蒼き騎士の伝説 第六巻                  
 
  第十九章 古の都(1)  
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 波の合間に人の姿がある。ただし、垂れた犬のような耳が付いており、口元が妙に突き出ている。あひるか、カモノハシか、そんな動物を思い浮かべながら眺める内、最も不可思議な形に行き着く。下半身が、魚のようだ。もし、事前にある知識を持っていなければ、ユーリはそれを空想上の生き物と即断したであろう。
 もしかして、あれがヌンタル。
 実際に見たことはないが、レリーフに描かれている他の彫刻から考えるに、その姿は極めて正確であろう。少なくともこの街に住んでいた者達は、物事を忠実に描き伝える性質であったと言えるだろう。これが言葉の上でも同様だとしたら、月まで届こうかという天空塔の存在は、そう事実とかけ離れたものではなく――。
 ユーリの思考がいったん停止する。あまりのレリーフの見事さに、しばし動きをなくしていた視線が、ようやく先に進んだところで固まる。
 薄靄の中に、影があった。日差しでも翳ったのかと思い、上を向く。微かな風が霧を払う。柱に囲まれた広場の中心で、聳え立つ物が露となる。
 塔の頂上を見ることは出来なかった。意識を風と同化させ、駆けるように石壁を伝い上ったが、果てを極める前に気持ちがぶれた。何気なしに、後ろを向く。下界を見る。
 遥か下に、あの柱が建ち並んでいた。大きな広場の四方には、白い石の波。波の数はそれぞれ七つ、そして。
 ユーリの唇から吐息が漏れる。
 外に広がっていたのは、緑の森でもなく、砂浜でもなかった。あるのは、巨大な正円。白ではなく、深い青を示す石が敷き詰められている。
 あれは、リルの鉱石。
 直感的に、そう悟る。ハンプシャープの離宮にある中庭の、数十倍もの規模のリルの海は、直径およそ一キロメートルといったところだろうか。ちょうど南北を示すラインの端に一つずつ、小さな建物が小島のように浮かぶ他は何もない。そこに、どのような意味が込められているのかまでは分からないが、一つだけはっきりしていることがある。それはこの塔が、二つの建物が、何より巨大なリルの海が。恐ろしいほど孤独であるということだ。
 正円は、まるで宙に浮かぶかのように、険しい山の頂きに造られていた。円の先には刃物で荒く削ったかのような岩肌が、ほぼ垂直に落ち込んでいる。頂上から千メートルほど過ぎた辺りにぽつぽつと緑が現れ、傾斜が少しだけ落ち着く。白い大きな建物を挟む形で、さらに千ほど降りたところに集落があり、その後少なくとも二千の距離を下ってようやく山のふもととなる。そこから先に、広がるは大地。街が、道が、草原が。姦しいまでの命の音を奏でる。むせかえるような活気が、パルメドア大陸全体を包んでいる。
「あっ」
 情景が、また揺れる。熱砂の向こうに立ち昇る陽炎のように、朧となり消える。
「今のは……」
 やけに明瞭な緑を瞳に映し、ユーリは一言を漏らした。最初に踏み入った時と同じ姿で広がる、ウクット島の森を見やりながら息を吐く。
「今のは、幻影?」
 誰に尋ねたわけでもない、自身への問いかけ。だが、思いがけずユーリはその答えを得る。そっと左腕に絡められた、温かな感触に真実を悟る。
「これは――君の記憶」
 フェルーラの頷く仕草が、ユーリの肩をくすぐる。
「じゃあ、君は昔ここに?」
 フェルーラの首が、今度は横に振られる。そっと、囁くような声が放たれる。
「わたしが見たのは、別の場所」
 耳で、フェルーラの声を捉えたのは初めてだった。高くもなく、低くもなく、ただひたすらに透き通った優しさのある音だった。
 不思議な懐かしさを覚えながら、ユーリが少女の言葉を復唱する。
「別の……場所?」
「山の中で」
「山の中?」
「セルトーバ山の中で、わたしは見たの。たくさんのことを。このパルメドアのことも」
 静かに少女の唇が閉じられる。その心までが、固く分厚い扉の向こうに消える寸前、ユーリは叫んだ。
「ま、待って――待つんだ」
 少女の真正面に向き直り、その両肩を優しく抱く。
「僕にも全部見せて欲しい。独りで、抱え込まずに」
 フェルーラの目が一度伏せられ、潤んだ光を放ちながらユーリを見る。
「大丈夫だから、僕は。だから、君の抱えている記憶の全てを、僕に――」
 フェルーラの瞳が、さらに濡れる。その、赤葡萄色の奥の不安定な揺らめきに、ユーリは再び心を合わせた。

 

 
 
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