蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第九章 シャンティアムの谷(2)  
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「一体、何をそんなに困っているのです?」
 動きを止めた目が、恨めしげにミクを見る。
「女には親切にしろと言われてる。ご婦人に優しくできなければ男ではないと、旦那が言った」
「なら、ここを開けて下されば、済むことではないですか」
「それはダメだ」
 上目遣いの目がきゅっと細まる。
「留守ということになってるから開けられない。なのに女は開けろという。どっちかの言いつけを守れば、どっちかの言いつけが守れない……。困った、困った、困った」
 左右に動く目に加えて、首がこくこく縦に振れる。そのたびに、鼻を扉に擦りつけ、涙目となる。吹き出しそうになるのをこらえながら、ミクは言った。
「では、どうすればいいのか、一度レンツァ公に伺うというのはどうでしょう? 王の使いだという女が来ていると、そう伝えて――」
「それもできない」
 小窓の下端から、小さな丸っこい両の手が覗く。そこにしがみつくようにして、少年は訴えた。
「それでは、別の言いつけを破ることになってしまう。ゲージツをしている時は話しかけるなと言われてる。静かにしていろと」
「ゲージツ?」
「そうだ」
 頷いた拍子に、ごつんと鈍い音がした。どうやら思いっきり、額を扉にぶつけたらしい。大粒の涙を三つばかり零し、それでも懸命に話を続ける。
「船の部品になるでもなく、身に纏うでもなく、ましてや食うこともできないものだ。何の役にも立たないものを、ゲージツというのだ。まったく、旦那のやることは分から――」
「私は、お前のやっていることの方が分からんがね」
 滑らかな声が、扉越しに降り注ぐ。ミクは顔を上げた。その目の前で、ぎしぎしと痛まし気な音が鳴る。開かれた空間から、またその声が漏れ聞こえる。
「ここでずっと押し問答をするつもりだったのか、ティト。狭い家なのだから、それでは却ってうるさくてかなわぬであろう」
 ティトと呼ばれたキュルバナン族の少年は、そこで大きく頬を膨らませた。その全貌が、ミクの前に露となる。細い手足、構成する全てが丸い顔。そして、小さな小さな体。先ほど樫の木陰で見かけた者とそっくりだ。違うのは、服装くらい。アイボリーの少しくたびれたシャツに濃茶の吊りズボン姿が、一層可愛らしさを強めている。
「でも、旦那ぁ」
 拗ねたような声でそう言うと、ティトは頭の上に手を伸ばした。腕に比べて先は随分丸っこい。足もそうだ。床に擦れるほど長いズボンから覗いている素足は、バランスの加減でかなり大きく見える。
 その足が、爪先立つ。丸い肉厚な手が、自分の巻き毛の上に置かれた別の手に添えられる。
 真っ白な手。その手を包む鶯色の薄絹が、ティトの視線の先に続いている。衣には幾重にも襞があり、それだけでも複雑な色味を有していたが、さらに動きが加わると、光沢を帯び透き通るように煌いた。極めて特別な布で、確かな腕を持つ者によって仕立てられたに違いない。そしてこの極上の衣の主も、並ではなかった。
 男性にしてはやや細身、だが華奢というほどではない。上品な趣き、とでも言うべきか。それは顔も同じで、女性のような繊細な作りなのだが、なよなよとした頼りなさなどは微塵もなく、むしろ強い輝きを放っていた。特に印象的なのが、淡いグリーンの瞳。通常、目の美しさを表すのに、水晶やエメラルドなど宝石の類を引き合いに出すが、彼の場合はそういう表現が当てはまらない。喩えるなら、土から顔を出したばかりの新芽といったところか。しっとりと濡れて柔らかく、命の艶がある。魅力的な瞳だ。
 そしてもう一つ、彼にはその美貌を際立たせるものが備わっていた。それは、右肩に長く垂れている、房編みの髪。細くしなやかな髪の一本一本が、銀の月を連想させる光を宿しており、どこか神秘的ですらある。
 その銀の房が揺れた。
「これはこれは、ロンバード殿」
 シオはそう言って微笑むと、小さく会釈をした。緑なす谷をそっと撫でる風のような、木漏れ日の下で遊ぶ若草のような、そんな香りが立ち上る。
「このような所まで、よくお越し下された。さあ、どうぞ中へお入り下さい。お連れのご婦人も、どうぞ」
 薄絹の擦れる音と腕に巻かれた銀の鎖が、楽の音のように鼓膜を震わす。その音に導かれ、ミクとロンバードは美しい主の家の中へと入って行った。

 

 
 
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  第九章(2)・2