蒼き騎士の伝説 第三巻                  
 
  第二十章 サルヴァーンの攻防(1)  
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 <サルヴァーンの攻防>

      一  

 口の中が、やたら乾く。粘着性のある唾を、苦労して呑み込む。その音が異常に大きく響いたように感じ、若い騎士は顔を強張らせた。
 緊張が四肢の動きを妨げる。注意しなければ、片側の手と足とを同時に出してしまうような気がして、そこに神経を使う。自分でも、ぎこちない歩き方になっていることを意識する。その自覚が、なお一層強く騎士を縛る。
 降り注がれる視線も、騎士にとっては重圧だった。もちろんそれは己ではなく、自分の後ろに向けられていることは分かっていたが。それでも、気が安らぐことはなかった。
 廊下を突き進む。すれ違う兵士の目に、二つの表情がほぼ同時に浮かぶ。憧れをも交えた尊敬の眼差しと、嫌悪をも含んだ驚愕の眼差し。そして皆が皆、生涯これほど背筋を伸ばしたことなどないであろうというくらい、全身を引き攣らせて敬礼する。
 若い騎士は、その兵士達を羨ましく思った。彼らは、自分達が通り過ぎさえすれば、緊張から解放されるのだ。たまたま今日、あの時間、あそこに立っていた自分と違って、彼らは……。
 まったく、運がいいのか悪いのか。
 ふと、そんなことを思い、気が緩む。左足に伴って、左手が前へ行こうとしているのに気づき、慌てて騎士は修正を施した。
 この日彼は、サルヴァーン城の門前に立ち、警備の役を負っていた。タルス門と名付けられたこの門は、高く長い城壁で隔てられているオルモントール側の反対に位置し、マクレットの街の方を向いている。しかし、警備兵の目に映る景色は、どちらの方向を見ようと、さほど変化はない。街をぐるりと囲んでいるのは、やはり高い石組みの壁。マクレットの街を守るため、そして万が一にもサルヴァーン城が突破された時の最後の砦として、街はそのような造りとなっていた。
 それでも、オルモントール側と違って、マクレット側はどこかのどかな風情がある。城と街とを繋ぐ、子供の足でも百歩とかからぬ道の周りには、この地本来の姿である森が広がっているのだ。密に木々が生い茂り、見つめていると、不意に何かが飛び出てきそうな錯覚に囚われるが、実際には、たまに小動物がちらりと顔を見せる程度で、極めて穏やかだ。獰猛な動物も、あるいはグルフィスのような狂暴な種族も、この森には住んでいない。
 よって、門の警備を仰せつかった兵士は、視界の両端を彩る緑に心を和ませつつ、道の先にある街の門に注意を払う。ところが、これもそう長くは緊張を保てない。街道に面している、街の西側にある門に比べ、この城が終着点となる南の門は、その用途が限られている。日に二、三度、何がしかの物資を城に運ぶため、開かれるに過ぎない。時には、終日閉められたままの場合もある。どんな微細な動きも見落としてはならぬ、オルモントール側の見張りと比べると、楽で安閑とした仕事だ。
 しかし年齢と、その性格とから、若い騎士はこの任務が与えられたことを、不運に感じていた。漲る体力も気力も、ここにいては空回りするだけだ。思わず口から溜息が漏れる。その音が、繰り返されるたび、大きくなる。
 騎士は、特大の溜息をつくため、肩を後ろに引き寄せながら、大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいに、澄んだ空気が行き渡る。そのまま、止まる。納められた息を吐き出すことも忘れ、目の前の光景を凝視する。
 それが何かは、すぐに分かった。しかし、ひどく表面的な部分で止まっており、心の底で認知ができない。
 いるわけがないのだ、こんな所に。あるわけがないのだ、こんな光景が。アルフリート王が、我が国王が、ラグルを引き連れて森の中から飛び出してくるなどということが、起こるわけが……。
 廊下を曲がる。曲がるとは、どのような動作であったか。妙に背を反り返しながら、なんとか方向を変える。その騎士の目に、慌しく駆け寄る人物が映る。
 良かった。これで、もう……。
 解放を確信した瞬間、緊張の糸が切れる。右手を振り出すと同時に右足を着地させた状態で、騎士は立ち止まった。
「陛下!」
 城の主がそう叫んだ。その声に押され、ふらふらと騎士が横に身を引く。
「久しぶりだな。ドレファス将軍」
 壁に寄りかかるように立つ騎士の目前で、黄金の髪が揺れた。白磁の肌に埋め込まれた、リルの鉱石のような瞳が、ゆっくりとこちらを見る。
「案内、ご苦労」
 ぎゅんと騎士の背筋が伸びる。まるで鋼と化したかのように、堅く肘を張り、拳を胸元に置く。
 視界の中で、時が動いていたのはほんのわずかであった。声が遠ざかり、足音が遠のき、辺りが静寂に包まれてもなお、騎士の目は、対面の壁を見据え続けていた。

 

 
 
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