蒼き騎士の伝説 第三巻                  
 
  第二十一章 氷壁の乙女(1)  
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 <氷壁の乙女>

      一  

 小さな電子音が、雪洞の中で響く。最小のボリューム設定が為された控えめな音は、まずミクだけを起こした。パルコムに手を伸ばし、アラームを止める。淡い緑色の光が示す時間は、午前三時。
 起き上がる。懐からペン型のライトを取り出し、光量を絞った状態で傍らに置く。まだ夢の随に遊ぶユーリ達のために、できるだけ物音を立てぬよう、そして踏みつけぬよう、注意しながら外を伺う。
 ざくりと、頭上で音が鳴る。ジェンスという獣の皮の上を、雪が流れ落ちていく音だ。昨夜、雪壁を削り、なんとかみなが横になれるスペースを確保した後、出入り口と床にこれを張った。リンデンが持たせてくれた物の一つだが、油分をたっぷり含んだ分厚いジェンスの毛皮は、大いにその威力を発揮した。
 ミクは出入り口を塞ぐ、その濃灰色の毛皮を、少しだけめくった。すかさず冷気が、鼻頭を叩く。風と雪とが追い討ちをかける。
 今日も荒れたままか。
 心の中で、そう舌打ちをしたミクの背に、野太い声がかかった。
「う〜ん」
 ペンライトの仄かな光の中で、レンダムの頭がもそりと動く。
「もう、朝飯の時間か?」
 目を瞑り、口だけをもごもごと動かす姿に苦笑しながら、ミクは答えた。
「天気に問題なければ、その時間なのですが。もう少し後になりそうです」
「……う〜む」
 不満そうに唸ると、レンダムは寝返りをうった。すぐ横のテッドを抱え込む。今まで隠れていたユーリの姿が露となる。
 まったく、このレンダムがいなければ、今ごろどうなっていたか。
 そろりと寝床に戻りながら、ミクは思った。
 まず、三人だけでは、これだけのジェンスを運ぶことができなかっただろう。もちろん、雪山を登る以上、何枚かは必須アイテムとして持っていく覚悟を決めていたが、せいぜいみなが小さく固まって座る分しか考えていなかった。重さからすると、それでも無理のある量だったのだ。
 あの時、テントを置いてこなければ……。
 キリートム山の洞窟で、積み上げられたジェンスの毛皮を見ながら、ミクはそう後悔した。ユーリも、テッドも、きっと同じ気持ちであっただろう。エターナル号を出た直後は、森の中をさ迷い続けることを予想して、それなりの装備を背負っていた。しかし、ディード村に着いた時点で、三人は大幅に荷物を整理した。そこから先は、村や町、それらを巡る旅になると思ったからだ。まさか、このように、追われるような旅になるとは。ましてや雪山に挑むようなことになるとは、思いもよらなかったのである。
 この後悔を、エターナル号まで遡ると、もうきりがない。今一番欲しいものはなんだろうか。服については、やや重いのが難点ではあるが、ジェンスのマントが寒さを防いでくれている。形は無骨だが、同じ毛皮の帽子、手袋と、それなりのものをリンデンが用意してくれたので、よしとしよう。しかし、ゴーグルがないのは辛い。靴も、素朴な材料で作られた、いわゆるスノーシューの類を付けてはくれたが、本格的なものに較べると、やはり劣る。他にはコンロ、コッフェル、十分とは言えない食料もだ。エターナル号にある携帯食なら、軽くて、しかも栄養価の高いものが揃っている。さらに登攀用具となれば、もっと果てしなくなる。そして、薬。
 高度はすでに三千メートルを超えていた。軽い高度障害が出てもおかしくない高さだ。今のところ特に誰にも異常は見られていないが、これから先どうなるかは分からない。予防薬でも飲んでいれば、少しはその危険を回避できたであろうが。もし、高山病となってしまったら、対処法は下に降りることだけだ。つまりはそこで、旅の終了となる。
