蒼き騎士の伝説 第五巻 | ||||||||||
第十一章 神の宿る山(1) | ||||||||||
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人足、及び薬師の選考に難儀した要因は、このヤスゼ山にあった。古くから霊峰として名高いこの山は、標高こそ千百メートル足らずと、際立って大きいものではないが。傾斜は厳しく、全体がうっそうとした森となっていたため、長く踏み入る者を拒み続けた。しかしおよそ二百年ほど前、ゼア教宗派の一つであるレンエン宗の信者達が、頂上近くにあるオロンジの滝を臨む場所に社を建て、これをレンエン宗本山と定めた。
確かにゼア教はウル国において、信者も多く、最も親しまれた宗教であった。しかし一神教であるこのゼア教は、国の創世時からあったものではない。およそ九百年ほど前に、今はトノバスに迎合されたクアロナ国から伝えられしものだ。それまでは、ウル国民にとって神とは、自然にあるもの全てであった。ヤスゼ山もその一つ。ゼア教が伝えられし後も、ずっと山はその土地に住む人々の守り神であった。そこへ、別の神がある日突然踏み入ったのだ。
ふもとに住む村人はもちろんのこと、都人に至る広い範囲で一つの噂が流れる。いずれ霊峰ヤスゼ山が、怒りに震える日が来るのではないか。聖域を土足で踏み荒らす者どもに、制裁が加えられるのではないかと。そしてその予言めいた噂は、わずか十年を待たずして的中した。
重い色の雲が立ち込める。尋常ではない風が吹き、雷光が煌く。ぽつぽつと、はっきりと粒を感じる雨が降り落ち、それが瞬く間に滝と化す。声を振り絞っても、隣りに立つ者と話ができないくらい、強い音が周囲を包む。
だが、このような嵐は、過去何度もあった。ただ今回は、その後の展開が大きく違った。
一両日もすれば嘘のように青空を見せる天が、五日過ぎても雨を降らし続ける。二日ほど耐えれば静まる風が、七日経っても吹き荒ぶのを止めない。そして八日目、荒れ狂う天地に眠れぬ夜を過ごすオサノガセ村に、悲劇が訪れる。
まず、ヤスゼ山の頂きに、鋭い光が走った。その光景を、まるで天から光の玉が落ちてきたようだと言う者もあれば、銀の龍が空を駆け昇ったようだと言う者もいた。いずれにせよ、大地を砕くような音を伴い、光は家の中にいる者達をも明るく照らし、呑み込んだ。いや、実際に呑み込んだのは光ではなく土砂であり、濁流であったわけだが。恐らく今も、この嵐で命を落とした者達は、自分が何に呑まれたのかも分からぬまま、地の底で眠っているに違いない。
こうしてオサノガセ村を水没させた嵐は、九日目に幻のごとく消え去った。もしこの大きな天災が、ここだけの話であったのなら、レンエン宗はわずかに生き残った村人の恨みをかうことはあっても、勢力を衰退させるまでには至らなかったかもしれない。災いは、オサノガセ村だけに終わらなかった。
都を始め、ウル国東部一帯が水に浸かった。家屋が崩壊するなどの実害に加え、疫病の蔓延、農作物の全滅による飢饉と、被害は尾を引き続けた。あげく、時の権力者ヤオトマ・イムス王の急逝により、後継者闘争が始まると、国はますます困窮を極め、混乱した。そして時代が変わる。
現国王ユズムラ・ガシノムの先祖は、この時国の頂点を極めた。元は北の小さな豪族であったという。壊滅状態の東部の民を救うべく、周辺の豪族と協力し合い、物資を援助し、家を無くして流れてきた者を受け入れた。その民の後押しを受け、都に乗り込んだのだ。
ユズムラ家に逆らう者などなかった。前政権を握っていたヤオトマ家及びその所縁の者は、ことごとく都から追放され、旧体制は国の隅々から排除された。レンエン宗が失墜したのも、この時だ。社地は全て没収され、今では南部に二つほど、その流れを汲む小さな社があるのみだという。以来、ヤスゼ山は再び静けさを取り戻し、今では年に一度の祭りの時以外、人は不用意に踏み入らぬようになった。多くの犠牲者を出したオサノガセ村の生き残り達によって、深夜、手に松明を持ち、一切言葉を交わさずオロンジの滝を目指す。俗に、『沈黙の祭り』と呼ばれるラエバの祭りの時以外は。
テッドは、風よけも兼ねた編笠を引き上げ、山を見据えた。王より山に立ち入る許可は貰った。もともと、踏み入ってはならぬという厳格な掟があるわけではない。実際ふもとの民も、薬草やら野草やらを取るために、山に入ることがあるのだという。だが、都で同行者を募った際、多くの者が山へ行きたがらなかった。過去の経緯だけではない、もう一つの理由が他にあったのだ。
十ヶ月ほど前、西の夜空が燃えたという。光の玉が落ちてきた、あるいは銀の龍が空を駆けたと言う者もあった。光はちょうどヤスゼ山の頂上近くに落ち、空を明るく焦がした。
雨が降るのか、風が吹くのか。それとも大地が揺れるのか。
その時から三百日以上が過ぎたというのに、まだ声を潜めてそう噂する者は多かった。迂闊にヤスゼ山に踏み込んで、万が一にも都に、村に、何より己自身に、良からぬことが起きないと誰が言いきれよう。
「三百日……か」
ふもとから、わずかに登っただけであるのに、もう道がないことに溜息をつきつつ、テッドは思った。
三百日、正確には三二一日。カルタスに来てから、もうそんなになるのか。
深い感慨を、荒い息で遮る。滑り止めを施したにも関わらず、なお危うい足元に神経を集中させる。ギノウがすかさず、「大丈夫ですか」とかけた声に、テッドは俯けていた顔を上げた。
祟りだの迷信だの、そういう類のものをギノウは信じていない。かといって、目に見える事象のみに囚われているわけでもない。物だけではなく、きちんと人を、心を見ることのできる若者だ。その彼によれば、目的の場所まで丸一日はかかるとか。先の長さに思いやられながらも、テッドはギノウとの旅ももう少しで終わりになることを、寂しく思った。