国全体を表す地図。だが、良く考えれば、必要度はそれほどない。各領地内を自由に行き来できるのは、商人、騎士、そして貴族など、一部の者だけである。その他の民には、無用の品だ。だが現実には、ディード村のような片田舎で、容易く手に入れることができる。当たり前のように、身近にある。しかも、驚くほど正確なのだ。ものによっては、随分と簡略化されていたりするが、それが精度に影響していない。シオが、分刻みとも思える作戦を立てたのも、この地図の確かさゆえである。
国、さらには大陸全域にも及ぶ長い距離を測るとなれば、恐らくその方法は三角測量であろう。原理自体は、今のキーナスに存在していても不思議はない。問題は、それに用いる測量器具だ。これだけの精度を誇る地図を作るには、当然それだけの精度を持つ器具がなければならない。キーナスの現状を考えるに、その技術の高さが唐突なのだ。やはりこちらも、消えた大陸に、解決の糸口を望みたくなる。
いずれにせよ、伝説のように語られる、旧世界の存在を示すものが、キーナスには確かに残されていた。そして、それより多くのものが、目指す地にあるかもしれない。
セルトーバ山のきりりとした輪郭を、ユーリはじっと見つめた。この地の主に会うことは、自分達にとって二つの意味がある。一つは無論のこと、ガーダの陰謀を阻止するための作戦として。そしてもう一つは、未だ深い霧の中にある、カルタスという惑星の謎を解く導として。
「さあて」
かくかくと、テッドは左右に一回ずつ首を寝かせた。
「じゃ、行きますか」
「そうですね、かなり手ごわそうですが」
「うん」
頷きながらそう言うと、ユーリはレンダムを振り返った。
「ここまでありがとう。後は、僕達で行く」
その透明な笑顔に、レンダムが不安そうな声を出す。
「お前達だけで、本当に大丈夫か? 山は険しいし、厄介なモノだっているし。やっぱりわしも、一緒に行こうか? いや、わしが付いて行くことで、やつらがヘソを曲げてもいかんし……どうすりゃいい」
心底困ったという顔つきで、レンダムは腕を組んだ。やや角張った厳しい顔が、情けなさそうに歪む。
「そんなに心配するな」
汗で張りついた額の髪を、掻きあげながらテッドが言った。
「こう見えても、そんじょそこらの人間よりは、増しなんだぜ」
口の端を、吊り上げて笑う。だが、そんなテッドに、レンダムはますます表情を曇らせた。何やら同情めいた色まで、その濃茶色の目に浮かんでいる。
「まあ、確かに」
ミクが苦笑する。冴えたグリーンの瞳で、ちらりとテッドを見やる。
「こんな疲れきった顔の者に言われても、納得いかないでしょうが」
「……お前さんねえ」
「なんとか、私達だけで頑張ってみますから」
「そうは言っても……う〜む、やはり心配だ」
まじまじと、自分の顔を見つめるレンダムに、テッドは軽く肩をそびやかした。
「なんで俺ばっかり見るんだよ。大丈だっ――」
唐突に、テッドの視界が遮られる。目の前を、右から左へと抜けたものがある。
視線を転じ、後を追う。放り出された大きな荷物。その先の崖際に立つ、落とし主。
「……ユーリ?」
「おい、どうした?」
「まさか!」
ミクとテッドの呼びかけを、レンダムの声が追い越す。ユーリの側まで走り、崖下を覗く。
「くそ、やはりキジョロか。まずいな。捕まれば、骨の髄まで食い尽くされるぞ」
「なんだ?」
二人に倣って、テッドも谷底を見下ろす。
「あれは……」
崖の側面、その下方の部分が黒く、わらわらと蠢いている。まるで影が伸びるかのように、黒い蠢きは細く、長く形を変え、上に昇ってくる。それが、虫のような生き物の群れであることは、すぐに分かった。だが、その大きさは、テッドの知る虫のレベルを超えている。足を伸ばせば、七、八十センチくらいにはなりそうだ。蜘蛛に似ているが、それよりも胴体は長く、節目がない。黒光りする体は、足と同じ硬質な色味を持っているので、それだけ見ると、蟻のようでもある。
「脅しはきくかな」
銃を構えながら、テッドが呟く。虫の群れを見据え、ミクが答えた。
「やってみなければ、分かりませんね」
「じゃ、試してみるか」
言葉尻が引き金となって、テッドの銃はその威力を解放した。光が先頭の一匹を貫く。そのまま鉈で断ち切るように、群れを引き裂きながら進む。
虫達の動きが止まった。が、それは束の間だった。薙ぎ払われた仲間の死骸を乗り越えて、群れは再び上昇を始める。光の第二波が、ミクの銃から放たれた。群れの先陣が、その餌食となる。しかし、またしても虫の侵攻を止めることはできなかった。
テッドが毒づく。
「くそっ、だめか」
「仕方ない。ここは、わしに任せろ」
そう声を上げたレンダムに、テッドは肩を竦めた。
「無茶言うな。お前さん一人で、こんなにたくさん」
「わしなら、逃げ切れる」
きっぱりと言い放ち、レンダムが斧を構える。
「わしの足なら、なんとかな。だからお前達は、早く先へ進め。わしは、やつらをできるだけ引き付けて、そして逃げる」
テッドはミクを振り返った。鋭くミクが、首を横に振る。確かめるまでもなく、テッドにもその答えは分かっていた。
このまますぐ取って返せば、レンダムの足なら、十分やつらを振り切れるだろう。だが、自分達を逃がすための時間かせぎをしてからとなると、とてもじゃないが無理だ。それを分からず、レンダムは言っているのか。それとも分かって、言っているのか。
「何をぐずぐずしている。早く、行け!」
「それはできない」
瞬間、風が言葉を発したのかと、テッドは思った。耳を掠めるように駆け抜けた声は、そのまま崖を転がるように滑り落ちた。
「ユーリ!」
後を追おうとして、ミクは止まった。足場が悪い。これでは自分の力を存分に揮えない。止むなく、銃を構える。その横で、問答無用の一撃が、テッドの銃から放たれる。
「戻れ、ユーリ! 無理だ!」
群れの右翼が、レイナル・ガンによって崩れ落ちる。一呼吸分だけ、虫の足が竦む。それに合わせるかのように、ユーリの落下が止まった。
素早く剣を抜き、地に突き立てる。しっかりとそれを右手でつかみ、体を急斜面に預けるようにして踏み止まる。その姿勢のまま、ユーリは左手をキジョロの群れに翳した。距離にして、ほんの数メートル。ユーリと虫とを隔てる空間が張り詰める。黒光りするキジョロの足が、こそりと動く。