蒼き騎士の伝説 第五巻                  
 
  第十四章 不実なる真実(1)  
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 恐らくあのウリアノは、喉も犠牲にしたのだろう。彼の耳障りなしわがれた声は、そこを焼いた証に相違ない。焼かれたのは、肌も同じ。きっと全身が爛れているのだろう。実しやかに流れる話では、爛れた肌がかさかさに乾き、まるで蛇の鱗のようになっているとのことだが。男には、なまじそれが出鱈目には思えなかった。あの黒い布帯の下から、蛇の皮が覗いたとしても、何の不思議もないように思えた。
 ぶるっとその身を震わせる。引戸の隙間から、妖気が染み出てくるような感覚を覚え、首を竦める。見据えるうちに見えないそれが、もったりと鎌首を掲げ、体に絡み付くやもしれぬ。そんな恐怖に囚われ、男は慌てて引戸から視線を外した。
 振り返る。そしてまた、軽く肩をすぼめる。
 とにかくウリアノは不気味だ。その感覚とは少し異なるが、主君も畏怖の対象だ。もちろん、単に身分が理由なわけではない。あの目が、そう、先ほども、人ならば白い紙戸しか認められないであろう場所に、先の景色を透かし見たあの瞳が、恐ろしい。
 主君として、人として、王に微塵も不満はない。激情に駆られることもなく、傲慢でもなく。かと言って冷淡でもなく、狡猾であるわけでもない。だが、それら主君の性質を、永遠不滅のものであると信じきれない己がいる。どこか得体の知れない思いを抱いてしまう。
 そしてそれは、その伴侶も同じ。
 男は、おもむろに頭を下げた。顔を床面に向けたまま、低い声で呟く。
「お加減は、いかがでございましょうか」
 わずかばかり間を置き、顔を上げる。
 答えは待たなかった。待っても返って来ないことを、男は知っていた。病を理由に午前、午後と両方の儀式を欠席した国妃は、床には伏さず、部屋の奥で静かに座していた。夜の宴にはお出になるとあらかじめ聞いていたため、驚きはない。だが、病が快方に向かって良かったと、手放しで喜ぶ気にはなれなかった。
 横たわっていようが、こうして背筋を伸ばして座していようが、彼の国妃に対する印象は同じだ。弱い。なんとも弱い。力のことではない。命の強さが足りない。生気というものが、ひどく薄い。
 ゆえに、こうして身を起こした国妃と対面する方が、男は気味が悪かった。人形と、あるいは死者と、相対するような感覚に寒気を覚えた。
 とはいえ、存在感のない相手なら、男は身近に一人を知っている。一時ほど前、久しぶりに姿を現した、兄だ。彼も不思議と現実感がない。その特徴をかわれ、これまで密使、密偵といった役目を、何度も仰せつかった。今回も、旅の途中でウリアノに何事かを囁かれ、身を晦ませていた。一体彼にどのような任務が課せられたのか、弟といえども知る由もないが。「全て順調」ということであるらしいので、それはそれで構わない。
 男はそっと、右の眉尻に手を添えた。兄にはそこに、大きな黒子がある。かなり目立つ。ゆえに、彼と対面した誰もがそこに目を向け、他の印象を薄くする。黒子は覚えていても、目、鼻、口、顔の輪郭、いずれの特徴も見落としてしまうのだ。
 ただし、兄の黒子は取り外しがきく。要するに付け黒子だ。外してしまえば、兄の顔は誰にも知られぬものとなる。弟である自分ですら、人ごみの中で見つけるのに苦労する。事実今日も、見事な模範試合の観覧を終え、帰路につく人でごった返すアカゾノ殿門前で、そっと自分の名前を呼ばれるまで気付かなかった。はるばる地方から見物にやってきたといった風情の旅人が、実の兄であると、直ぐに分からなかった。
 眉に宛がっていた手を、膝に下ろす。静かな時が、またとろとろと過ぎる。居心地の悪さに、息苦しさを感じる。
 声など聞いたことのない、顔など拝んだことのない、命ある者として、何がしかの意思ある姿を未だかつて見たことのない相手と、一体いつまで同じ部屋で過ごさねばならぬのか。花冷えする日であるにも関わらず、掌にじわじわ汗が滲んでくるような状態を、後どれだけ続けなければならないのか。
 早く、あやつが。
 促すように、庭に面する紙戸を男は見た。
 自分の目では、外を見通すことはできない。もっとも王が透かし見た庭は、この北側ではなく東側に位置するものとなるわけだが。どちらにせよ、さほどの大きさはない。わざわざ降り立ち、散策するほどの広さはない。
 一体キーナスの騎士は、そこで何をしているのやら。
 男の口から溜息が漏れる。紙戸ではなく脳裏に騎士の姿を映す。
 思えばあの騎士も、どこがつかみどころのない風がある。特に瞳は、王と同じく底が知れない。だが、主君と違い、不思議と恐れを感じない。単に主従の関係ではないというだけでは説明できぬ、大きな差を男は感じていた。
 見つめるうちに、時にずぶずぶと足元から闇に呑まれるような錯覚を起こさせる主と違い、あの騎士の目は喩えるなら、夜空だ。手を伸ばせば届きそうに感じる星々が、実は高く、果てしなく遠いのだという空しさを覚えるものの、拒絶感はない。逆に、優しく抱かれるような寛大さを持っている。王と対面している時は、自分の醜く、愚かな面ばかりが意識されるが、かの騎士の前では、驚くほど心が穏やかとなる。もっとも、あの騎士に面と向かったことは一度もなく、あくまでもそれは想像に過ぎないのだが。男はそんな風に、キーナスの騎士を捉えていた。
 あの騎士も、確か宴に……。
 紙戸から視線を外す。仄暗い座敷の中で、そっと思う。
 この国とも、今宵限りか。
 一抹の寂しさを胸に覚えながら、男は抗うことのできぬ時の中に、再び深く身を沈めた。

 

 
 
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