蒼き騎士の伝説 第五巻                  
 
  第十章 質実の都(2)  
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「わあっ」
 という言葉を、ユーリは音を立てずに吸い込んだ。肌を刺す寒さを一瞬忘れる。
 なるほど、どうりで明るいわけだ。
 廊下に一歩踏み出し背の後ろで紙戸を閉めると、ユーリは目の前の景色を眺めた。一面、雪化粧の施された庭に、感嘆の白い息を吐く。
 雪はもう止んでいた。漆黒の空には二つの月とたくさんの星が、明るく輝いている。その光が白い地上を淡く照らす。静謐なる世界を、時の流れから切り離す。
 ユーリは息を潜めて、それに魅入った。微動だにせず佇む。もし今自分が動いてしまったなら、この世界は崩れてしまうのではないか。あたかも水鏡に映る風景のように、波紋の向こうに消え去ってしまうのではないか。そんな危うさが、そこにはあった。
 冷気を吸い込む。深くそれを肺に沈める。目を閉じ、そして再び開ける。
「……あっ」
 ユーリの唇から、小さく音が漏れた。その音に促されでもしたかのように、ばさりと庭が音を立てる。梢に積もった雪が地に落ち、空気を軋ませる。
 人気のない庭の一角に、影があった。正確には庭ではなく、ユーリの立つ場所と同じような、外廊下に佇む者の姿があった。この美しい中庭はL字型に建物で囲まれており、ユーリ達が滞在する棟の左側にせり出すような形で別棟がある。その棟のところに、ほんのりと青みがかった細い影があったのだ。現在ウル国を訪問中のもう一組の賓客、シャン国王夫妻が逗留する棟の外廊下に。
 あれは、シャン国王の妃……。
 ユーリは、月と雪とに照らされた人物を見つめた。
 誰の目も気にする必要のない深い時間だというのに、王妃は宴の席と同じく、頭からすっぽりと大きな純白の布を被っていた。帽子とはまた違う。顔の上半分ほどを隠す形となっていて、ある種ベールのような役割を持っているようだ。実際、終始シャン国王の妃はその姿で、人前に顔を晒すようなことはなかった。ベールの下からわずかに垣間見えるのは、いかにも上品そうな唇と小さめの小鼻、そして明らかにシャン国の人間とは異なる肌の色。黒に近い、艶やかな褐色。体をしっかりと巻き包むようなデザインの衣ゆえ、他には首筋と、指先のみで認めることができた色だ。宴の席上で、妃はイフーラ国の姫君であるとウル国の王が紹介してくれたが。そのイフーラ国がカルタスのどの辺りにある国かまでは、聞きそびれた。
 一言、挨拶をするべきか。
 真っ直ぐに顔を正面に向けたままの国妃を見やり、ユーリは迷った。こちらには気付いていないようだ。ベールの陰から見据えているのは、恐らく庭の片隅にある枝ばかりの木。今は雪だけがその身を飾っている、あの老木であろう。もっとも、実際瞳に映っているかは定かではない。頭と顔半分を覆う妃の布は、昼の光の下であれば少しは物を透かすだろうが。星と月と雪明りだけでは、布は視界を塞ぐ役しかしないであろう。それにもう一つ、心がある。
 不思議なほど、国妃から気を感じない。ここのところ力が不安定であるため、はっきりと断言はできないが。心ここにあらず、というより、どこかにその心を置き忘れでもしたかのような、虚ろな印象だけが伝わってくる。
 ユーリは声をかけることを諦め、ただ静かにそこで一礼をした。ゆっくりとした動きで後ろを向く。滑らせるように足を前に出し、部屋に戻ろうとする。
『誰か……』
 呼びかけられ、ユーリは足を止めた。振り返り、国妃を見る。
『わたしを……』
 透き通るような静寂が、ユーリの鼓膜を圧迫する。目の前の世界に音はなかった。聞こえてくる声は、直接胸に響いていた。
「あの」
 思わず出した声に、また雪の落ちる音だけが答える。
 ユーリは妙な胸騒ぎを覚え、眉をひそめた。国妃は押し黙ったまま、ぴくりとも動かない。心に聞こえた声も、もうない。あれは錯覚だったのか。にしては、落ち着かない。今も、何かに急き立てられるように、心がざわついている。
『誰か……わたしを……』
 何度も何度も、言葉が木霊する。微かに感じたその音が、胸の内で反復するたび大きく膨らむ。膨れて、ユーリを混乱させる。
 この気、どこかで――。
 みしりとユーリの足元が音を立てた。無意識のうちに踏み出した一歩が、空間の膠着を崩す。迷わずユーリは二歩目を前に出した。しかし、柱に沿わせた左手が、体に急ブレーキをかける。国妃の背後に変化を認め、立ち止まる。
 するりと開いた紙戸の向こうに、シャン国王の姿があった。この庭を覆う雪よりも冷たく、蒼みを帯びた白い肌が、月明かりの下に一歩進み出る。その顔が、こちらを向く。
 闇のような瞳だと、ユーリは思った。そこに何をイメージするかは、人それぞれであろう。暗く、恐怖を覚える者もあれば、むしろ優しさを連想する者もいるかもしれない。だが、いずれにせよそれは深いものだ。果てしない、ゆえに底を見出すことのできない、未知なるものだ。
 その目がきらりと輝く。そして伏せられる。
 深々と、シャン国王が礼をした。傍らの国妃も同じように一礼をする。
 ユーリは姿勢を正し、頭を下げた。おもむろにそれを上げた時、すでにシャン国王夫妻は、こちらに背を向けていた。国王の右腕が、国妃の腰の辺りにそっと添えられている。仲良く連れ立って、自室に帰る。
 ユーリは自分も戻ろうとして驚いた。掌に、びっしょりと汗をかいている。
 自覚のない間に、自分は何を感じたのか。
 しかしその時、ユーリは答えを見つけることができなかった。

 

 
 
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