蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十六章 潜入(3)  
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      三  

 ユーリは懐からレイナル・ガンを取り出した。銃身の底を前に向ける形で持ち、少し下がる。狙いを定める。
 鋭く空気を震わせて、極細のワイヤーロープが天と地を繋いだ。強く引く。三度、それを繰り返す。しっかりと道が作られたのを確認すると、ユーリは軽く地面を蹴った。
 本殿の左、その壁を這い上がる。幸い、足場に不自由はない。外壁に施された装飾が、ユーリの体を支え、押し上げる。ほどなく、高さニ十メートルにも及ぶ宮殿の上に立つ。
「……っと」
 バランスを崩しかけ、ユーリはしゃがみ込んだ。立つには鋭く、身を預けるにはなだらか過ぎる屋根の縁は、幅三十センチほど。地上にあるなら歩くに全く困らないが、この高さでは心許ない。しかも、今日は大気が荒い。渦を巻きながら、潮風が容赦なく体を煽る。
 ユーリは姿勢を低くしたまま、前進を試みた。
 うん。何とか行けそうだ。
 用心深く、足を運ぶ。目的の場所が、次第に近付く。ユーリは、この屋根からの侵入を謀っていた。
 本殿の部屋は、上下階とも中庭に面しており、反対側、つまり海を臨む東側は廊下となっている。一階部分の角はコルトの手によって封鎖されているため、フィシュメル兵の大半は、二階に集められていた。廊下の突き当たり、左殿、右殿に繋がる部分に兵の七割がたを配し、キーナス兵の詰所に睨みをきかせているのだ。しかし今、キーナス兵の全ては中庭に集められ、フィシュメル兵もほとんどがそこにいる。残されたわずかな兵は、全て二階に上げられているであろう。
 よって、単に侵入することだけが目的であるなら、一階から入るのが望ましい。それを邪魔する者はいない。だが、目的の場所は二階にある。となれば、階段を上らなければならない。護衛の兵は、おそらくそこに集中しているであろう。中庭が宴で塞がれた今、国妃の元へ行くのは、通常、その経路しかない。
 階段はだめだ。
 ユーリは真っ先にそこを切り捨てた。代わって目をつけたのは、二階部分の海側に面した、二つの小さなテラスであった。中央寄りにあるこのテラスは、海に向かってせり出す形となっている。要するに、角から廊下を見通した時、そこは死角となるのだ。しかも、そのほぼ正面に国妃の部屋があるのだが、出入口が微妙にずれているため、そこに立つ兵士と、侵入した瞬間に対峙する恐れがない。
 猫のように、屋根の上を進む。テラスの上に、静かに落ちる。扉に手をかける。軽く引く。抵抗を感じる。
 ここに、鍵はつけられていないと聞いていたが。
 ユーリは細心の注意を払いながら、引く力を徐々に増していった。きしりと扉が微かな音を鳴らす。手を止める。その奥にある静寂を確認すると、ユーリはさらに扉を引いた。
 少なからずの音と共に、扉が開かれた。案の定、そこに兵士の姿は見えない。だが、まだ油断はできない。扉の物音に気付き、近付く者がいないかどうか、息を殺し、耳を欹てる。だが、それができない。
 風が……。
 荒くうねる風の音が、ユーリの聴覚を妨げる。聞こえるのはその音と、キャノマンの民の音楽のみ。
 気付かれずに済んだか。それとも……。
 ユーリは扉の縁ににじり寄った。
 ぐずぐずしている暇はない。一か八か、飛び出るしか――。
 が、前に傾いたユーリの重心は、強引に引き戻された。ばらばらと鼓膜を打つ激しい音に、彼の脳が警告を発したのだ。そしてそれが何であるかを分析する前に、自身の体を呼び戻した。壁の縁にもたれかかりながら、ユーリは空を見上げた。
 雨――?


「雨だ」
「雨だわ」
「すごい降り」
「こりゃ、ひでぇ」
 ざわめきは瞬く間に広がり、膨れ、中庭を覆い尽くした。雨を避けようと、屋根のある場所を探す。その人々の姿を、篝火のか細い光が薄っすらと映す。
 濡れた髪を払い、リーマはタクトを見た。目に入った雨のせいで、視界が滲む。その中で、タクトは一つ頷き楽器を抱え込んだ。
 これじゃあ、続けるのは無理ね。
 軽く肩を竦めながら、リーマは思った。板張りの舞台は、降り注ぐ雨と、それを弾く雨とがせめぎ合い、そこに立つ者の足を絡めとっていた。これでは十分に踊ることはできない。それより何より、観客の方が問題だ。フィシュメル側、中央の椅子には、まだダフラン将軍が深く座したままであったが、他の椅子の兵士達は、もう立ち上がっていた。バルコニーの方は分からない。仰ぎ見るには、雨が強過ぎる。キーナス側は、さらに閑散としている。並んだ椅子はいずれも空っぽで、後ろに立つ兵士達もぞろぞろと移動し、中央部分はぽっかりと穴が空いたようであった。
 あっ、騎士様……。
 空いた大きな空間の端、中庭を囲む篝火のすぐ側に、リーマは見覚えのある人影を見出した。素早くその周囲を探す。そして戻る。
 騎士……様?
 金髪の騎士の傍らに、漆黒の瞳の騎士はいなかった。
 何か……あったんだ……。
 残された騎士の、訴えかけるような表情を受けて、リーマはそう感じた。詳しいことは知らない。分かっているのは、ごくわずかだ。夜を徹し、宴を開いて欲しいと頼みに来たのは、国妃の使いでもなく、キーナス兵の指揮官でもなく、二人の騎士であったこと。そして今、その騎士の一人が姿を隠し、一人が危機迫る形相で自分を見つめていること。たった、この二つだけ。しかし、リーマにはそれで十分だった。自分が、今何をしなければならないのかを知るには、それで……。
 リーマは大きく息を吸った。後ろを振り返る。
「タクト!」
 すっと右腕を伸ばす。
「音!」
 高く上がった腕が振り下ろされると同時に、リーマの足が強く床を蹴った。寸分の狂いもなく、激しさと憂いの両方を帯びた弦がそこに重なる。踊り子の足を縛り、体を締め付ける雨を、その音で切り裂く。降りしきる雨が、怯む。
 一つの音に二つの音。三つの音に七つの音。胸の鼓動に呼吸を合わせ、吐息の波、血の流れ、打ち震える魂が、そこに溢れる。
 誰もがその瞬間、時を忘れた。心の全てを、艶やかな舞と妙なる調べに、ただ委ねた。

 

 
 
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  第十六章(3)・1