蒼き騎士の伝説 第四巻 | ||||||||||
第一章 砂の街(1) | ||||||||||
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「――痛っ」
蹲り、手を押える。その隙に、少年が逃げる。
歯型に沿って血の滲む傷痕を睨み、テッドは呻いた。
「あの……ガ――」
「うわっ!」
鋭い悲鳴が、人ごみの向こうで上がった。視界を塞いでいた人垣が、左右に千切れるように分かれる。
「もう逃がさんぞ」
開いた空間の中に、男が二人立っていた。鮮やかな真紅の外衣には、金糸で模様が描かれている。衣の裾から垣間見えるのは、この地独特の大振りの剣だ。ただの住民が、剣など持つことは許されていない。恐らくは、この街の衛兵。領主の息のかかった者。その男達が、伏して転がる少年を、テッドの手に歯型を刻み込んだあの少年を、踏みつけ、蹴飛ばす。
「盗人が、どういう処罰を受けるのか分かってるんだろうな」
口元に、にやりと笑みを浮かべながら、一人が少年の懐を探った。
「あっ」
サナが声を上げる。
「あれ、わたしの――」
そう言って、衛兵の左手に握られた皮袋を見つめる。しかし、サナのその声に気付かなかったのか、衛兵は皮袋の重さを確かめるように二度手を揺らすと、それをそのまま自分の懐に納めた。
立ち上がる。腰の剣に手をかける。抜く。
「やめ……ろ……」
少年が呻いた。その小さな肩と腕を、もう一人の兵士が押えつける。
「おい――まさか」
テッドの呟きが、息を呑む音に変わる。平たく、三日月型に反った剣が、少年の腕を落とさんと、鈍く光を放ちながら落ちる。
「あっ」
思わずサナは目を閉じた。サナだけではなく、遠巻きに囲み、見るともなしに一部始終を見物していた者達も、顔を背ける。彼らの鼓膜を、強い音が打つ。だが、想像していたものより、それは高かった。肉を裂き、骨を断つ音ではない。金属と金属がぶつかる、かち合う音。
サナは目を開けた。少年の体をかばうように、蒼いリャンがある。衛兵の剣が、その肩を抉っている。もし彼が、この地の者なれば、そこから血飛沫が高く上がっているだろう。いや、自分も同じだ。テッドもミクも、もちろんティトも。外衣の下に、鎧でも着込んでいない限り。
「貴様!」
鎧に阻まれた剣を、衛兵は再び振りかざした。今度はそれを斜めに払う。妨害者の首元を狙う。
「ユーリ!」
ミクの叫び声が、方向を変える。真っ直ぐに進まず、上へと上る。視線がそこに、ぶれたからだ。弾かれた三日月の剣が、空高く上り、ゆっくりと落ちるのを見やる。
「まずいわ」
サナが鋭く言う。
「ユーリったら、剣を」
鞘に納められたままではあったが、三日月の刃から逃れるために、ユーリは剣を翳していた。こうなったら、いかなる言い訳も通用しない。衛兵に、領主の兵に、この国で絶対的な権力を持つ者に逆らった、反逆者である。いや、そもそも、あのスリの少年を助けたところで道は閉ざされていた。
組み伏せられていた少年が、衛兵の手に噛みつく。弾けるように起きあがり、ユーリと睨み合う兵士の向こう脛を蹴り飛ばす。そしてその懐からしっかりとサナの皮袋を奪い返し、脱兎のごとく走り去る。
噛み付かれた兵士が、銀の呼び笛を吹いた。
鋭い音が、辺りに響く。すぐに他の兵士達がここに駆けつけるだろう。もはや彼らの対象は、姿を消した少年などではない。
ミクが叫ぶ。
「ユーリ! 逃げ――」
その声を、サナが引き継ぐ。
「逃げるわよ!」
「逃げるったって――」
ティトを引っつかみ、サナの細い腰に腕を回しながらテッドが言う。
「どこへ?」
「あそこ!」
テッドに抱えられた拍子に、目に飛び込んできた路地を、サナは指差した。
まず、ミクが反応する。続いてテッドが走る。まだ向こう脛を抱えて蹲る兵士を、ひらりと飛び越えたユーリが、テッドからティトを受け取る。背後に、「待て!」と怒声が迫るが、後ろを振り向く余裕はない。飛び込んだ路地は、大人一人通るのがせいぜいの幅だ。曲がりくねっている上に、障害物も多い。雑然と置かれた壷やら箱やらが足元を掬い、道をまたぐように吊り下げられた大きな布が、視界を塞ぐ。逸れぬように、テッドはミクの、ユーリはテッドの背を追うのが精一杯で、すでに方向は分からなくなっていた。
「おっと」
急ブレーキをかけたミクに、テッドがぶつかる。
「なっ」
「戻って下さい」
くるりと身を翻し、鋭くそう囁いたミクの肩越しに、テッドはその先の開けた一角を見た。
衛兵だ。四人いる。まだこっちに気付いていない。と思った瞬間、申し合わせたようにその兵士達がこちらを見た。
「いたぞ!」
と叫ぶ声と、
「戻れ!」
と、テッドがユーリを怒鳴りつける声が重なる。
再び路地に逃げ込む。ひたすら走る。壷を蹴飛ばし、箱を踏みつけ、顔にかかる布を、時に引きずり落としながら駆ける。
「あっ」
急に立ち止まったテッドに、ミクは体のバランスを崩した。軽くテッドの背を押すような形で止まる。
「テッド?」
「いない」
「えっ?」
「ユーリが」
しかし、そう言って振り向いたテッドの目には、風にはためく白い布しか映らなかった。
「――ミク?」
問いかけた声が、押しつぶされる。強い力で羽交い締めにされ、そのまま体を引きずられる。
「こっちだ!」
どやどやと、衛兵達が路地を踏み荒らす。しかしそれは、壁に埋め込まれるように取り付けられた小さな扉が、そっと閉められた後だった。