蒼き騎士の伝説 第二巻 | ||||||||||
第九章 シャンティアムの谷(1) | ||||||||||
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<シャンティアムの谷>
一
その谷に足を踏み入れた瞬間から、ミクとロンバードは言葉を失った。
真夏にも関わらず、日差しは春を思わせるほど柔らかい。強くもなく、弱くもなく、常に涼やかな風が吹いている。谷を覆う一面の緑は多様な濃淡を有し、表情が豊かだ。それが風に煽られると、さらに様々な色彩が宿り、見る者を飽きさせない。所々、夏草の合間から覗いているのは、晴天の空を写し撮ったかのような色の小花だ。どれもこれも瑞々しく、甘やかな光沢を放っている。
誘われるまま視線を流せば、ほのかに鼓膜を震わす水音に辿りつく。楽しげに光を撒き散らすその小川は、さながら金糸銀糸が織り込まれた青い更紗の絨毯のようだ。彼方の川辺には一本の木。樫の木であろうか。その大きさからするとかなりの老木だが、風格こそあれ枯れた趣きはない。濃い葉色は生命力に満ち、地から競り上がるように張った根は躍動的ですらあった。
谷のどこを切り取っても命の輝きが溢れており、神の領域に達した画家の手による作品のように、どこまでも慎ましやかな美で満たされていた。
ミクの赤い髪が、小さく揺れる。馬車の小窓から乗り出すようにして、辺りを見渡す。遠くに見えていた樫の木が、もうすぐ側まで迫っていた。足元では木漏れ日が、草地を斑に彩っている。光の粒が寄り添っては離れ、離れては寄りそう。
その上で、無心に木の実をほおばっているのはリスだ。馬車の音に、いったんは目を丸くして動きを止めたものの、また忙しげに実を砕く。すぐ近くにいたもう一匹が、この谷の主であるかのような樫の木の根元を駆け巡った。それを目で追うミクの口元に、自然と微笑が浮かぶ。が、すぐにそれが掻き消える。その要因となったものに目を凝らす。
木陰に、何かある――?
ミクは冴えたグリーンの瞳を大きく見開いた。
尖ったつま先に向けて上向きにカーブしている茶色の靴。木の実を刳り貫いたかのような質感だ。そこから生え出たように伸びる、二本の白い足。靴の大きさから考えると、少々バランスが悪い細さである。それは体も同じ。この谷の草を編み込んで作ったのかと思えるほど、周りの色に同化した上着と短いズボンは、いずれも酷くだぶついている。その上に、これまたほっそりとした首が続き、そして、まん丸な顔。アッシュブラウンの巻き毛に縁取られたその顔は、作りの全てが丸い。目も鼻も口も、愛くるしいという表現が最も的確であろう形態をしている。
十歳くらいの少年……でも?
くりんとした大きなチョコレート色の目で、真っ直ぐにこちらを見ている少年を眺めながらミクは悩んだ。
錯覚? いや、違う。やはり変だ。
ミクは見開いていた目を逆に細めた。が、それに合わせるように少年の姿が木陰に消える。段々と遠ざかる樫の木に、ミクはなおも目を凝らした。しかし、再び彼の姿を見ることはできなかった。
ふと、あれは幻ではないかという思いが過る。馬鹿げた発想だが、そう思わせる理由がミクにはあった。それは、大きさだ。あの子供の大きさが、普通ではないのだ。目測に誤りがなければ、背丈はせいぜい自分の膝辺りまで。通常の半分もない。もっとも、この通常という観念が、間違っていることも考えられる。
この地の者の話によれば、北にはドラゴンの国が、南には巨人の住む国があるという。残念ながら、もしくは幸いなことに、まだそれらにはお目にかかってはいないが、獣人とでもいうべきラグルのような種族を、実際目の当たりにしている。ならばあのような小人の類がいても、少しも不思議はないのかもしれない。
ミクは樫の木を諦めて体を元に戻した。漠然と傍らに目をやる。生き生きと、草の海を泳いでいく馬車の影。光を含んでは放つ緑の波にもまれ、時折うねる。徐々にその頻度が増していき、馬車の揺れが少し強まる。前方に向かって、なだらかに昇っていく。
風がさらに草の波を押し上げ、波涛のように地面が煌く。その流れに沿って、ミクは顔を動かした。なだらかな丘。そのちょうどてっぺんに、大きな影が見える。明らかに、何者かの手で作られし物。しかし、その形はどう見ても――。
ミクは再び小窓から身を乗り出した。
「……船?」
「どうっ――」
馬車が止まる。御者台から覗き込むようにして、ロンバードがミクを振り返った。深めに被った帽子のせいで、灰色の目が本来の色より濃い。真っ白な、口髭だけが目立つ。
その髭が左右に広がり、重く静かな声が発せられた。
「どうか、なされましたか?」
「いえ、何も。ただ、あれが――」
そう言うと、ミクはまた前方を見据えた。
「ああ、あれですか」
ミクの視線の先を確かめながら、ロンバードが言った。
「あれは、屋根です」
「屋根?」
「キュルバナン族の家は、みなあのような形をしています。船のような形を」
「キュルバナン族……?」
「ええ、これくらいの」
そう言うと、ロンバードは自分の太腿を指し示した。
「小さな民です」
ああ、やっぱり――という言葉を、ミクは声には出さず呟いた。思った通り、さっきのは幻でも何でもなかったのだ。
「彼らはもともとユジュール大陸の海洋民族で、遥か昔、アルビアナ大陸の東方ルワナーン島に流れ着き、そこに住むようになりました。パペ族といわれる民がそれです。やがてそこから大陸各地へと移り住むものが出て、いくつかの集落を作りました。大陸において彼らは、キュルバナン――ちょうど彼らの背丈くらいの高さに育つ植物があるのですが――その名で呼ばれ、多くは故郷と同じ、鋭い岩壁に抱かれた入り江に居を構えたのです。しかしその中にごく一部、より豊かな土地を目指し、内陸に進む者がいました。丘に上がった海の民。この辺りのキュルバナン族は、そういう民です。今ではあの家の形だけが、彼らと海とを結びつけているのでしょう」
「そうでしたか」
ミクは頷いた。そういえば、そっくりな話が地球にもある。確か、東南アジアの村だったか。その村の民もキュルバナン族と同じ海洋民族で、長い航海の末その地に辿り着いたとか。その後、二度と彼らが海に出ることはなかったが、海の民である証は持ち続けた。そう、彼らの家もまた、船を模った形をしていたのだ。
自らのルーツを忘れずにいることが、その民の誇りとなる。人間の考えることに、そう大差はないのだろう。少々大きさが違っても、住む星が違っても……。
「では、この谷はキュルバナン族の住家なのですね」
「ここ一帯がそうです。もっとも彼らの村は、もう一つ山を越えたテファスの谷にあります」
「では、あの家は?」
「我々の目的地です。思ったより、早く着きましたな」
ロンバードの顔がほんの少し緩む。この旅で初めて見せた表情だ。