく首を振った。
「いえ、結構です」
 そう答えてから、視線を滑らせる。バジル達に囲まれて立つアンジュの姿に、ほっと息を吐く。そして直ぐ、不安になる。
 それで? それで、これからどうなる?
 ぎょろりとした目の男の衣が、ゆったりと揺れる。まるで地を滑るように、ほとんど肩を揺らさずアンジュの側に近付く。そして、見事なまでにしなやかな動きで、跪く。
「エルドラート元帥閣下のご命令により、ローディア・メルベラン嬢の身柄を保護させて頂きます。私と共にビヤンテ区国内バラザクス総司令部までおいで下さい」
 沈黙の時が、しばらく過ぎる。やがて、かさりと小さな音が響き、バジルの背後から一歩、アンジュが前に出た。
「分かりました。わたしも、そのつもりでおりましたので」
 すっと片手を前に出す。それをうやうやしく取り、影が立ち上がった。アンジュがセシルアの方を向く。
「フェルバール様。お助け頂き、ありがとうございました」
 無機質ともとれる声で、アンジュが礼を言った。
「フラー様、バジル様、ガラウス様、お守り頂き、ありがとうございました」
 声が少し上ずり、震えるように鳴る。
「マーチェス様、ベッツ様、本当に、ありがとうございました……それから」
 それから?
 向けられたアンジュの海色の瞳に、ディオは問いかけた。
 それから、君はどうなる? 命は保証されるだろう。バラザクスが身柄を預かるということは、正式に裁判を行うということを意味している。いくら大聖会でも、バラザクスに刺客を送り込むことは不可能だ。事の全ては裁判で明るみとなり、アンジュの本当の父親、メルベラン真修公は失脚し、それで表面上は終決するだろう。そしてアンジュは、多分アンジュは……。罪人の子として、その罪ゆえの存在として、ひっそりと息を潜めて生きることになるだろう。町や村から外れ、誰にも助けてもらわず、誰とも関わらず、一人、生きることとなるだろう。
「ディオさん」
 人として、それを生きているといえるのだろうか。心を殺し、魂を殺して、それを生きていると。
「ありが――」
「すまない、アンジュ」
「……ディオ……さん」
「聖使徒様に頼まれたのに。後を頼むって、そう言われたのに。何もできなくて、ごめん。だから」
 これ以上、アンジュの瞳を見ることが耐え難く思い、ディオは目を伏せた。アンジュから顔を背けたまま、残りの言葉を吐く。
「俺に礼なんて、言わないでくれ」
「ディ……」
 アンジュの声がいったん止まる。随分と悩んだ末、再び声が放たれる。柔らかく、穏やかな響きがディオを包む。
「ごめんなさい、ディオさん……でも、やっぱり」
 ディオの顔が再び上がる。きらきらと輝くアンジュの瞳を見る。涙で濡れた海の色。その澄んだ煌きを見る。
「ありがとうご――」
『緊急連絡、緊急連絡、署員全員、転映機室に集合せよ』
 制帽達が、いっせいに騒ぐ。一人旅行帰りの身軽な格好をしたディオを除く、聖務官全員の頭上でそうがなる。お陰でアンジュより先に、目の縁から透明な雫が一つ零れ落ちたことを、ディオは誰にも知られずに済んだ。
 セシルアが、鋭く言う。
「一体なにごとだ? リオド・アートラ」
『ええと、あのう』
 どうやら一人、聖務署にて留守番を仰せつかったらしいリオドの声が、みなの制帽から流れる。
『ビヤンテの大聖会から、何やら発表があるようです。さらに、バラザクスの総司令部も会見を』
「バラザクス?」
 セシルアの片眉が上がる。
「バラザクスが、どのような会見を?」
『詳しいことはまだ。署の方には何も入ってきていません。ところで、どう致しましょう? 直ぐにお戻りになられますか? 音声だけなら制帽を通して送ることができますが』
「いや、転映機なら聖会にもある。そこで見る」
 制帽にそう答えると、セシルアは影を振り返った。
「緊急の会見というのが、この一件に関わるものであるかどうかは分からぬが。とにかく、それが終了するまで、少し待って頂きたいのだが」
「ふむ。バラザクスの会見とは、珍しいですな」
 影の目がぎょろりとセシルアを見る。
「私も興味がある。いいでしょう、お待ちしましょう」
 その声に、セシルアが頷く動作だけをして、短く言った。
「では、みな中へ。急げ、会見が始まる」
 ……一体、何が始まるんだ?
 騒ぐ胸を押えつけながら、ディオはセシルアの背を追った。その姿が闇に消える。
 日が、落ちた。

 

 
 
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  第十一章・7