 仮にそういう事態を乗り越えたとしても、楽観視はできない。すでに相当、疲労がたまっている。急斜面の連続で、一歩歩くごとに全身を使わなければならない。ピッケル代わりの小さな斧で、目の前の雪を掻き落とし、それを膝で踏みつけてから、ようやく足を出す。疲れてくるとどうしても踏み込む幅が小さくなり、体重を乗せた瞬間、元の場所に戻ってしまう。同じところで、足掻く破目となってしまう。
 そんな中、唯一の救いは、失われた体力を回復するために、横になって眠れたということだ。無論、場所に恵まれなければ、ジェンスの毛皮も宝の持ち腐れとなってしまうのだが。それでも、レンダムの価値は変わらない。彼の体は大きく、そして暖かだった。
 黒々とした毛に覆われたレンダムの腕と胸は、今、テッドが独占している。背中はユーリのものだ。残るは、太い二本の足。ミクは、その右側に、寄り添うような形で座った。
「……う……ん?」
 ユーリの体が動く。少しだけ頭を上げ、まだ開かない目を手で擦る。指先ではなく、軽く拳を握ってぐるりと回すように動かすので、なんだか猫が顔を洗っているみたいだ。
 くすりと笑い声を立てる代わりに、ミクが囁く。
「すみません、ユーリ。起こしてしまいましたね」
「おはよう、ミク……」
 ようやくユーリの目が開く。
「もう、時間?」
「いえ。残念ながら、動くのは大分後になりそうです」
「天気、今日も悪いんだ」
「ええ」
 ミクは頷いた。
「ですから、もう少し寝ていて下さい。私はこのまま、様子を見ていますので」
「じゃあ」
 まだ眠そうな目を瞬かせて、ユーリは言った。
「三十分だけ。もし、その時まだ天候が悪くても、起こしてくれる? 交代するから」
「分かりました」
 ユーリの黒髪が、再び沈む。そのまま、ことりとも動かなくなる。まだ疲れが相当残っていることを、その姿が証明する。
 体のことを考えれば、三十分とは言わず、もう少し眠っておくべきなのだけど。
 ミクの額に、小さく皺が寄せられる。
 焦る気持ちが、自然と外を伺わせる行為となる。否定的な強い風の音を耳にしてもなお、ジェンスの毛皮をめくり暗い闇を確かめる。荒れ狂う吹雪はなくとも、夜明けはまだ遠い。それでもミクは、できるだけ早く出発したかった。
 理由は一つ。セルトーバ山の寒さが、思ったより甘いのだ。もちろん外は一面の銀世界で、夜ともなれば、相当の防寒を施していても、たちまちのうちに体温が奪われてしまう。しかし日が昇り、徐々に山肌を照らしていくに従って、温度は大きく上昇する。冷えきった体には恵みの太陽だが、雪にとっては敵だ。太陽が天頂に昇る頃ともなれば、山は寒さとは別の牙を向けてくる。そうなると、もう動けない。いつ、雪崩れが起きるか分からない斜面を、登ることなどできない。
 一度は、ルートを変える案も出た。南側からではなく、東、もしくは西に回り込むのはどうかと。しかし両側とも、南に比べて傾斜が急なため、断念した。場所によっては、七十度を超える角度がある。そんな氷壁を、何の装備も持たず登ることなど不可能だった。一方、北面は比較的緩やかだったが、こちらは逆に寒さがネックとなった。それに、反対側に回り込むだけの時間もない。
 我々にとって最大の敵は、時間です。
 キリートム山の洞窟で、そうシオが言っていたことを思い出す。
 一分、一秒でも早く、ここを出たい。
 しかし、このミクの願いは、叶えられなかった。結局、朝日と共に出発した一行が、目に痛いくらいの白さを誇る大斜面に辿りついたのは、太陽が真上に昇ろうとする時だった。

 
 
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