何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  第四章 喪失の森  
               
 
 

 

「ざまあねえな」
 そう、カイは呟いた。返ってくる言葉はない。
 森へ入って間もなく、彼は仲間と逸れてしまった。辺りを見渡す。まだ霧が深い。視界は三歩も進まぬ先で、閉ざされている。
「確か、あのへんてこな光玉は、物を通して輝くって言ってたな。霧ってのも、物になるのかどうかよく分からんが、試してみるしかないか」
 カイは適当に視線を定めると、声を放とうと口を開けた。そこで、止まる。
 さて、誰の名前にしよう?
 首を捻る。
 キャンディは? よりによってわたしの名前を呼ぶな、と会った瞬間、殴られそうだな。じゃあ、ルウ。いや、あのガキは妙に好かない。まさか、あんたが迷子になるとは思わんかったなあ、などと、かったるい声で言われるのはご免だ。となるとクロノス? それともニコル? 向こうが迷子になってるならいいが、この俺があいつらに助けを求めるってのも、なんだかなあ。
 大きく開けた口から、溜息が漏れる。どうも自分が助けられる立場にあるというのが、納得いかない。しかし、うだうだしていても、埒があかない。
 しょうがねえ、キャンディで行くか。
 カイは大きく息を吸い込んだ。
「兄ちゃん!」
 不意に背後から声をかけられ、カイはそのまま息を止めた。振り向く。止めた息を呑む。並んだ二つの小さな顔を、凝視する。
「兄ちゃん」
「カイ兄ちゃん!」
「トバ……マルラ……」
 呆然と、うわごとのようにそう呟いたカイの元に、少年と少女が駆け寄る。
 なんで……?
 膝をつき、両腕でしっかりと抱き締めながら、呻く。
 なんで……?
 トバの短く刈り上げた茶色い髪と、マルラのしなやかな栗色の髪に、顔を埋める。
 もう……もう、死んでしまったのに――。
 腕が、抵抗を失う。はずみで、その腕が自身の体を抱く。風を感じて、カイは顔を上げた。転じた視線の先に、ぼろ布が二つ。
 違う。
 カイは苦しげに目を伏せた。
 あれは、骸だ。トバと、マルラの……。
 カイの弟と妹は、まだ幼い頃、飢えて死んだ。遺体を包んだ布が、まるで何も含んでいないかのように痩せていたのを、今でもはっきりと覚えている。
 あの時、自分がもう少し大きければ……。
 悔やんでも悔やみきれない思いが、胸を締め付ける。
 痩せた畑から出来損ないの芋を盗むのも、金持ちの館に忍び込み、腐りかけた残飯を掠めるのも。きっと、もう少し上手くやれただろう。いや、それよりもっと、確かな方法。スリやかっぱらい、強盗だってできたはずだ。相手を殺すことだって、厭わない。十分に大きければ、俺はやった。自分の命を繋ぐために、幼い弟や妹の命を消さないために。そこに、罪はないはずだ。生きるために殺す、そこに間違いはない。楽しむために命を弄ぶような奴らに比べたら。
 言い知れぬ怒りが、カイの心を襲う。はっきりとその中に、影を見る。
 貧しいのは、カイだけではなかった。村の誰もが飢えていた。荒れ放題の畑、枯れた土地。昔はそうでなかったという。それほど、遠い話ではない。先代の領主が健在であった頃、カイの住んでいた地は豊かだった。その時はまだ、息子、ゲルラッテン・グランダの狂気を、父が押さえ込んでいたのだ。
 しかし、先代の死後、領主となったゲルラッテンを止める者はいなかった。若き領主は、狩が好きだった。巧みに獲物を追いつめ、一撃で仕留める。通常は、その過程に喜びを感じるのだが、ゲルラッテンの場合は少し違った。彼は、獲物が絶命する瞬間、草むらに横たわり、荒い息を吐き、目を剥いて死に絶える姿に喜びを感じた。あらゆる動物の死に様が、彼に幸福を与えた。そして、彼が最も好んだ獲物が、領民だった。
 お付きの者を従えて、ゲルラッテンが領地を駆ける。共に黒い鎧を身に纏い、黒い馬に乗っている。丘の向こうにその影が立ち並ぶのを見つけると、領民達は急いで家の中に隠れた。この狂気の集団には、彼らなりの決まりがあったのだ。
 ゲルラッテンは、家に逃げ帰った者を、引きずり出すようなことはしなかった。巣穴に戻った獲物を、燻し出すのは趣味に合わなかったらしい。しかし、逃げ遅れた者には容赦がなかった。馬で威嚇し、とことん追いつめる。諦めて動こうとしない者は、鞭で打つ。逃げて、逃げて、傷だらけとなって、一歩も動けなくなり倒れるまで狩る。
 そしてようやく、じわじわと殺されるのだ。肉を削がれ、骨を割られ、切り刻まれて、捨てられる。最期の最期まで、苦痛の中で息絶える。
 一体誰が、そんな死に方を望むだろう。
 領民は、当然のごとく、みな自分の家に閉じこもった。だが、それでは生きていけない。決められた量の作物を領主に納めなければ、待っているのは同じ惨い死だ。黒い騎士の影に怯えながら、畑を耕す。十分に気を配ることのできない作業は、徐々に土地を痩せさせる。その先で、また別の死の手が彼らを招く。飢えて、萎んで、ぼろ布に包まれる、そんな死。
「くそっ!」
 胸の内に込み上げる憎悪が、カイの口をついて出る。霧の中の影に向かって走る。馬に乗った死神。そこに、背の大剣を振り下ろす。
 影が霧のように散り、カノートが鈍い音を立て地を突いた。
「うっ」
 カイの両手が震える。反動に痺れたわけではない。堅い地面を打ちつけた抵抗はなかった。むしろ、柔らかい肉を裂いたかのような感触が、手の中にある。
「な……なに?」
 カイは体勢を崩し、よろめいた。ずぶずぶと足元が沈む。引き上げた剣から、血が滴り落ちる。
 辺り一面、血肉の海。その臭いにむせ、その色に吐き気を覚える。
「お前も、俺と同じだ……」
 聞こえてきた声に、顔を上げる。霧が再び、影を作る。ゆらゆらと揺らめき、カイを嘲笑う。
「これが、お前の望んだ世界だ。お前が作った世界だ」
「違う!」
 叫ぶカイの膝が、ずぶりと血肉の海に埋まる。
「俺は、こんな……こんな」
「私が憎いだろう? お前の母を狩ったこの私が」
 どろりとどす黒い血が、カイの腰の上で波立つ。
「共に狩った、他の騎士達も許せぬだろう? お前の母のことを密告した輩はどうだ? あの村に美しい女がいると。危険も顧みず、子供のためによく働く女がいると。自分の命と引き換えに、そう私に告げた男が憎くないのか?」
 カイは両腕に力を込め、カノートを頭上高く振り上げた。刃を伝って落ちる雫が、カイの顔を赤く染める。
「憎いだろう、お前の母を見殺しにした村の者達が。その母を救わんと飛び出した、お前の父を見捨てた者達が。親を失い、食うものも食わず、お前の弟と妹が死に行く様を黙って見ていたあやつらが」
 影が千切れる。千切れて目の前に迫る。
「さあ、殺せ! お前の望むまま、その剣をふるえ! この世の全てを打ち砕け!」
「くそおおおおおぉ!」
 カノートが煌き、空気が甲高い悲鳴を上げた。

 

 
 
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  第四章・2