蒼き騎士の伝説 第三巻                  
 
  第十八章 それぞれの道(3)  
            第十八章・2  
 
 

 

      三  

 染み出した汗が、べっとりと肌に不快な感触を吸いつかせる。這うように登る山肌。すでに道はない。鋭い傾斜が、容赦なくユーリ達の体力を削ぎ落とす。
 息が上がる。逆に、目線は下がる。山の中腹までは、その目的地たる頂きを見据えていたが、今はただ、岩と土だけが視界を占めている。あれから、どれほど登ったのか。距離感も、時間の経過も、もう分からなくなっていた。
 背負った荷が、肩に食い込む。鎧から解放された分、身は軽くなったが。雪山への備えがぎっしり詰まった荷物は、それ以上の重みをユーリに課していた。
 不意に、体が浮く。先を行くレンダムの太い腕が、がっしりと肩をかかえ、上へと引き上げる。前方を覆うように支配していた山肌が、消える。
 ユーリは鼻と口の両方から、澄んだ空気を吸い込んだ。そしてそれを、大きな感嘆に変換しながら吐く。美しくも恐ろしい気高き乙女。すらりと天に向かって一際高く聳える山を、ユーリはそう感じた。
「あれが、セルトーバ山だ」
 乱れのないレンダムの声が響く。
「あの頂きに、ドラゴンがいる。ブルードラゴンが」
「ブルードラゴンの山……」
 テッドは呟くように、そうキーナスの言葉で言った。いや、正確には、そのうちの半分だけがそうだ。忠実に発音を辿って言いかえれば、テッドの呟きは「アルクス・ウィン・ナーム・メロアルア」となる。この「ナーム・メロアルア」を除いたところだけが、キーナス本来の言語であるのだ。
 ここカルタスにも、言葉は多数存在していた。あらかじめユーリ達が学んだ、六種類より遥かに多く。そしてそれらは、その言葉を持つものの歴史、地理的状況に応じて、互いに関係し合っていた。
 例えば、キーナス、フィシュメル、オルモントール。同大陸の中に密接した状態で位置する三国は、その言語にほとんど差はない。少々訛を強くした、というレベルの違いしかない。一方、同じ土地に住みながら、ラグルなど他種族の言葉は、まったく違う。地続きでありながら、ほとんど交流を持たなかった過去が、そこに伺える。
 反対に、地理的に離れていても、同種族同士の結びつきは深い。アルビアナ大陸の人間と、ユジュール大陸の人間とでは、はっきりと言語に違いがあったが、交流を通じて、言葉の幾つかが海を渡っていた。異国の言葉が、そのまま自国の中に定着していく。すなわち、外来語としてそれらは残っていった。そして、その主たるもの、キーナスにおいて最も多く残されている異国の言葉に、パルメディア語があった。
 遥か昔、パルディオン山脈のさらに北、今はトルキアーナ海と名を変えた場所に、大陸パルメドアはあった。セルトーバ山の住人を、自国の言葉を使わず、パルメディアの言葉を用いて表すのは、この位地関係にある。
 聞いたところによると、セルトーバ山は、もともとアルビアナにはなかったという。それが、なにがしかの大きな地殻変動でパルメドアが沈み、逆に海の底がせりあがり、アルビアナ大陸と融合してできたのが、パルディオン山脈であるというのだ。なるほど、地図で見るとその地形は、斜め上から強い力で叩きつけられたかのような形をしている。実際まだ目にしたことはないが、海岸線には切り立つ岩壁が聳えるように連なっているそうだ。
 それほど大きな地殻変動となれば、恐らくアルビアナ、さらにはカルタス全体に大きな影響を与えたであろう。しかし今、その傷跡は残されていない。遥か昔、と人々が語るように、それは古代の世界にまで遡るものと考えられる。少なくとも、旧世界と呼ばれていた、その時代まで。
 となると、一つ面白いことがある。コンパス、つまりは羅針盤のことだが、この言葉もキーナスでは自国語を使わない。パルメディアの言葉で話す。そうなると当然、言葉の示す物体が、パルメドアにあったということになる。少なくとも中世レベルの文明を、数千年、あるいは数万年の単位の昔に、パルメドアは持っていたというわけだ。
 このことを裏付けるものは、他にもある。例えば書物の普及度。この世界、少なくともキーナスにおいて、活版技術はまだ確立されていない。本は、全て人の手による写本である。本来なら、そのような状態で、書物が大量に出まわることは難しいはずだ。しかし実際は、町や村の、ごくありふれた家に、当然のように置いてある。
 つまりこれは、写本の技術を持つ者が多いことを示している。要するに、識字率が高いのだ。ただこの理由を、学問に力を入れているこの国ならではこそ、と結論づけるのは早計である。教育と呼べるものを受けることができるのは、一部の特権階級か、卓越した才を見出された者など、ほんの一握りにしか過ぎない。にも関わらず、多くの人々は字を読み、書く能力を持っている。立派な学者に教えてもらわなくても、木こりの親父や、宿場のおかみなどが、知っているのだ。彼らから、その知識を受け継ぐことができるのだ。
 こうなると、ある仮説を打ち立てたくなる。その昔、活版技術を有した文明があったのではないか。その時、広く書物が普及し、人々は字を覚えた。そしてその文明がまるごと失われ、何もかもが灰になった後、今の文明が築かれた。
 あまりにも、虚夢的な話ではある。しかし、思わずそう空想させてしまうものが、もう一つ存在していた。今、自分達が手にしている地図だ。

 
 
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  第十八章(3)・1