何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  第四章 喪失の森  
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 クロノスは慌てて背後を見た。深い霧の彼方に目を凝らす。折れた耳を精一杯立て、澄ます。
 悲鳴が聞こえたように、思ったけど……。
 顔を強張らせ、外套の襟を強く左手でつかみ、クロノスは前に向き直った。
 一体、いつ、どこでみんなと逸れたのか。
 気付いた時には、自分だけだった。急に辺りが寒くなったように感じて、ぶるっと震える。小声で呟く。
「みんな、どこにいるんだ? ニコ――」
 クロノスは、吐き出そうとした息を、逆に呑み込んだ。霧の中に、形を見出す。駆け寄ろうとして、踏み止まる。
 ニコルじゃない。キャンディでもない。カイでもルウでもない。でも――。
 知っている……。
「クロノス」
「……ライ……ラ……」
 喉の奥だけで鳴らした声は、割れて掠れて外に出た。くすっとライラが笑う。緋色の頭巾から、はずみで金茶色の耳が覗く。自分とは違う、ぴんと立った、可愛らしい耳。
「どうしたの? クロノス」
 宝石のような緑色の目が、じっとこちらを見据える。
「変な顔して」
 ライラはそう言うと、またくすっと笑った。いつものように、少し俯き加減で、はにかむように。
「会いたかったわ、クロノス」
 ライラは一歩、足を前に出した。そしてもう一歩。
 クロノスの顔が、蒼ざめる。
「ねえ、どうしたっていうの? クロノス。なんで、そんな顔をするの?」
 だって……。
 クロノスは、後ろに下がりながら胸の内で呻いた。
 だって、君の足は……俺のせいで、俺があの時……。
「ええ、そうよ、クロノス」
 ライラの声が、見る見るうちに冷える。
「あなたのせいで、わたし」
 ライラの姿がぐらりと揺れる。揺れて、霧と同化する。その霧が、忽然と晴れる。
 美しい森が広がる。だがそれは、クレモンチスではない。ラッフルの森。クロノスが生まれ育った村の先に広がる、小さな森だ。目に映る景色はもちろん、小鳥の囀り、流れ聞える川の水音。全て記憶にあるものばかりだ。懐かしさが、心を満たす。その中に、身を沈める。
 あなたのせいよ。
 水音が、そう囁いた。思わずクロノスは、両耳を押さえた。俯き、蹲る。だが、それでも音は入ってくる。体の芯に、響いてくる。
 あなたのせいよ、あなたのせいよ、あなたの――。
「きゃははっ!」
 高く転がる子供の笑い声に、クロノスははっとして顔を上げた。ふらふらと、歩き出す。見覚えのある小道、目印用に傷のついた、赤茶色の木。そして……。
「クロノス」
「ライラ」
 きらきら光る川のほとりに、ジェンカの白い花が咲き乱れる。その上で寝転ぶと、甘い香りがふわっと立ち込める。土の湿った匂いも、仄かに混じっている。
 ちょこんとライラが傍らに座る。折れたジェンカの花が、鼻先と頬をくすぐる。小さなクロノスは、また笑い声を上げた。
 ライラはクロノスの、唯一の友達だった。垂れ耳のクロノスは、いつも仲間外れだった。ライラだけが、そんな彼と仲良くしてくれた。いじめっ子のボットが凄んでも、意地悪セトがライラまでのけ者にしようとしても、彼女は怯むことなく敢然とこう言った。
「わたしはクロノスが大好きよ。大切な友達に、意地悪するなんて、許さない」
 小さな体のライラは、いつも相手を見上げていた。クロノスに対してもそうだ。大きな緑色の目で、上目遣いに見据えながら、
「わたしがクロノスを守ってあげる」
 と、笑った。
「俺も……」
 小さなクロノスに合わせて、クロノスが呟く。
「俺も、ライラが大好きだ。ライラは俺が守ってやる。約束するよ。ずっと俺がライラを守る」
 弾けるような笑い声が、風のように動いたのを受けて、クロノスは凍り付いた。
 だめだ!
 そう叫ぶ。だが、なぜか声が出ない。
 だめだ……そっちへ行っちゃ、だめだ!
 体が動かない。指一本、動かせない。視線だけで追う。小さなライラと自分を追う。
「見て見て、クロノス。あの木」
「大きいなあ」
「ね、競争しようよ。どっちが先に、あのてっぺんまで行けるか」
「うん……でも、ライラ、危なくない?」
「あっ、クロノス。怖いのね」
「違うよ、俺は」
「先、行くわよ」
「あっ、ライラ」
 何をしている!
 クロノスは、強く奥歯を噛んだ。
 早く止めろ! 止めるんだ!
 小さな自分に向かって叫ぶ。豊かな枝を張った、大きな木に向かって走る。だが、それは気持ちだけであった。体は主の心を無視して、ぴくりともしない。ただ、見つめることだけを強制する。
 太い枝にまたがるライラ。追いすがる小さな自分。ライラは笑い声を立て、さらに上へと逃れる。
 まだ若い枝にかけたライラの足が、見上げる小さなクロノスの目の前で、ずるりと滑った。花の色をしたライラの服が、視界の中を縦に過る。
「ライラーーー!」
 悲鳴を上げたのは、小さなクロノスか、それとも今の自分か。
 辺りが急速に翳る。暗闇の中、ライラの声が木霊する。
 わたしは、クロノスが大好きよ……。
 あの事故以来、ライラには会っていない。何度家を訪ねても、会わせてもらえなかった。当然だ。ライラの足は、もう使うことができなくなった。ずっと一生、歩くことができなくなった。あの日、自分と一緒に遊んだために。あの日、自分と一緒に木登りなんかしたために。
 せめて、一言謝りたかった。でも、そのうちライラ達は他所の土地に移り、それっきりになってしまった。
 ごめんよ、ライラ。全部……俺のせいだ。俺が、あの時……。
 そうよ……。
 ライラの声が、また響く。
 あなたのせいよ……。
 目の前の闇が動く。動いてライラを模る。自分をじっと見据えるライラの目が、凍るような光を放ち、クロノスは思わず震えた。がたがたと、大きく体を揺らす。
「ライラ……俺……」
「嘘つき」
 鋭い音が、小さな唇から放たれる。
「わたしを守るなんて、嘘。できもしないことを、なんで約束したりするの? あなたはいつもそう。昔も、今も。嘘つき、嘘つき、嘘つき、クロノス」
 クロノスの両頬に、涙が伝わる。
 もう、言葉はなかった。ただ項垂れ、俯き、針のようなライラの声を、クロノスはじっと浴び続けた。

 

 
 
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