蒼き騎士の伝説 第三巻                  
 
  第二十章 サルヴァーンの攻防(2)  
            第二十章・1  
 
 

 

      二  

「あやつめ、横着しおって」
 アルフリート王より将軍へ手渡されし手紙、それに目を通した瞬間、ホム・レンツァは唸った。
 見覚えのある、まるで幼子が書いたような甥の筆跡。一言、『人とは学ぶ生き物なり』、と書かれた手抜き具合と共に、その決して美しいとはいえない文字も、彼にとっては舌打ちの材料であった。
 甥よりも濃い銀髪を揺らし、首を振るホムに、王が微笑む。
「まったくだ。詳細はここになどと言っていたから、期待したのだが」
「ですが、的は射ていますな」
 まだ、苦虫を噛み潰したかのような表情の腹心に代わって、ドレファス将軍が言う。
 口調と同じく、穏やかな顔。目尻には、年相応の皺が刻まれ、それがさらに優しげな表情を作っている。しかし、少し奥まった位置にある榛色の目は、どうかすると、猛禽のような鋭さを帯びることがあった。
 ドレファス将軍の目に、鋭利な光が宿る。
「それにこの策であれば、表向き、偽王の命にも従う形を取れます」
「うむ」
 アルフリートが力強く頷く。
「確かに、最も有効な手と言えよう。よし、これで行こう」
「はっ」
 王の到着から、わずか半時、サルヴァーン城は動き出した。


 ハルトの城は緊張に包まれていた。
 キーナスがフィシュメルに向かって進軍を始めたことは、すでにつかんでいた。それに合わせ、兵を増強する。近隣の村や町から、とりあえず戦えそうな者をかき集める。もちろん、オルモントール王都、ベルーバからの援軍も要請する予定だが、それをただのんびり待っているわけにはいかない。機があれば、持てる兵力でサルヴァーン城を落とす。ここを落とせば、ブルクウェルまで彼らを止めるものはない。カナドール、ノランの領地は、現在、もぬけの殻だ。
 随分と甘くみられた、というより馬鹿にされた思いが、ハルト城の主、グストールの角張った顔を苦々しく顰めさせた。そして今、彼の怒りは頂点へと達した。
「何だと?」
 怒声が鞭のようにしなって、空気を打つ。
「もう一度、言ってみろ!」
「はっ」
 恐怖で顔を上げることすら叶わぬまま、一人の兵士が大理石の床に向かって声を張り上げた。
「一昨日、街道を通らず、ドマーニの森を抜けようとした不審な一行を襲撃しましたところ、このようなキーナス王の親書を携えておりまして。そこに、今すぐフィシュメルに向けて進軍せよと――」
「たわけが!」
 グストールの声が、また激しく周囲を震わせる。
「サルヴァーン城を空にするだと? 我がオルモントールに尻を見せて、フィシュメルに対するだと?」
「しかし、現にここに――」
「見せろ!」
 震える手で兵士が差し出した書状を、グストールは鷲づかみにした。連ねられた文字を読む。兵士の言葉に、嘘はなかった。だが、もしそれだけなら、ただちに書状を破り捨て、兵士にもう一度罵声を浴びせるつもりであった。
 心理作戦、あるいは陽動作戦として、嘘の情報を流すことは、過去何度もある。戦争は、先陣同士がぶつかり合った時に始まるのではない。むしろそれは、終わりに近い。いかに有利な状況で戦いを始めるか。それが、勝利を導く最も重要なことであり、そのために、まず智恵の絞り合いで争うのだ。
 もっともらしい偽情報、中には虚を衝く意向で、およそ信じがたい噂が乱れ飛んだりもした。が、これほどまでのは初めてだ。まともな神経の持ち主が、真剣に考えたものとは思えない。そこに、戦略家の影はない。これは単に、相手の心を煽り、乱す、性質の悪い悪戯だ。そんなものを、いちいち自分のところに持ってくるとは。その愚かさ加減を、グストールはきつく叱責するつもりであった。書状に連なる文字の中に、エルティアランという言葉がなければ。
「むう……」
 低く唸ったきり彫像と化したグストールを、兵士はちらりと上目遣いで見た。とりあえず、目の前の嵐が去ったことに安堵する。しかし、気持ちは晴れない。事態の深刻さが、心を塞ぐ。もうすぐ、大きな戦いが始まる。その発端となった、出来事を思い起こす。
 サルヴァーン城のすぐ東、高い城壁の向こうにあるケムプという小さな町。唯一、商人に限り、オルモントールの者の出入りが許されているこの町に、部下を引き連れ、潜り込んだのが、ちょうど一ヶ月前。もちろん、商売などのためではなく、密偵としてだ。
 キーナス兵の監視をかいくぐり、すぐにドマーニの森に身を隠す。そこで、ルンドラ、ベートンなど、北の町に散った仲間からの情報を待つ。それらを元に、サルヴァーン城の動向を探るのが、彼の役目であった。
 森での潜伏は、楽ではなかった。常に周囲の音に怯え、見つからぬよう気を張り続けた。命を繋ぐ苦労もあった。狩りをしたり、火を使ったりするわけには当然いかず、食べる物に困窮し、木の根をかじるようなことも、しばしばだった。
 しかし、それもこれも、報われれば忘却の彼方の存在だ。ブルクウェルより来たという奇妙な商人が、ルンドラの町を超え、街道を避け森へ入った――という情報がもたらされた時、彼は小躍りして喜んだ。
 報告によると、その一行は、四頭立ての大きな荷馬車に乗っていたという。全部で三人。しかし、町に着いても商家には寄らず、真っ直ぐ宿に入ってしまったらしい。旅のつれづれ、酒の一つを嗜むこともなく、そこに引きこもる。そして、まだ朝もや煙る中、町を出たのだそうだ。
 ただ、先を急ぐ旅。それだけでも十分怪しいが、さらに男達の風貌が、仲間の目には訝しく映った。目深に帽子を被り、口元を薄布で覆い、ぎらついた目だけを覗かせている。いずれもがっしりとした体つきで、どう考えても商人の姿ではない。
 兵士は部下と共に、森で息を潜めて待った。まず耳が、その存在を知覚する。そして目が、徐々に近付く荷馬車を捉える。
 兵士は心の中で、仲間を称えた。
 間違いない、あれはキーナスの兵士だ。おそらくは、ブルクウェルからの密使――。

 
 
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  第二十章(2)・1