蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十一章 義と約と(2)  
                第十一章・3へ
 
 

「いや、違う」
 再び掌を頬まで下ろし、アルフリートは言った。
「これは命ではない、約だ。スティラの約を果たして欲しい」
「……ほう」
 薄く仮面を被せたかのように、シオの顔から一切の表情が消えた。
「スティラの約――ですか」
「そうだ。よもや覚えておらぬとは言うまいな」
「もちろんです。とお答えしたいところでありますが」
 仮面を付けたまま、シオが続ける。
「シャンティアムの谷は、浮世の全てを忘れさせる魔力があるようでして。どうも昔のことは、朧げにしか――」
「スティラ・グルッツェ・ロンデル。彼女の家があったのは、そう、街の西外れだった。サルヴァーン城をこっそり抜け出し、二人してよく遊びに行ったではないか」
「…………」
「面白い人だったな。グルッツェ家といえばフルワンの爵位を有する名門であるのに、ビヨンの爵位しか持たぬロンデル家に嫁ぎ、あげく、平民と同様の暮らしをしていたのだから。そういえば、彼女の五人の子供達。いつも煤けた服をまとい、泥だらけだった。初めてそなたの叔父に案内された時、どれほど驚いたことか。こんな所で、そなたが育てられたとは」
「良い所でした。今の住処と甲乙つけがたいほど」
 シオは銀の房髪を弄びながら言った。
「早くに両親を亡くした私の面倒を、よく見てくれました。最初はサルヴァーン城に通ってきてくれていたのですが、そのうち私の方が彼女の家に通うようになり、気がつけば、いつの間にか住み着いていたのです。でもそれもそう長い話ではありません。すぐにサルヴァーン城に呼び戻されましたからね」
「平民同然の暮らしが長いためか、それとも元々そういう性質であったのか。とにかく何事にも豪快な女性であった。特に怒った時は……であろう?」
 髪を弄んでいたシオの手が止まる。仮面がいっそう無機質化する。
「彼女が大切にしていたフランフォスの花の絵皿を、うっかり割ってしまった時のそなたの顔。今でもはっきり覚えている」
 噛殺すような笑い声が、アルフリートの唇から漏れる。
「あまりそなたが打ちひしがれているので、私が身代わりを買って出た。私が犯人ならば、少しは大目に見てくれるかと思ったが――甘かったな。その夜は城に帰してもらえず、こってりと絞られた」
「あれでも随分加減していました。本気で怒った彼女はもっと」
「だが、私がそなたを助けたことには変わりない。それにこれは、そなたの方から言い出したことだ。必ずこの借りは返すと。私が助けを望んだ時は、持てる力の全てを尽くすと」
 アルフリートはそこでいったん言葉を切ると、今度は一言ずつ、その反応を確かめるように、シオの顔を覗き込みながら話した。
「他愛もない話だ。まだ、幼き頃の。そなたが覚えていなかったとしても、無理はない。この約で、そなたを縛れぬこともよく分かっている」
 アルフリートの目がまた左に動いた。もごもごと口元が動く。まだ見えぬ先の言葉を探り当てんとするかのように、指先でこめかみを摩る。
「そなたに、無理強いは……せぬ。私は、ただ……約を果たしてくれることを願い……それを、そなたに示した。そなたがそれを受けるか……否かは……そなたの心に、委ねる」
 上出来だ。
 シオは心の中で呟いた。
 ただ一点を、除けば……。
「――王よ」
 シオの声が、深く静かに響く。
「あの時私は申し上げたはずです。約とは命を賭しても守るべきものであると。どんなに他愛のないものであれ、遥か昔に交したものであれ」
「……シオ」
「我らにとって、約とはそういうものだったのではありませんか?」
「そうだ……そうだ、その通りだ……」
 シオは笑った。その目に、強い意志が宿る。
「陛下」
 長い衣の裾が、床に落ちて折れた。銀の房髪が、その上に垂れる。優雅な仕草で跪き、言葉を放つ。
「何なりと、このシオにお申しつけ下さい。謹んで、約を果たさせて頂きます」

 

 
 
  表紙に戻る         前へ 次へ    
  第十一章(2)・2