蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十一章 義と約と(1)  
                第十一章・2へ
 
 

 脱出のチャンスがあるとすれば、それは一瞬のことであろう。全神経を集中させ、その機を逃すことなく捕らえなければならない。とはいえ、悪戯に精神を高ぶらせるのも問題だ。今日にでもそのチャンスが来るのならいいが、三日先、あるいは十日先の話かもしれない。そんなに長い間、極限の緊張を維持することはできない。ほどよい緩和が必要だ。
 自分で定めたベストと思われるバランスを、意識してみる。だが、上手くいかない。その行為自体が、まるで綱渡りでもするかのような緊張を水面下で強いるのだ。
 馬車が大きく揺れる。と同時に、体に負荷が加わる。
 坂道だ。
 背もたれに軽く押しつけられた体を起こしながら、ミクは小窓を見やった。いつの間にか街並みは消え、一様な姿形の木々が、小刻みに揺れながら流れている。街中に比べて、随分と道が悪い。もちろんこれは、整備する技術がないわけでも財力がないわけでもない。わざとこうしてあるのだ。何度も折返すようにしながら登るのも、意識的なものだ。丘を登りきるまで、その全貌を捉えることのできぬシュベルツ城。自らの利便性より守りを取るに至った過去が、ここにも残されていた。
 現在ブルクウェルは、王の近衛兵であるキーナ騎士団によって守られていた。ペールモンド騎士団に次ぐ大きな騎士団で、数は九千。それに歩兵などその他の兵士を合わせて、およそ二万五千の兵が、ルバトラナ門、フェスデアル門、それぞれの砦とシュベルツ城に配されていた。さらにブルクウェルより南東、ミユルバ城を中心とするカナドール騎士団、南西パルーマス城を中心とするノラン騎士団が、窮地の際には盾となる役を負っており、事実上、およそ六万にもなる兵で王都を死守する仕組みとなっていた。
 しかし今、カナドール、ノランの両騎士団は、ブルクウェルより遥か後方に下がるべく、それぞれの領地を離れた。国の北寄り、ちょうど翼を広げたような形の領土にあるアムネリウス騎士団、ロイモンド騎士団も、とっくにフィシュメル国へ向かって進軍しており援軍とはならない。さらに北のコーマ騎士団、イルベッシュ騎士団は、地理的に遠すぎて意味を為さない。
 もしもこの機に乗じてオルモントールが不穏な行動を起した場合、王都の盾はサルバーン城にあるペールモンド騎士団のみだ。長らく戦火にまみえる事のなかったブルクウェルだが、その穏やかな時も後少しの運命かもしれない。シュベルツ城の真価が試される日は、そう、遠くないのかも……。
「着いたな」
 吐息のようなシオの呟きが終わると同時に、馬車が大きく一揺れして止まった。ぎしぎしと音を立て、城の外門が開けられる。ゆるりと滑り出した馬車が、さほどの時をかけず再び止まる。
「どうぞ」
 拒否を許さぬ強制力を持った声。憮然とした表情で、まずシオが馬車から降りた。続いてミクが降りる。一気に視界が広がる。
 左右には、ずらりと出迎えの騎士達が列を作り、見るからに重みのある門への道を作っていた。その先にそそり立っているのは、この場所に来るまで全容を知ることができなかった、シュベルツ城だ。灰白色の石組みは厳しい面持ちであるが、角張った旧城に比べると、東西に丸い塔が建てられている分柔らかく感じる。優美とまではいかないが、穏やかな印象だ。大きさも、むしろこちらの方が小さい。だが高さはある。建てられた時代に加えて、平地と丘の立地の違いも城の形に影響しているのだろう。
 だが、この二つの異なる城にも、等しく感じられるものがあった。それは決して華美ではないということだ。それはブルクウェルの街全体に言えることであり、ミクの知る限りでは、他の町にも共通することであった。キーナスという国民の気質が、そこに如実に現れているように思える。
「開門」
 城の扉がゆっくりと開かれた。その向こうに整然と並んでいるのは、蒼き鎧の騎士達だ。そのうちの一人、左頬に深い傷跡のある、褐色の肌をした騎士が近付く。
「お待ち申し上げておりました、公」
「これはこれはヴェッドウェル殿。将軍自らのお出迎えとは痛み入ります」
 はっきりと不快な感情をその美貌の上に乗せながら、形だけの言葉をシオは続けた。
「私ごときの者のために、かくも多くの騎士をおつかわし下さり感激の至極。水も漏らさぬ堅固な警備のおかげで、無事、城に着くことができました」
「相変わらず、手厳しいですな」
 唇の左端を、強く吊り上げながらヴェッドウェルは笑った。
「では、失礼ついでにもう一つ。長旅でお疲れのところ申し訳ございませぬが、陛下がお待ち兼ねです。すぐに謁見の間の方へ。奥方さまは――」
 そう言いながらヴェッドウェルはミクを見た。顔からつま先、そして顔。素早く走る視線に抜け目がない。
「お部屋をご用意しておりますので、先にそちらで」
「待った」 シオが言った。
「それは、東の塔にある部屋であろうか?」
「いえ、本城の蒼の間でございますが、それが何か?」
「では、塔の方に変えてくれ」
「はあ……」
 とまどうと同時に訝しげな表情を浮かべるヴェッドウェルに向かって、シオは補足の言葉を続けた。
「城の中で、あそこからの眺めが一番好きなのだ。我が妻にも、それを見せたい」
「はあ……」
 艶然と微笑むシオに、なおも怪訝な表情をヴェッドウェルは向けた。納得がいかない、そういう目だ。しかし、特に拘るべきことではないと思ったのか、あるいは、変にヘソでも曲げられたら困ると思ったのか。少し間を置き、承諾の言葉を口にする。
「分かりました。すぐに用意させましょう」
 その答えに満足気に頷くと、シオはミクの方を向いた。
「それでは、ちょっと用事を済ませてくる。そなたは先に部屋で休んでいてくれ」
「はい」
 返事をすると同時に、ミクは右手を自分の胸にそっと添えた。キーナスにおいて、身分の高い婦人が、自分と同等以上の位の者に対する時の、これがYESの所作だ。ロンバードに教えてもらった通り、しなやかな動きでそれを為しながら、思いを巡らせる。
 ロンバードは、今どこでどうしているのだろうか。そしてこの目の前にいるレンツァ公は、一体何を考えているのだろうか……。
「ふっ」
 シオの表情が緩む。
「そんなに怖い顔をするな。できるだけ手短に済ませてくるから」
 無意識のうちに険しい表情となったミクにそう言うと、シオは身を翻した。
 信じるしかない――。
 ヴェッドウェル将軍以下、十数名の蒼き鎧の騎士達と共に歩むシオの姿を見送りながら、ミクは思う。
 レンツァ公の知力を、レンツァ公の洞察力を。その先に必ずや正なる道があることを、今はただ……。

 

 
 
  表紙に戻る         前へ 次へ    
  第十一章(1)・2